無走 ~音を知らないスプリンター~

星咲 紗和(ほしざき さわ)

プロローグ

音がない世界――それが大場雅にとっての日常だった。


雅は生まれつき耳が聞こえない。言葉の響きも、鳥のさえずりも、教室で響く笑い声も知らない。幼い頃から彼女の周囲には「音」は存在しなかった。誰かが話す口元の動き、風で揺れる木々の影、それらが雅にとっての「世界」だった。


しかし、それを悲しいと思ったことはない。音のない日常は、彼女にとって自然なものだった。ただ、周囲の視線はいつも違った。何をしても「かわいそう」という目で見られる。そんな視線が、雅を覆う静寂よりも重たく感じられる瞬間があった。


彼女が「走ること」と出会ったのは、小学校の運動会だった。クラスメイトの輪に入れず、ひとり離れていた雅が、先生に促されて参加した50メートル走。スタートの合図が見えずに出遅れた雅だったが、必死にゴールを目指して走った。その瞬間、風が頬を切り、地面を蹴る感覚が全身を満たした。音のない世界に、「走る」という新しい感覚が初めて入り込んだ瞬間だった。


「速いね!」ゴール後、先生が笑顔で話しかけた。その言葉は聞こえなかったが、口元の動きと表情だけで十分伝わった。雅の心に小さな火が灯った瞬間だった。


やがて雅は中学生になり、走ることが好きだという気持ちは確信に変わった。ひとりで校庭を走り続けるうちに、ある日、陸上部の顧問・佐藤先生に声をかけられる。


「君の走りは特別だ。きっともっと遠くに行ける。」


その言葉に、雅の心の中で新たな夢が芽生えた。デフリンピック――音のない世界のアスリートたちが集う国際大会。その存在を知った雅は、自分の限界を超える旅を始めることを決意する。


音のない世界でも、彼女には聞こえるものがあった。自分を信じる心の声。そして、それを支えてくれる人々の手のひらの温かさだった。


「私は走る。音がなくても、この世界で。」


静寂の中、少女の夢が動き始めた。

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