第44話
校長は、ゆっくりと手を広げた。さっきまで、瓢箪のように潰れていたブラックモンキー。解放された瞬間、僕の前から姿を消した。別によそ見をしていたわけじゃない。さっきまで校長の手の中に確かにいた。でも今はいない。煙のように消えてしまった。
「えっ?」
僕は、校長の足下や辺りを探した。
いない、どこにも。
「ママ、ナオをあまり困らせないで」
ナナは、立ち上がるとキョロキョロと目を動かし、手を伸ばした。一瞬、ハンマーを振り回した時のようなブンッ! と言う音が聞こえた。その音の後、僕がナナの手を見るとブラックモンキーがすでに手の中に収まっていた。一瞬の出来事。突然、消えたり現れたり、マジックのようだ。
「普通の人間の動体視力では、ブラモンの動きは速すぎて見えないんだよ。だから、私たちみたいな覚醒者の異常な眼力と俊敏な動きがないと捕獲も出来ない。そもそも常に握ってないとすぐ逃げちゃうしね。とっても面倒な動物だよ」
「へぇ………そうなんだ。飼うのは、無理だね。でもせめて少しだけでも触りたかったなぁ」
「今度、触らせてあげるね。コイツが冷たくなったら」
生きているうちにお願いします。
今もナナの手の中で窮屈そうに暴れているブラックモンキー。苦しそうだ。
「話は戻るけど、このブラックモンキーの血液を原料としてあの薬を製造しているの。もし、この動物がいなかったら、私たちは今でも人間を襲っていたに違いないわ。この動物はね、黒い風の正体を私たちに教えてくれたのよ」
「正体?」
黒い風の正体とは一体なんだ。
最近は、滅多に吹いてこない悪魔の風。人間を殺す風。昔と違って今は、警報も十分前に発令されるし、町には十メートルおきにガスマスクの入ったボックスも設置されている。今では、ガスマスクを持って出歩く人は少ない。それだけ、黒い風に対する恐怖も薄らいできている。
「な、何してるんですか!!」
校長は、いつの間にか自分の手をナイフで切りつけていた。右手首からは、少量ではあるが鮮血が滴っている。突然の校長の理解不能な行動に戸惑っていると、ナナが「心配しなくても大丈夫」とそっと僕に耳打ちした。数分もするとテーブルの上に、血の水溜まりが出来ていた。
「この虫は、火が大好きなのよ」
虫? 何のことだ。
校長は、ライターの火を溜まった血に近づける。僕は、黙ってこの儀式めいた行動を見ていた。ジュッという音。その後、少し焦げた臭いがした。炙られた血からは、黒い煙が発生した。その煙は、いつまでたっても消えることなく、むしろ濃くなっていく。
「これって」
黒い煙は、意志を持ったかのように部屋をぐるぐると回り始めた。これじゃあ、まるで。
「黒い風みたいでしょ。実際、そうなんだけどね」
ナナの発言は、しっかりと僕の耳に届いていた。ブラックモンキーは、ナナから逃げ出してテーブルの上に乗り、大きな口を開けて何かを待っていた。歯や舌はなく、口の中まで真っ黒だった。部屋を回っていた黒い風が、ブラックモンキーの正面にくると、どんどんとその口に吸い込まれていく。ケラケラと機械じみた不気味な声がブラックモンキーから聞こえた。
「黒い風の正体はね、目に見えないほど小さくて、モンキーレベルの素早い動きをする虫の大群なの。たまぁにニュースとかでもあるでしょ? 鳥や虫が群れて空を覆い尽くす現象。ブラックモンキーは、その虫を補食して生きているの。見て分かったと思うけど、私たち覚醒者はその虫に寄生されているのよ。この虫は、普段は大人しく血液の中で眠っているんだけど、たまに体内で暴れるの。そうすると私たちは発作を起こす。体が変異して、最終的に人間を襲うようになるのよ」
「それじゃあ、この虫は人間を選別しているってことですか? 普通の人なら、寄生されてすぐに死んでしまいますよね」
「う~ん。私にもその辺のことはまだ良く分からないのよ。確かに、人間の好き嫌いはあるみたいだけど、どんな条件でそれを判断しているのかは分からない。性別や年齢、体格、趣味や行動範囲。選ばれた人間は、みんなバラバラだしね」
黒い風の正体を知っているのは、まだ一握りの人しかいないと校長は言った。覚醒者が狙われる理由が、僕には何となく分かった。その命に高額な値段が付けられ、僕の両親のように追われるのは、きっとこの黒い虫を体に宿しているからに違いない。あの覚醒時の爆発的な身体能力に興味を持つ金持ちや研究者は大勢いるだろう。それを可能にしているのが体内に寄生した黒い虫。きっと狙われているのは、覚醒者ではなく、覚醒者の体の中にいるこの虫なんだ。
町は、うっすらと夜に染まっていた。どこか寂しく、僕が最も嫌いな時間になっていた。思いの外、校長室に長居してしまった。
「そろそろ帰ろうか」
「うん! 帰ろう」
「ナオ君。一つだけ、お願いがあるんだけど。おばさんのお願い、聞いてくれない?」
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