第2話


 それは、入学して初めての大規模な試験の時だ。


 くそ……


 ヒューイは、掲示された優秀者に自分の名前がないことを確認し、顔をしかめた。

 いままでも見習いではあるが仕事はできる方だったし、入学してからは仕事の間を縫って勉強していたので、生まれて以来、やれ教養だ礼儀作法だと、思考停止で生きてきた貴族たちに負けるとは思っていなかった。

 総合成績が悪かったのは、教養やらが大切な科目が軒並み悪かったのが原因なのはわかっているのだが、いまだにその科目がなぜ必要なのか心の底で理解できていない。時間をかけてもまったく頭に入ってこない。

 掲示された優秀者の名前は、貴族の名前ばかりだ。まったく面白くない。しかし次こそは何とかしないと、両親や、優秀だからと学園に入れてくれた恩人に面目が立たない。

 次は覚えてろよ……と、心の中で呟きながら、優秀者の名前を見ると、なんとも雰囲気の違う名前がある。“マリアンヌ・フローレンティア”。女生徒の名前はそれ一つだけだ。


 フローレンティア。確か古臭くてお高く留まっている伯爵家だと聞いたことがある。令嬢を学園に通わせ、なおかつ成績優秀者となるほど勉強させるとは、意外と先進的な考え方も持っているのかもしれない。この学園でちゃんと勉強している伯爵令嬢、どんな奴なのか、興味がわいた。


「なあ、見ろよ、フローレンティア嬢の名前があるぜ」


後ろから馬鹿にしたような声が聞こえた。


「こんなところにまで名前を出すとは、必死の婚活も明後日の方向に進んでいるよな」

「まったく、誰か、淑女にとっての“勉強”の意味を教えてやれよ」

「ほら噂をすれば……」


 つい、つられて振り向くと、彼女はまるで宮廷の庭を散策しているような優雅な足取りでこちらに向かってくるところだった。古くからこの国に住まう貴族特有の、銀に光るほど薄い色の金色の髪がふわふわと細かくカールし風に揺れている。


制服なのにコルセットでもしているのだろうか、細い腰にすっきり伸びた背筋。その上に小さな顔がバランスよく乗っている。


 何を考えているかわからない表情がない表情で、ざわざわと噂されているのも全く意に介さず、滑るように歩いてくる。そしてヒューイの隣で足を止めた。


 輝くように大きく見えたが、彼女の頭はヒューイの肩の高さほどしかない。


 彼女は、大きな蒼い瞳で掲示板を見上げると、一つ瞬いた。そして何事もなかったように踵を返し、校舎へ戻っていったのだ。


「はー、どんなに美しくても、ああもさかしらで可愛げがないとな」


 そんな声が聞こえ、あたりにどっと嘲笑がわいた。


 ヒューイはその中でひとり、彼女が消えた方を見つめる。

 それ以来、学園で彼女を見かけると、目で追うようになっていた。






 温室で出会った日から、たまにヒューイも勉強しに来るようになった。顔を合わせれば話しをする。得意教科が違うので、お互いに勉強を教えあうこともある。

 マリアンヌは、苦手な科目でも教えてもらえるのはうれしい。わからないことがわかると、気分がいいのだ。

 しかし、ヒューイは苦手科目はやりたくないらしい。乗り気でないのが態度ににじみ出ているので、マリアンヌも教えても楽しくない。結果的に、ヒューイが先生役をやることが多くなる。


 ヒューイの正体はいまだにわからない。そのうち、わからないまま、気にならなくなってしまった。

 最初は突き止めようと思ったが、違うクラスなので接点もないし、聞けるような友達もいない。全生徒の名簿を見ても、「ヒューイ」は何人かいたが、みな違った。ニックネームか偽名かもしれない。これ以上詮索したら良くない噂になる。

 彼はやはり婚活のお相手ではないのだろう。学園の貴族のご子息達は、将来のためにコネ作りに一生懸命だ。そのために頑張って目立っている者が多いが、ヒューイは、できる限り存在感を消している感じがする。まるで外出中の使用人のようだ。優秀な使用人なら、雇い主が将来のために学校に通わせることがある。ヒューイもどこかの使用人、執事候補とかそういうのではないか、と、思っている。

 もし執事候補なら、あの胡散臭い貴族仕草を何とかした方がいい。機会があればマリアンヌが指導してあげてもいいと思う。


 一緒にいる時間が多くなるにつれ、お互いがお互いを憎からず思っていることは何となくわかっている。フローレンティア伯爵令嬢の婚活は相変わらず社交界の話の種になっているようだが、温室の話は出ていないようだ。ヒューイも秘密を守ってくれているのだろう。


 こういう気持ちになるのが恋というのなら、確かに夢中になる御令嬢が多いのも理解できる。一緒にいるとなんだかくすぐったく、温かい気持ちになる。ノートを示す大きな手や長い指、やさしいまなざしにドキッとしてしまったりもする。マリアンヌもかなりわかりやすく赤くなったりしている自覚はあるので、ヒューイが気が付いていないということはないだろう。


 しかしヒューイは、マリアンヌと常に一定の距離を保ち、手にも絶対触れない。たまにはエスコートしてくれてもいいのに……と、つい思ってしまう。


 ヒューイもマリアンヌの立場を知っているのだから、本気で想ってくれているなら何かしら動いてくれると思う。もしも、ヒューイが伯爵家と縁を結べるような立場なら家の方からでも話が進んでいると思うのだが、今のところそれもない。

 そうなると、マリアンヌの思い込みか、縁談にはならないか。

 思い込みなら、もう少しだけ、この気持ちを味わっていたい。どちらにしろヒューイとは温室のみの付き合いになるのだろう。


 これが物語なら、ヒューイは身分を隠した隣国の王子様だったりするのかしら。


 マリアンヌは本が好きだ。おとぎ話やラブロマンス、何でも読む。なので恋と言えばそういった知識をもとに考えてしまう。


 ……卒業式で秘密が明かされて求婚されるの。「隠していて済まない、あきらめようと思ったができなかった、私とともに来てくれないか」なんて。そうしたら素敵ね。王子様なら勉強したことも活かせそうだし、我が家の財政くらい何とかしてくれるでしょう。……でもあんな王子様は無いわね。生まれた時からの品のようなものがないもの。あ、けして下品ではないのよ、ヒューイの品は頑張って後から身に着けた品、というか。努力が垣間見えるのよ。だからこそ、話しやすくて気安いというのもあるのだけど。


 隣国の王子、公爵家の隠し子、大富豪の跡取り、この国を狙っている海賊、魔法使いの弟子……ありえないような恋の物語を空想していても、なぜか気が付くとヒューイそのものの事を考えている。


 こんなことをしている場合でないことは、十分わかっている。

 毎日勉強したりかなわない恋をしたり、そんなことのために学校に来ているのではない。

 でも、どうしていいかわからないのだ。こんなに賢しらで可愛げがないと評判が悪く、しかも貧乏な家がもれなくついてくる令嬢が、どうやって動けばよいのだろう。


 それでも、家のことを考えれば、温室に行くのはやめるべきだと思う。でもそれなら、そもそも勉強もやめるべきだろう。勉強もできず、もう少し隙があって可愛げがあれば、まともに声をかけてくれる人もいるかもしれない。でもそれではマリアンヌにとっての学園に来ている意味がなくなってしまう。

 秘密の温室。学園で勉強する事。それはマリアンヌがひっそりと抱えている最後の自分の心なのだ。

 ヒューイはマリアンヌが苦手な経済学と算術が得意で、とても上手に教えてくれる。それに、わからないことがわかるようになると、「すごいじゃないかマリアンヌ」と、褒めてくれるのだ。

 マリアンヌはどうしても、この居心地の良さを手放す勇気が持てない。


 ヒューイとこの温室にいるこの時だけは、ただのマリアンヌという学生になれる気がするのだ。






「この手の問題は深く考えずに公式を暗記するんだ。そうすればテストの点は取れる」


 その日は、温室で算術を教えてもらっていた。

 公式を当てはめるだけの問題は、解けてもなんだかすっきりしない。


「あー……、勉強は楽しいけれど、テスト勉強は嫌ね」


「そうか? テストが無かったら、俺は勉強しないぞ」


 ヒューイは何を言っているのか心底わからないという顔をした。


「テストでいい点を取り順位を上げる、仕事に使える知識を身に着ける。勉強はそのためのものだろう」


 ヒューイは、勉強とはなにか目的があって、その手段の一つだと言うのだ。

 マリアンヌが勉強していても、順位を上げても、役に立つどころか疎まれている。何かの役に立つから勉強する。目標を持つ。こんなことを当然のように言うヒューイを、マリアンヌはうらやましく思った。


「そうかしら。私は何の役にも立たない事でも、知らないことを知って、理解すること自体が楽しいわ。この勉強が何かの役に立つかは……私にはわからないもの。」


「……そうか」


「少なくとも、我が家の目的には役に立たないことは確かね」


 困ったようなヒューイに、つい意地悪な気持ちになってしまう。

 そんなマリアンヌに、ヒューイは口を尖らせて言った。


「だから、俺は君に勝てないんだな」


「え?」


 私に、勝てない? 何が? 思ってもいない言葉だった。


「試験だよ。発表される上位10名。女子生徒はいつも君だけだろう」


「知っていたの?」


「ああ。それで名前を知ったんだよ。それから、まあ、変な噂みたいなのも聞いて、この空気の中でそこまでやれるなんて根性あるなって思ってさ。……つまり、……こうやって話せるようになる前から気になっていたっ……ていうか……あーーー」


 なんだか心がムズムズするような事を、恥ずかしそうに言い出したが、言うつもりもなかったのか慌てて話題を変える。


「そんなことはいいんだよ。俺はいまだに10位に入れない。一応、頑張ってるんだけどな。苦手科目の点数が悪すぎたんだよ。」


 ちなみに一番悪いのは詩文な、とヒューイはため息をつく。マリアンヌを元気づけたいのか、大げさに手を広げて見せる。


 ふふ、私、詩文は実はトップなのよね。


 マリアンヌは気分が良くなった。


「詩文なら教えてあげるのに。いつも嫌そうにしているけど、無理やり詰め込んで差し上げましょうか?」


「やめてくれよ……あれはいまだにやる意味が分からないんだよ……」


 成績発表で名前を知った、と言うことは、噂話から知っていたわけではない……と言うことだ。そんなことに気が付き、胸が暖かくなる。

 ヒューイの苦い顔をみて、マリアンヌは可笑しくなってくすくすと笑う。そんなマリアンヌをヒューイはじっと見つめた。


「……もったいないよなあ……な、マリアンヌ」


「?」


「あのさ……」


 突然の沈黙。揺れていた鳶色の瞳が、何かを決心したように私をまっすぐ見つめる。


「ただの、マリアンヌ、には、なれないのか? そうしたら、能力を活かして生きていけるよ。そりゃ、君は美しいと思うし、立派なご令嬢だ。でも、そうでなくたって、君ならなんにでもなれるだろう。なれないと諦めているのは、もったいないじゃないか。なあ、もし君がよければ……」


「だめよ」


 ヒューイの言葉を途中で遮る。


 言いたい事は、わかるつもりだ。空気を読むのは令嬢の必須能力だ。

 小さいころから勉強が好きだった。自分の力で何かを成し遂げる大人になれると思っていた。でも、フローレンティア家の令嬢である以上はそれはかなわないと、もうあきらめている。

 最後まで言わせてはだめ。ここにこれなくなってしまう。


 私はマリアンヌ・フローレンティア伯爵令嬢だもの。


 それ以外にはなれない。


 もし、「ただのマリアンヌ」だったら、そもそも学園にも通えなかっただろう。今まで「フローレンティア伯爵令嬢」だったから、ここにいるのだ。


 だからこれからも、ただのマリアンヌには決してなれない。


 マリアンヌは、「フローレンティア伯爵令嬢」として、非の打ちどころのないほほえみをヒューイに向けた。

 何を考えているか読めないように作られた、貴族令嬢の美しい微笑み。……ごめんなさいね、貴方は範囲外なの。という意味を込めて。


「……すまん。忘れてくれ。ならば……学園を卒業しても、君とこんな時間が過ごせたらいいなと思っている。ただのヒューイとマリアンヌでなくても。……それは、どうだ?」


 つまり、結婚はできなくても、たまに会ってお茶くらいはしようということか。


「ええ、いいわ。私もそうしたいわね」


 マリアンヌの嫁ぎ先によっては、学友との交流を許してくれるかもしれない。ヒューイがどこかに仕えているのなら、家同士のつながりがあれば、お茶をするくらいはできるだろう。

 そう思ってヒューイを見れば、いつにもなく真剣な表情でじっとマリアンヌを見つめている。何か言いたそうな、どう言えばよいか考えている、そんな表情をしている。

 ヒューイのことだ、どこに私が嫁げばそういう未来の可能性が高まるか考えているのだろうか。マリアンヌはそう思って、


「ヒューイも、我が家の事情はお判りでしょう?いい方がいたら、ご紹介願えますかしら」


 と、気取って伝える。


「えっ」


 すると、ヒューイは突然水を掛けられたように青くなった。


「えっ、ちがった?」


 思っていた反応と違ったので、マリアンヌも驚く。


「あ、いいや……」


 いつもの余裕の顔が、今度は真っ赤になる。


「……いや、……わきまえるよ、うん……」


 誤魔化すようにゴニョゴニョと呟いている。

 マリアンヌはクスクス笑って


「どうしたの? 実はヒューイは身分を隠した隣国の王子様で、私を王妃に迎える算段を考えていたりするのかしら?」


 と、ちゃかしてみたりした。


「いや……そこまで大それたことではないよ……いや、うん……そうか、求めているのは王子レベルか……」


 まだ真っ赤なヒューイの顔が可愛く思えてきて、マリアンヌは笑う。

 ヒューイもそのうちあきらめたように笑い出した。

 こんなやりとりができるだけで、私は幸せだな、と、マリアンヌは思った。


 できればこの時間が、少しでも長く続きますように。


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