第3話 焼き付く言葉。

 あれから真壁さんは時々話しかけてくるようになった。

 それも絶妙な度合いで。

 僕が移動教室前で読書に夢中になってしまったら声を掛けて遅刻を防ごうとしてくれたり、消しゴムを落としたら拾ってくれたりと基本的には些細な事ばかりで、とくにクラスの男子からヘイトが露骨に向くような事にはならない絶妙なバランス。


 正直なんでそこまでしてくれるのかよくわからない。

 心当たりと言えるのはせいぜい瞳の色を褒めただけで、それだけで世に言う青春だのラブコメだのが始まるとは思っていない。

 それで始まるならこの世に陰キャなんていないと思う。


「んじゃ解散」


 ホームルームが終わってようやっと学校から解放された。

 今日は婆ちゃんの店番があるからそのまま行かなければならない。

 まあ僕は部活動に所属もしていないので問題もないし、店番以外の予定も基本的にはない。


「相良くん」

「……なんですか? 今から店番あるので手短にお願いします」


 真壁さんの態度は他の人と接するのと大差ない。

 僕のような本の虫にも優しいギャル。そういう認識である。


 だから僕は決して付け上がるような事があってはならない。

 身の程を弁えて下を向いて生きるのが本の虫である。たぶん。


「相良くんのお手伝いしてる古本屋さんってさ、絵本とかも置いてたりする?」

「ありますよ。潰れた小さな本屋から引き取った本もありますから」

「探してる絵本があるから、わたしも付いてっていい?」

「……いいですけど」

「ありがとっ」


 ギャルに絵本というのは一見して全く似合わない。

 しかしこれが物語の登場人物であったならば、そこにはきっと作者の意図するギャップが隠されているのが通例である。


「どうして絵本を探してるんですか?」


 歩きながら聞いてみた。

 すると真壁さんは少し驚いたような表情をして、それから笑った。

 べつに真壁さんに興味があるわけではない。

 だけど創作をむさぼるような僕としては、きっとそこに何かがあってほしいのだと思う。


 現実にはそうそう物語らしい何かなんてない事はわかっているのに。


「この前話してた時に相良くんがおばあちゃんのお話してしたじゃん? 古本屋の話。それで昔好きだった絵本の事思い出してさ」

「そうなんですね」


 大した理由ではなかった。

 こんなことを思うのはどうかとは思うが、そりゃそうだとは思ってしまう。


 人は唐突に昔好きだった何かを思い出して、それに浸りたくなる事は誰にでもある。

 僕もそうして読み返す小説はある。

 そんなもんだ。


「てか、この前は結構お話してくれたのに学校じゃあんまり人と話さないタイプ?」

「目立ちたくないんですよ。それにそもそもが人と話さない人種です。この前は真壁さんの話の流れに抗えなくてああなってただけですよ」

「それはごめんて」


 真壁さんは恐ろしく気を使える人なのだろう。

 校門を出て人通りがまばらになっていくと話しかけてくる頻度が増えていく。

 それが少し、気味が悪い。器用すぎて怖い。


「それより、どんな絵本を探してるんですか? タイトルとかは覚えてるんですか?」

「それがあんまり覚えてないんだよね。何回も繰り返し読んでて好きだったはずなのにね」

「まあ、小さい頃なんてのはそういうものじゃないですかね。自分が何にそこまで惹かれていたのか自分でもわからない」

「そうなの! でもなんか好きだった気持ちだけはずっと残っててさー。それを思い出したいんだよね。わたしがスタイリストになりたくなるきっかけにもなってたはずなのに」

「スタイリスト目指すきっかけはお母さんの影響じゃないんですか?」


 絵本の話なんてこの前は出てこなかったはずだ。

 一言一句覚えているわけじゃないけど、そうだったと記憶している。


 しかし真壁さんは振り返って微笑んだ。


「きっかけの順番は絵本がたぶん先。そんでママの仕事見てて形になった。って記憶で合ってる……はず?」

「なるほど」


 漠然とした何かが、現実の中ではっきりと形になった。

 それはきっといい事なのだろう。

 そんな体験なんてあまりしたことはないけど、そうやって幼くも目標を見つけられるのは幸運な事だ。


「てか、ふたりきりの時は結構質問してくれるね」


 後ろ手で少しあざとく僕を見つめながらそう言ってくる真壁さん。

 こういう人は苦手だ。困るから。


「必要があれば質問くらいはしますよ。質問できるならしておくのも大事なことですからね」


 そう、質問できるうちにしておかないと後悔することはある。

 亡くなってしまった文豪たちに聴きたい事は山ほどあるのだ。

 しかしそれは叶わない。

 だから必死に彼らの残した文字を読み解くのである。

 ミステリーでもホラーでもファンタジーでも何でもそうだ。


 そうじゃなければ、「月が綺麗ですね」なんてのが後世に残る事もきっとなかっただろう。


「じゃあさ、わたしも聞いていい? 相良くんに」

「どうぞ。答えられる範囲でお答えしますよ」


 トップカーストの真壁さんが僕のような本の虫に聞くことなんてのは限られているが、わざわざ聞くようなことなんてあまりないだろうに。


「今、好きな人とか……いたりする?」


 立ち止まってそう聞いてきた真壁さん。

 少し上目遣いながらも琥珀色の瞳でしっかりと僕の姿を写していた。

 真っ直ぐに僕を見るその瞳はまるで時間を止める事すらできるような錯覚を憶えた。


「……いません。そもそも、僕に恋愛とかは向いてませんし、自分を高める努力なんてできないですからね」


 言い訳なのはわかっている。

 全部言い訳だ。だからこうして本の世界に逃げているのだ。


「そっか。ふふっ。そっかぁ」

「……なんですか? なんかダメだったりしますか?」

「ううん。べつにそうじゃないよっ」


 どうして真壁さんは不敵に笑うのだろうか。

 わからないから苦手だ。

 現実の人はわからない。


 物語ならもう少しわかりやすかったりするけれど、現実の人々の行動や気持ちは汲み取るには難しい。


「じゃあさ、わたしと……付き合ってくれない?」

「すみませんお断りさせて頂きます」

「即答?!」

「僕には真壁さんと関わり続ける覚悟とかないので」

「……か、覚悟?」

「はい」


 不用意に交友関係なんて広げるもんじゃない。

 他人の色んなものを背負えるだけの覚悟なんて僕には持ち合わせていない。


「重く考え過ぎだと思ったなら尚更です」

「べつに、重いとかは思ってない、けど……」


 沈んだ表情で下を向く真壁さんに申し訳なく思う。

 でも仕方がない。


「もしも僕が真壁さんの瞳を褒めたのが原因だったなら、忘れて下さい。僕じゃなくても、きっと綺麗だと言ったでしょうし」


 綺麗な景色を見て人が「綺麗」だと言うのと同じだ。

 誰が見ても真壁さんの瞳は綺麗だった。それだけ。


「……なんで覚悟が必要か、聞いてもいい?」

「中途半端に人付き合いをしたくないんです。それだけです。誰かの人生に影響を与えるのが怖いんです」


 昔、好きな人がいた。初恋だった。

 でもその子は病気で死んだ。

 告白した直後に倒れた。


 ただ好きな気持ちだけでは、その子に寄り添えなかった。怖かった。

 だから、僕は恋をしないようにしようと思った。

 薄情でどうしようもない僕が、誰かを幸せにだとか、そんな事ができるはずがない。


「相良くん」


 道の真ん中で、真壁さんは僕の手を握ってきた。

 縋るような弱々しくも熱のこもった手だった。


「でももうわたし、相良くんが褒めてくれた言葉を忘れるのは、もう無理だよ」


 涙で煌めく瞳で真壁さんはそう言った。

 その瞳を見て、僕はあの時とんでもない事を言ってしまったのだと今更気付いた。


 もうすでに、始まってしまっていた。






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