第2話 足がくれた自由
朝焼けが町を照らし始めるころ、雅はいつものランニングシューズを履き、家の前の道路に立っていた。深呼吸をし、心を静める。そして足を一歩踏み出すと、身体は自然とリズムを刻み始める。
「走る理由はなくてもいい」――父の言葉を思い出しながら、雅はただ足を動かすことだけに集中した。
風が肌を撫でる感覚、地面を蹴る力強さ、そして息が切れる直前の苦しさ。それらすべてが、雅にとって自由だった。音がなくても、動き続けることで世界が広がる気がした。
しかし、それでも心の中に引っかかるものがあった。昨日、佐藤先生に言われた「もっと遠くへ行ける」という言葉だ。自由に走ることは好きだが、「競技」として走ることが自分にできるのだろうか。彼女の中には不安が渦巻いていた。
学校ではいつもの授業が続く。雅は他の生徒たちのように笑い合うことは少なかったが、手話で話しかけてくれる友人が数人いた。その中でも一番親しい友達の夏美が、昼休みに雅の隣にやってきた。
「ねえ、昨日の体育の話、どうだった?」
夏美は雅の顔を覗き込みながら手話で話しかける。
「佐藤先生、陸上部に入れって言ってたんでしょ?」
雅は少し戸惑いながらうなずいた。
「でも、自信がないんだ。私がちゃんとやれるのか、わからなくて。」
夏美は雅の手をぎゅっと握り、真剣な顔で言った。
「雅がやりたいって思うなら、やればいいんじゃない?周りのことなんて気にしないでさ。」
その言葉に背中を押された気がした雅だったが、まだ心のどこかで迷いがあった。
放課後、雅は校庭の隅でひとり走っていた。グラウンドの外周を黙々と走り続ける。その姿を佐藤が遠くから見ていた。
「どうして部活に入らないんだ?」
走り終えた雅に、佐藤が声をかける。
「競技として走るのは、自分には向いてないと思うんです。」雅は手話で返事をした。
佐藤は少し考え込むようにしながら言った。
「向いてないかどうかは、やってみないとわからない。だけど、君がこうして走り続けているのは、何か理由があるはずだ。」
雅は目を伏せた。自分でも、その理由がわからなかった。ただ走ることが好きだから。それだけでは、佐藤の期待に応えられない気がしていた。
「もし、競技に興味があるなら、来週の日曜日、地元の陸上大会を見に来ないか?」
佐藤の提案に、雅は少し驚いた顔を見せた。
「君にとって『走る』ことがどんな意味を持つのか、そこで少しはわかるかもしれない。別に参加しなくてもいい。ただ、見てみるだけでも。」
雅は迷いながらも、小さくうなずいた。
日曜日、雅は陸上大会の会場である市営スタジアムを訪れた。トラックには色とりどりのユニフォームを着た選手たちが集まり、準備運動をしている。周囲は応援の声やスタートのピストル音で賑やかだったが、雅にはその音は届かない。ただ、選手たちの表情や動きが全てを語っているように見えた。
「どうだい?」
佐藤が雅に声をかけた。雅は少し緊張しながら手話で答えた。
「みんな、すごく真剣ですね。」
「そうだ。彼らは自分の限界を試しているんだ。競技というのは、そういう場でもある。」
雅はじっと選手たちを見つめた。スタートラインに立つ彼らの姿は、自分とは違う世界にいるように感じられたが、同時に心のどこかで憧れを抱いている自分にも気づいた。
その日、雅は何度もトラックを走る選手たちの姿を目に焼き付けた。そして帰り道、佐藤にこう告げた。
「先生、私もあの場に立ちたい。」
佐藤は満足そうに微笑み、「その言葉を待っていたよ」と手話で伝えた。
その日から、雅の新たな挑戦が始まることになる。音のない世界でも、彼女の心には小さなエンジンが動き始めたのだ。
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