猫かもしれない
アズー
猫かもしれない
真夜中、ベッドの上に乗ってくる黒い影。
手を伸ばせば暖かく柔らかい毛の感触が手のひらいっぱいに広がって、とくんとくんと脈打つ鼓動と、ぐるぐるぐると喉を鳴らす振動が伝わってくる。
目を開けずとも、猫飼いであればそれを猫だと思うだろう。可愛い可愛い愛猫であると。
柔らかい感触、喉を鳴らす重低音、可愛らしい鳴き声。
そのいずれもが、慣れ親しんだ愛猫のそれと少し違ったと気づいた時、それでも、きっと猫だと思い込みながら、撫でるだろう。
私は猫を飼っている。
父が拾ってきた野良あがりのキジシロの雌猫で、額から頬にかけて八の字にキジトラ模様が広がり、鼻先や喉元が雪みたいに真っ白という典型的なハチワレ模様。
子猫のころに拾った割にはあまり人に懐かず、人見知りで神経質な猫だ。びゃー、びゃー、とおおよそ猫とは思えぬ嗄れた鳴き方をするのが特徴的だった。
日頃孤独を愛し、日中、私や家族に寄りつくことはなかったが、寝る時だけは途端に甘えん坊になる。
ベッドに横になりスマホをいじる私の胸に乗っかっては我が物顔で香箱座りをし、狭い額やふわふわの頬を擦り付けてはマーキング活動に勤しんだ。触れば気持ちよさそうに喉を鳴らし、びゃー、びゃー、と枯れた声で鳴くのだった。
そんな私の猫の名前はホタテといった。
もうじき拾ってから一六年。私が二歳の頃、父が拾ってきた、いわば兄弟のようなもの。
老猫の領域にはすでにどっぷりと浸かっていたが、朝方に大運動会を開催してはびゃー、びゃーと鳴く元気たっぷりの猫だ。医者もこれで一六歳かと驚くほどの元気さだった。
一日が終わり、その日もホタテがベッドの上に乗ってきた。スマホをいじり、くだらないネット上のニュースで貴重な時間を消費する私に向かってびゃあ、と一つ鳴いた。撫でろ、と言っている気がしたので、私はホタテの額を撫でた。
それから部屋の照明を落とし、スマホを充電器に刺し、目を瞑る。
その日は特に暑くもなく、寒くもなく、薄手の毛布一枚で事足りる気温で、ホタテの三キロもない重みを感じながら眠りに落ちていった。
どれくらい時間が経過した頃だったか。
ふと私は目が覚めた。
胸の上にいたホタテの気配はない。多分、部屋の片隅に置いたペットベッドで寝ているのだろう。
今、何時だろうか。
私は充電器に刺したスマホを取り出し、画面をつける。煌々と輝く画面の光が眼球に刺さる痛みに顔を顰めながら、時刻を確認する。
うわぁ、とため息が漏れた。
午前二時。嫌な時間帯。
微妙に目が覚めていて、また、一つため息を漏らす。
中途半端な時間に目が覚めると、なかなか寝付けなくなる。明日も学校があるのに、困ったなぁ。
なんて思いながらスマホの画面を消すと、私は寝返りを打つ。
もう一度。
さらにもう一度。
なかなか眠れないなぁ、なんて思っていると、たたん、たたん、とリズミカルな足音が聞こえてきた。階段を上る何かの音。
深夜二時に物音がしたら、普通の人間であれば少しは驚くだろう。けれども私は——きっとホタテね、と勝手に納得した。
猫を飼っていると、真夜中の物音には動じなくなる。
とととと、と廊下を走る何かの音も、ばたん、と少し重い何かが落ちてくる音も、ざくざく、と砂を掘るような音がしても、ああ、きっとホタテが何かしたのだろう、と頭が都合よく考えてくれるからだ。
ホタテのやつ一階のリビングに行ってたんだな。キャットタワーで遊んでたのかな。じゃあ、もうすぐ私の部屋に来るだろうな。
我が家のドアというドアには猫用のドアが増設されていた。ホタテが好きな時に好きな場所にいられるようにと、父がお小遣いを叩いて増設したものだ。
そんな猫用ドアをホタテが潜り抜けると、きい、きい、と金具が擦れる音がした。安物の猫ドアだったからか、パーツとパーツが擦れる音が激しいのだ。
とととと、廊下を進む足音が私の部屋の前でぴたりと止まり、さあ、耳障りな猫ドアの音が聞こえるぞ——なんて思った時。
みゃお、にゃあ。
不意に、可愛い猫の鳴き声がした。
この季節、発情期の野良猫が赤ん坊のような鳴き声を放つもの。でも、やけに声が近い。
みゃお、にゃあ。
今度ははっきりと、ベッドの側で声が聞こえた。
部屋の中で猫の声がする。
家で飼っている猫はたった一匹だ。
もしかして、ホタテ?
可愛いやつめ。そんな可愛らしい声で鳴けたんじゃないか。もしかして、真夜中は寂しくなってそんな声で私を呼んでいたのかい。
私はホタテを呼ぶように、目を瞑ったまま、ベッドのマットレスをとんとん、と叩いた。ホタテはいつもこうやってとんとんと叩いた場所に目掛けて飛び乗ってくる。
ぼふ。
そんな音と共に振動が伝わった。
さあ、おいでホタテ。私がたくさんモフってあげる。
とんとん、と胸の上を叩けばのしりとした重みが私を襲う。
あれ、ホタテ?
少し重くなった?
ホタテは三キロもないくらいの細身の猫。
こんな重さを感じたことはなかった。
でも、ホタテ以外の猫が私の部屋に入ってこれるはずがない。脱走予防に窓には柵を設置してあったし、玄関だって脱走予防に二重ドアにしてあった。
ホタテが外に出られないのであれば、野良猫が部屋に入ってこられるはずもないのだ。
これはホタテに違いない。
そう思いながら、私は恐る恐る胸の上の猫に触れた。
暖かい毛の感触が指に触れる。
これは猫だ。
みゃお、にゃあ。
可愛い鳴き声。
ぐるぐるぐるぐる。
喉を鳴らす音はまさに猫。
きっと猫。
ああ、たぶん、猫。
猫の感触がしたけれど。
だけどもコレはホタテではない。
ごわごわとした毛の感触。
暖かい感触。
血の通ったイキモノの感触。
でも、ホタテではない。
だってホタテの毛はこんなにごわごわと硬くなかったし、体だってもう少しほっそりしている。この猫はでっぷりと太い。まるで球体みたいに丸っこい。突き出た部分が何もない。丸いのにどこか硬い。
それにホタテはこんな生臭い臭いを漂わせたりしない。
何日も放置した魚の腐乱死体みたいな、そんな臭いを放つわけがない。
ぐるぐるぐる……。
撫でていた手を止めたせいだろう。喉の音が止まる。
ひゅっと私は息を呑む。
ソレは私の手が止まったことに不満を漏らすように、喉を鳴らすのをやめたので、私は恐怖のあまりソレを撫でくりまわした。
ごつごつとした筋肉の盛り上がりや、皮膚の下に感じる骨の感触を分厚い毛の上から感じながら、必死に撫でやった。
ぐるぐるぐるぐる。
ご機嫌な喉の音。
愛くるしいけれど、どこか私を追い詰める音。
手を止めてはいけない。
そんな思いで、ホタテではないナニカを撫でやった。
ソレがふと胸の上から消えたのは、窓から日差しが差し込み始めた午前五時。
ああ、夢だったのかな、なんて希望はすぐに打ち砕かれてしまった。
毛布の上、明らかに猫の毛ではない針のように硬い毛が散らばっていた。しかもそれが、ひどく生臭い臭いを放っているのだ。顔を近づければ、思わずえづいてしまいそうな、そんな腐乱臭。
ああ、あれは夢じゃなかったのだ。
あの、猫かもしれないナニカは確かに私の胸の上にいて、それを私は撫でたのだ。
毛布はホタテが粗相をしたといって、母に洗ってもらった。母はホタテが珍しいわね、と特に不思議がることもなく毛布を洗ってくれた。でも洗い上がった毛布には、生臭さがしっとりと残っていた。
あれからホタテは私と寝なくなってしまった。
びゃー、びゃー、と枯れた声で鳴くこともしない。朝方の大運動会もしない。ただ怯えた様子で私を見ては、すいっと視線を逸らす。
代わりに毎晩、決まって午前二時ごろにソレが私の寝ているベッドにやってきては、みゃあ、にゃあと鳴く。
撫でろ、とせがむように鳴く。
私は撫でずにはいられなかった。
いや、撫でるように強制されていた。
手を止めた後、何が起きるのかわからなくて。
ホタテが私の部屋に寄り付かなくなったのには、臭いも理由にあるかもしれない。毛布を洗っても洗っても残る生臭い臭いが嫌なのかもしれない。洗っても毎晩やってくるソレにうんざりして、毛布を洗わなくなってしまったのも原因かもしれない。
「なっちゃん、あのさ……、ききにくいんだけどさ」
猫かもしれないナニカが来るようになってから、私の頭は霞がかったようにぼんやりとするようになった。明け方まで撫でなくてはいけないから、睡眠不足なのだろう。
「最近、その、……変な臭いがするっていうか、生臭いっていうか」
授業中も休み時間も頭が働かなくて、先生やクラスメイトの言葉もなんだか水中で声を聞いているみたいに不確かだった。
「体のどっか悪くなってるんじゃない? 一回病院行った方がいいよ」
こうしてお弁当を開けて、クラスメイトとお昼を過ごしていても、頭の中には猫のことでいっぱいで。
「顔色もすごく悪いし」
ああ、今日も来るのかな、とか、また明け方まで撫でてやらないとな、とか、そんなことばかり考えていて。
「聞いてる? ねぇ、なっちゃん?」
「え? うん、聞いてるよ」
弁当箱の中に落ちている、硬い針のような毛を見下ろしながら、適当に返す私を見て、クラスメイトが引き攣った表情を浮かべていた。
そして、その晩も猫が私の部屋にやってきた。
スマホの画面には午前二時の表示がある。
手元にある光源を使えば、きっと、ソレの正体を知ることができたかもしれない。だけど私はスマホの電源を落とすと、深く目を瞑った。
私はソレの姿を確認しようとはしなかった。
ソレが猫ではない別の何かであると分かってしまっては、もう、私はソレを撫でることができなくなってしまうから。
撫でることを強要するソレの要求に応えられなくなったら、私はどうなってしまうのだろう。
これは、猫。
耳のある位置に耳はなかったけれど。
多分、猫。
口のある位置に口はなかったけれど。
きっと、猫。
でも、私は猫かもしれないソレの全貌を見ていないから、だから、おそらくは猫なのだろう。
そう思い込んで私は撫でる。
撫で続ける。
猫かもしれないナニカを。
これは猫だと思い込みながら。
猫かもしれない アズー @azyu51
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