第28話 眠れぬ夜に潜む者

 その日の夜、ロイは中々寝付けないでいた。


 いつナルキッソスが現れるかわからないのに、おちおちと眠れるはずがなかった。

 イリスは何もする必要はないと言っていたが、ロイは大人しく従うつもりは毛頭なかった。


 真面目に仕事に励んでいるイリスが堕落した貴族のように扱われ、ナルキッソスの標的にされるのが許せないというのもあったが、噂の怪盗に罪を重ねて欲しくないというのもあった。


 罪は重ねるだけ償うのが大変になる。


 ロイとしては一刻も早くナルキッソスを捕まえ、できるだけ穏便に事態を解決したいと思っていた。


 しかし、ナルキッソスはいつ現れるかわからない。

 毎晩寝ずの番をしてナルキッソスを待つ、というのは到底無理だった。


「…………ああ、クソッ!」


 ベッドに入ってから結構な時間が経つのに、脳内に思考が渦巻くので全く眠れない。


 苛立ちを少しでも紛らわそうと思ったロイは、水でも飲もうと思ってベッドから出る。

 館全体は既に寝静まっている時間で、風も凪いでいる今宵は静寂が辺りを支配していた。



 ロイは、自身の脳名地図と月明かりを頼りに、炊事場を目指して廊下を進む。

 すると、


「ん?」


 廊下を曲がった先の向こう、大きな扉の前で何かが動いたような気がした。

 ロイは咄嗟に気配を殺すと、息を潜めて廊下の先を窓越しに凝視する。


「…………」


 暫く様子を伺ったが、何かが潜んでいるような気配は感じられない。


 勘違いか? そう思って身を起こそうとすると、


「……ロイ?」

「――っ!?」


 突然、後ろから声をかけられた。

 思わず出かかった声を、口を押さえてどうにか堪えたロイが後ろを振り返ると、心配そうにこちらを伺うプリムローズが立っていた。


「何だ、プリムか……」


 仲間の登場にほっと胸を撫で下ろしつつも、万が一に備え、声を潜めて辺りに注意を払いながらプリムローズに話しかける。


「どうしたんだ。そんな格好で……」


 見上げるプリムローズの格好は、いつもの質素なデザインの寝巻き姿……ではなく要所を隠しただけの薄い下着同然の姿だった。


「え? あっ、これは……」


 扇情的過ぎる姿をまじまじとロイに見つめられ、プリムローズの顔がみるみる朱に染まっていく。


「その……エーデルが完全に眠りに落ちたから、チャンスだと思って……」

「チャンス? 何がだ?」

「何って既成事実をつく……って違う! 決してロイをよば……むぐぅ!?」


 狼狽したプリムローズが大声を出しそうになったので、ロイは反射的にプリムローズの口を押さえて壁へ押し付ける。


「ほひぅ!? ふ、ふぐぅ!」


 壁に押さえつけられ、息が掛かるくらいの距離にロイの顔があるのを認識したプリムローズは、さらに動揺して逃れようと暴れ出す。

 ロイは暴れるプリムローズを必死に押さえながら、声を殺して耳元で囁く。


「プリム落ち着け! 今、ナルキッソスが侵入しているかもしれないんだ」

「へ? はふひっほふふぁ?」


 ナルキッソスの名前を聞いて、プリムローズが正気を取り戻す。


「確定じゃないけどな。だが、用心するに越したことはない。だろ?」


 ロイの言葉に、プリムローズは顎を引いて首肯する。


 プリムローズが落ち着きを取り戻したのを確認したロイは、手を放すと、二人で壁際に身を潜めて影が動いた扉を注視する。


 そのまま数分、二人で息を殺して扉を見守っていると、扉に変化が訪れる。


 風も吹いてないのに、音もなく扉が開いたのだ。


「まさか本当に!?」

「まだだ。まだ、姿を確認していない」


 今にも飛び出して行きそうなプリムローズを、ロイは手で制しながら前を見張る。

 扉は開いたままだが、中から誰かが出てくる様子はない。


 しかし、変化は着実に起こっていく。


 扉が閉まったと思ったら、今度は窓が開く。


「なんで、どうして?」


 自体が把握できず、混乱するプリムローズだったが、


「チッ、そういうことか……」


 何かを察したロイが目の前の窓を開け放つと、縁へと足をかけて外へ飛び出す。



 地上三階という高さをものともせず草の上に着地したロイは、近くに落ちていた棒を拾うと、棒を逆手に持って背中に隠すように構える。


烈風剣れっぷうけん!」


 腰を限界まで捻った姿勢から、気合の掛け声と共に溜めた力を一気に解放する。

 ロイが放った技は、つむじ風となって庭の草木を撒き上げながら、勝手に開いた窓の真下に向かって進む。


 放った技は、壁にぶつかって霧散してしまうと思われたが、


「ぐおおおおっ!」


 その直前に、突然くぐもった悲鳴を上げながら現れる人影があった。

 現れたと思った人影は、足と、右腕の肘から先だけを残してまた消えてしまう。


 だが、それだけ見えていれば充分だった。


「見つけたぞ! ナルキッソス」


 ロイは自分の考えが間違っていなかったと確信すると、ボロボロに朽ちた枝を捨てて人影に向かって駆け出す。


「クソッ!」


 ロイに発見されたと認識した人影は、悪態を吐きながら慌てて逃げ出す。


 人影が走りながら自身を覆っていた何かを脱ぎ捨てると、一部しか見えてなかった全身見えるようになる。


 どうやら人影は、身を隠す特殊なマントか何かを身につけていたようだった。


 ロイの技の直撃を受けた人影だったが、拾った枝では技の威力は不十分だったようで、足取りが弱まった様子はない。


「諦めろ! もう逃げられないぞ!」


 逃げる背にロイが声をかけるが、当然ながらその程度で足を止めるような人影ではない。


 だが、人影の先にあるのは十メートルもありそうな館の壁だ。


 近くには樹木などの高さのある障害物もなく、他に逃げ道となりそうな隠し通路も見当たらない。

 完全に手詰まりのはずなのに、人影は壁に向かって駆けて行く。


 そのまま壁際まで駆けた人影は壁に足をかけると、華麗な身のこなしで断崖絶壁の如く垂直に切り立った壁をすいすいと登り始めた。


「な、なんと!?」


 猿のような身のこなしを見せる人影に、ロイは絶句する。

 館の壁は石をくみ上げて造ったもので、僅かに凹凸は存在するが、それでも登ることはできないとロイは思っていた。


 しかし、人影はまるで自分の体重を感じさせないように易々と壁を登っていく。

 後を追いかけようにも、ロイは人影と同じように壁を登ることはできないし、館の入口まで迂回していたら確実に逃げられてしまう。


 せっかくナルキッソスを見つけたのに、逃げられてしまうのか?


 見ているしかないロイが悔しげに歯噛みしていると、


「ロイ、これを……」


 下着姿に白い上着をひっかけた姿のプリムローズが、庭にあったロープを持ってやって来る。


「プリム、ナイスだ!」


 プリムローズの機転に、ロイが歓喜の声を上げる。

 そうこうしている内に人影は壁を登りきり、悠々と館から脱出していった。


 だが、その程度で動じるロイとプリムローズではない。


 ロープを受け取ったロイは、目で距離を測って壁を背にすると、両手を股の下で組んで足を開いて立つ。


 一方、プリムローズはロイから距離を取り、肩幅に開いてその場で軽くジャンプしながら体の調子を整えていく。


「よし、いいぞ!」

「わかった」


 ロイの掛け声と共に、プリムローズが地を強く蹴って一気に飛び出す。

 矢のような速さで駆けたプリムローズは、勢いを殺さずにロイの組んだ両手に足をかける。


「いっけえええええええっ!!」


 手に体重がかかると同時に、ロイは全身に力を込めて手を振り上げ、プリムローズを思いっきり上へと投げ飛ばす。


 ロイに渾身の力で投げ飛ばされたプリムローズは、壁の頂上まで上昇して華麗に着地する。


「ロイ!」

「ああ、頼んだ」


 プリムローズが壁を登りきったのを確認したロイは、手にしていたロープを投げて、上で待機している彼女へと渡す。


 ロープを受け取ったプリムローズは、旗が括りつけられる鈎針へと手早くロープを固定してロイが待つ下へと垂らす。


 ロープを使って壁を登りきったロイは、街の方を睨みながらプリムローズに質問する。


「プリム、あいつは?」

「あそこ、屋根の上だ」


 プリムローズが指差す先には、建物の屋根の上を疾駆する人影の姿があった。


 大分距離を離されてしまったが、目を離さなければ見失ってしまうことはないだろう。


「よし、行こう」


 一声をかけてロイが飛び出すと、プリムローズも夜の闇へと飛び出す。

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