第25話
「朝だよ。起きて」
また、懐かしい夢を見た。
教師と言う仕事は嫌いじゃないが、僕みたいな犯罪者がなって良い仕事ではない。だから僕は自分を否定しながら、教師を演じている。なるべく、平和に。普通に。生徒を刺激しないように心掛ける毎日。
今日もまたそんな無価値な1日が過ぎた。
帰り。なぜか自転車のペダルがいつもより重く感じた。僕の前から、墨汁を含んだ綿のような雲が迫ってきている。もうすぐ、どしゃ降りになるだろう。
早く、帰ろう。霊華の待つ家に。
家に着いた瞬間、シャワーのように雨が降ってきた。僕は、慌ててチャイムを鳴らす。
「……………」
でも、応答がない。出かけているのだろうか。仕方なく自分のスペアキーで玄関のドアを開けた。開けた瞬間、ムワッとむせるような熱気が顔にかかった。
「ただいま…………。霊華?」
返事がない。
やはり、出かけて——――
音?
キッチンから人の気配がした。微かな息遣いを耳が感知した。
「霊華いるのか?」
カバンを投げ捨て、キッチンに駆け寄った。そこで僕が見たのはーーー。
「れいかっっ! しっかりしろ」
床に倒れている妻の姿だった。まな板には、刻んだキャベツが半分だけ残されていた。その右手には、包丁が握られている。また、起きたのだ。あの発作が。
霊華の軽い体を抱きかかえ、寝室まで運んだ。その顔を玉のような汗が流れていく。体中の水分を吐き出すような大量の汗だった。閉じられている瞼を親指と人差し指で軽く押し広げた。
「くそっ!」
瞳が、琥珀色をしている。瞳孔も細長く、もはや人間の目ではなかった。
「霊華……」
発作が起きる間隔が短くなっている。
去年までは、半年に一度だった発作が、今では月一のペース。このままじゃ、餌の確保が追いつかなくなる。
先ほどから唸るような音が、霊華の喉元からあふれ出ている。赤い唇を両手で静かにめくると食肉目特有の裂肉歯が小さく見えた。とにかく時間がなかった。こうなってしまえば、もう残された道は一つしかない。僕は、霊華の体を再び抱きかかえると、地下室に下りた。素早く暗証番号を入力し、中に入る。
目の前の少女は口を開け、目を丸くして僕と霊華を交互に見ていた。
「どっ、どうし、えっ?」
何から喋っていいのか分からないようだった。それもそうだ。きっと、彼女は僕のことを一人暮らしだと思っていたに違いない。メールのやり取りでも僕は、独身を装っていたし。
「この人は、僕の奥さんだよ。会うのは、初めてだよね」
「奥……さん? え、結婚されていたんですか。こ、こんな場面を見せて大丈夫なんですか?」
昨日よりも声に力がある。きっと、食事をとったおかげで少し元気になったのだろう。空になったスープのお椀が少女の足元に転がっていた。
「あぁ、大丈夫だよ。僕の奥さんも君のことは知っていたしね。別に隠してたわけじゃないんだ」
その言葉を聞いた瞬間、少女の目の奥がどす黒く濁った。僕は、その目から強い軽蔑と憤怒を感じた。
「……鬼畜。あなた達夫婦は鬼畜です。こんな残酷なことをして。でも、もういいです。全て忘れますから。だから、早く解放してください! お願いします」
少女は、頭を下げた。彼女の髪には、白い涙の結晶がポツポツと付着していた。
「僕と霊華が、きちく? それは、違うよ。君は、勘違いしてる。僕は、確かに君の言うとおり鬼畜だよ。地獄に落ちるべき人間だ。でも妻は違う。僕とは違う。妻に鬼畜と言ったこと、謝ってくれないかな」
「だって、奥さんもこれを知ってて黙認していたんですよね? なら、おなじ——」
「何が同じ?」
「え、あっ、その……。ごっ、ごめんなさい! 私、変なことを言いました。謝ります、ごめんなさい」
少女は、床に頭をつけて謝った。
「顔を上げていいよ」
この土下座に彼女の誠意などない。僕は、霊華の体を傷つけないようにそっと床に下ろした。霊華の伸びた凶暴な爪が僕の腕に食い込み、その傷からは、血がたらたらと流れていた。
トッ……。
床に落ちた血。僕は、ぼんやりとそれを見ていた。
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