第1章「1時間35分36秒」後藤田真美2

 7万5千円のメイド・イン・イタリーのメンズスーツ。単価の安いアウトレットオリジナル商品が売り場の大半を占める中、プロパー店から入荷してきた単価の高い商品が売れることはそうそうあることではない。その商品を目当てにいらしたお客様でもない限り、大抵のお客様は高価な商品には目もくれず、そそくさと店を出て行ってしまう。

 

「1時間35分36秒……」


 真美は、先程自分が接客に付いたお客様がお買い上げの決断をするまでに要した時間をぶつぶつと独りごちた。

ショップスタッフとしての高い接客スキル・豊富な商品知識……そう、私のようなレベルの高いスタッフだからこそ成し得たこと……真美は、自らが達成した偉業を思い返し悦に入っていた。


「1時間35分36秒……」


 真美は、呪文のように呟きながら、視界の隅に不愉快な映像を認識した。自己満足に酔い痴れるのも束の間、彼女の感情は一転して怒りへと変わった。そして、彼女は、怒りの感情を抑えることなく、不愉快な対象へと突進して行った。


(あの女……!)


「ちょっと、早坂さん!」

「はい?」


 レディースカットソーのおたたみをしていた早坂杏理はやさか あんりは、驚いた様子で真美の顔を凝視している。私、何かやらかしましたっけ? とでも言いたそうな顔をして……


「ここじゃ、お客様の迷惑になるから、ちょっとバックヤードまで来てくれる?」

「は?」


 早坂杏理の表情はみるみるうちに敵意に満ちたものとなり、小動物のような人懐っこい笑顔は一瞬にして影を潜めた。早坂杏理は、チッと舌打ちを打ち、渋々と真美の後に続きバックヤードへと向かった。バックヤードのドアを閉める直前で、ひゅんっと振り返り、早坂の同期の佐山翔さやま しょうに目で合図をしたことが、真美の怒りを更に増幅させた。真美より3ヶ月ほど先にアルバイトとして入社した早坂が、同期の佐山翔、武山成実たけやま なるみと仲が良く、陰で真美の悪口を言っていることを真美は知っていた。入社当初は、たった3ヶ月の違いと言えど、早坂たちに一応“先輩”として気を遣うこともあったが、彼女らを追い越して契約社員となった今となっては、余計な気を遣う必要はない。真美は、優越感に浸り、自分より“下”の出来の悪いスタッフを見下していた。


「なんでしょうか?」

 気怠そうに早坂が言った。

(なんでしょうか? じゃねえよ!)

 真美は、寸でのところで心の声を呑み込んだ。


「1時間35分36秒」

「はっ?」

 早坂は、意味わかんねえ、とでも言いたそうな怪訝な表情を浮かべた。


「先程、メンズスーツをお買い上げ頂いたお客様の接客に私が要した時間よ」

「はあ……それが何か?」

 早坂は、今にもぶち切れそうな様子で答えた。

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