第34話 潮目を変える

 日付が変わろうという時間にも関らず、イリスの屋敷では多くの人が出入りしていた。


 ナルキッソスがフィナンシェに現れてから、初めてナルキッソス本人を目撃したという一大事件を聞きつけた憲兵たちが、大所帯で現場検証と近辺の捜索を行っていた。


「ふぁ~、眠いわね~」

「……全くですね。現場検証なんか明日でもいいでしょうに」


 夜遅くに叩き起こされ、眠そうに目を擦り続けるイリスにエーデルが同意する。


「何を言っているんだ。ロイは今もナルキッソスを追いかけているかもしれないんだぞ! そんな腑抜けた態度でロイに悪いと思わないのか?」


 捜査に非協力的なエーデルを、プリムローズが窘める様に注意する。


 怒り顔で詰め寄ってくるプリムローズを見て、エーデルがうんざりしたように嘆息する。


「はぁ……そういう台詞は、少しは役に立ってから言って欲しいわね。ナルキッソスを追いかけたけど、相手の魔法にやられておめおめと帰ってきた癖に。それに……」


 エーデルは、薄汚れた上着一枚のみというプリムローズの全身を指差して鼻で笑う。


「百歩譲って相手が一枚上手だったとしても、あんたの格好は何? 殆ど裸じゃない。いつから鮮血の戦乙女様は、痴女の露出魔になったのかしら?」

「う、煩い。こ、これは、こここれはな……うわあああああん!」


 エーデルに抜け駆けしてロイに夜這いをかけようとしていた。などと言えるはずもなく、プリムローズはエーデルの疑惑の視線に耐えかねて館の中へと逃げるように去っていく。



「フン、どうせロイに夜這いをかけようとしたんでしょ」


 しかし、そんなプリムローズの浅はかな考えは、エーデルにはお見通しだった。


「あれ? 二人して何してるんだ?」


 プリムローズの姿が館の中に消えると同時に、クロクスとの会談を終えたロイが戻って来る。


「あっ、ロイ……」

「ロイ君!」


 エーデルが飛び出すより先に、イリスが飛び出して帰ってきたロイへと駆け寄り、彼の胸へと飛び込む。


「んなっ!?」


 イリスの予想外の行動に、完全に出遅れたエーデルは口をあんぐりと開けて固まる。

 エーデルのことなどお構い無しに、ロイに密着したイリスは猫なで声で語りかける。


「も~う、ナルキッソスは放って置いていいって言ったのに、怪我までしてるじゃない」


 イリスはロイの腫れた頬に手を当てると、自分が痛めたかのように泣きそうな顔になる。


 そんな心優しき年上の女性の姿に、ロイは気丈に笑ってみせる。


「大丈夫ですよ。こんなのは怪我のうちにも入りませんから。それに、その甲斐あってそれなりの収穫がありました」

「収穫……まさか、ナルキッソスを捕まえたの?」

「いえ、ナルキッソスを捕まえるのは止めにしました」

「はい?」


 まさかの方針転換の発表に驚くイリスに、ロイは自信に満ちた目で話す。、


「ですがナルキッソスとある約束を取り付けました。ですからイリスさん。すみませんがフィナンシェ王と面会したいので段取りを整えてもらえますか?」

「え? どうして?」

「皆が笑顔で暮らせるようにする為です。ですから、どうかお願いします」


 ロイはイリスから体を離すと、腰を折り曲げて「お願いします」と繰り返す。



「ロイ君……わかったわ」


 イリスはロイの真摯な態度を見て、鷹揚に頷く。


「でも、王様の予定もあるから、急いでもらうけど、いつになるかわからないわよ」

「はい。充分です。どうかよろしくお願いします」


 ここから事件は一気に動き、最終的には皆が笑って過ごせるようになるはずだ。


 冒険者たちの明るい未来を想像して、ロイは心からの安堵の溜息を吐く。


「ところで、ロイ君。ナルキッソスに会ったなら、盗られた物は取り返してくれた~?」

「……………………あっ」


 イリスの言葉に、ロイはピタリと動きを止める。

 完全に失念していた。その言葉は語らずとも、ロイの顔が如実に物語っていた。




 王との謁見を取り付けるまで、五日かかった。


 その間、グラースはロイとの約束を守り、ナルキッソスとしての活動は一切しなかった。


 ロイも憲兵から幾度となくナルキッソスの正体について話すように説得されたが、決して首を縦に振らなかった。



「いよいよか……」


 約束に日になり、ロイはグラースとの待ち合わせ場所となる街の広場へと来ていた。


 ロイの隣にはいつも通りエーデルと、ナルキッソスを城に出迎える為に憲兵をまとめるカーネルが来ていた。


 プリムローズは今日は騎士としての仕事があるので、この場にはいない。


「さて、ナルキッソスは本当に姿を見せるのですか?」


 約束の時間から既に三十分ほど経つが、一向に姿を見せないナルキッソスにカーネルが諦観したように口を開く。


「まさか、ここまで来て怖気づいたとかありませんよね?」

「来ますよ。ナルキッソスもこの国を……自分の暮らしを良くしたいと思っているはずですから」

「そうですな。いやはや、わたくしとした事が浅はかでした」


 ロイの言葉に、カーネルは自分の過ちを認めて頭を下げる。

 しかし、ロイには言わないがカーネルは内心焦っていた。


 王との謁見時間には限りがあるのだ。


 このままナルキッソスが姿を見せないと、カーネルの苦労も、ロイの努力も全て水泡に帰してしまう可能性があった。


 どうか一刻も早いナルキッソスの登場を願う。


 カーネルが祈りにも似た面持ちで目を伏せたその時、


「待たせたな」


 ロイたちの前に遅れてきたにも拘らず、ふてぶてしい態度のグラースが現れた。

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