第1話 生まれつきの静寂

大場雅が音のない世界に生まれて15年が経った。


静かな田舎町。家の窓から見えるのは、のどかな田園風景と、遠くに続く一本の舗装道路。耳が聞こえない雅にとって、その風景は音を伴わない無数の動きの集合体だった。風で揺れる稲穂、行き交う自転車の影。全ては「音のないシーン」として彼女の目に映る。


彼女は毎朝、家の近くを走ることを日課にしていた。中学最後の運動会で好成績を収めたのをきっかけに、走ることが少し楽しくなったのだ。風を切る感覚や、地面を蹴る衝撃は、音とは無関係に彼女に「動き続ける喜び」を教えてくれた。


「走るの、楽しいの?」


朝の食卓で、母親が手話で問いかける。雅は一瞬考え込んでから、小さくうなずいた。


「でも、楽しいだけじゃだめだよね。走る理由がないと、続けられないって思う。」


母は静かに微笑んで、雅の頭を軽く撫でた。父も新聞を読みながら視線を雅に向け、手話で言った。


「理由なんて、あとからついてくるさ。まずは楽しめばいい。」


その言葉に少し気が楽になった雅は、朝の準備を終えて学校へ向かった。


学校の体育の時間、今日は50メートル走のタイムを計測する日だった。クラスメイトたちが笑いながら順番を待つ中、雅はひとり静かに立っていた。彼女にとって体育の授業は、いつも少し緊張する時間だった。耳が聞こえないことが原因で、指示を聞き逃したり、みんなの動きについていけなかったりすることがあるからだ。


「次、雅!」


先生の口元が動いているのを見て、雅は前に出る。スタートラインに立ち、腕を軽く振りながら深呼吸をした。スタート合図の笛の音は聞こえない。先生が手を挙げ、合図を出す瞬間を目で追うしかない。


手が振り下ろされるのを見た瞬間、雅は全力で走り出した。


足元に伝わる地面の感触、風が髪をなびく感覚。タイムは悪くなかったが、雅は少し違和感を覚えた。走り終えた後、クラスメイトたちの歓声が届かないのが、いつものことながら妙に寂しく感じたのだ。


「いい走りだったよ。」


体育教師の佐藤が、雅の肩に軽く手を置きながら手話で伝えた。「でも、もっと速くなれる。君の体の使い方を見ていると、まだ伸びしろがある。」


雅は少し驚きながら佐藤を見た。教師がわざわざ手話で話しかけてくれることは滅多にないからだ。それだけで彼の言葉は、少し特別なものに思えた。


「もっと速く?」雅は手話で尋ねた。


佐藤は笑顔でうなずいた。「そうだよ。どうだい、部活に入ってみないか?ちゃんとした指導を受ければ、もっと遠くまで行ける。」


雅は迷った。走ることは好きだけれど、本気で競技として取り組む覚悟はまだなかった。それに、自分が本当に速くなれるのかという不安もあった。


「ちょっと考えさせてください。」


そう返して体育の授業を終えた雅だったが、家に帰っても佐藤の言葉が頭から離れなかった。「もっと速くなれる」という言葉が、心の中で静かに響き続けていた。


その夜、雅は月明かりの下、庭の小道を走っていた。自分の呼吸音も、足音も聞こえない。ただ、体を動かす感覚だけが確かだった。


走る理由はまだわからない。でも、走っている間だけは自分のことを「普通の中学生」と思える。それが、いまの雅にとって十分な理由だった。


そして、胸の奥で芽生えた一つの小さな思いがあった。


「もっと遠くへ行きたい。」


その願いが、雅の新たな一歩となることを、彼女はまだ知らなかった。

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