第3話 手話での誓い

日曜日の大会を見た翌日、雅は朝から落ち着かなかった。佐藤先生との約束を果たすべく、今日こそ陸上部の練習を見学する決心をしていたが、まだ少し不安が残っていた。


「本当に私で大丈夫なのかな……。」

教室で机に突っ伏しながら、雅はつぶやくように心の中で問いかける。夏美が隣で手話を使いながら雅に話しかけた。


「何を悩んでるの?走りたいんでしょ?」


夏美のまっすぐな目に背中を押されるように、雅は放課後の陸上部練習へ足を向けた。


放課後、校庭では陸上部の生徒たちがそれぞれの種目で練習していた。雅が少し離れたところから見ていると、佐藤が気づいて手を振った。


「来たな!」

佐藤は手話で話しかける。「練習を見学するだけでもいいが、今日は少し一緒に走ってみないか?」


雅は少し戸惑ったが、意を決して頷いた。佐藤が準備体操の方法を丁寧に教えた後、グラウンドの200メートルトラックに立たせる。


「まずはウォーミングアップ。全力じゃなくていいから、フォームを意識して走ってみよう。」


雅は深呼吸をし、ゆっくりと走り出した。グラウンドの周りに集まる部員たちの視線を感じながらも、目の前の道だけを見つめた。走り終わると、佐藤が手話で話す。


「悪くない。だけど、もっと力を抜いて、体全体でリズムを作るんだ。」


佐藤のアドバイスを受け、雅はもう一度トラックに立つ。今度は部員のひとりが一緒に走ることになった。


「一緒に走ろう。タイミングは僕が合わせるから。」

その言葉を手話で伝えたのは、陸上部のエースである悠馬だった。悠馬は雅が耳が聞こえないことを知っており、練習の間ずっと彼女に寄り添うようにサポートしてくれた。


雅は軽くお辞儀をし、二人で走り出した。悠馬のペースに合わせると、これまで感じたことのないスムーズさが生まれた。風を切る感覚が心地よく、足が自然と前へ進む。


走り終わると、佐藤が満足そうに頷いた。


「いいぞ、雅。練習すればもっと速くなれる。」


雅は胸が高鳴るのを感じながら、手話で返事をした。


「私、本気でやってみたいです。」


その言葉に佐藤も悠馬も笑顔を浮かべた。


その日の夜、雅は家族に陸上部に入部する決意を伝えた。母親は少し驚いたようだったが、すぐに微笑み、手話で「応援するよ」と伝えた。


「ただ走るだけじゃなくて、競技として走る。私、デフリンピックに出たい。」


その言葉に、家族は一瞬驚きながらも、雅の強い目を見て、何も言わずに頷いた。


翌日、正式に陸上部へ入部した雅は、早速練習メニューに取り組んだ。ストレッチ、基礎トレーニング、そして短距離走のフォーム改善。初めての練習は体力的に厳しかったが、不思議と雅の心は晴れやかだった。


その日の最後、佐藤が雅に手話で言った。


「目標があるのはいいことだ。でも、デフリンピックの道は険しい。君がそれでも進みたいなら、全力でサポートする。」


雅は真剣な表情でうなずいた。


「私、絶対に諦めません。」


その日、彼女の中で新たな誓いが生まれた。音のない世界でも、雅の心はこれまで以上に強く、遠くを見据え始めていた。


そして、その誓いが、やがて世界へと羽ばたく第一歩となることを、雅はまだ知らなかった。

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