(続き)序叙その2

 喫茶『サン・ミッシェル』のガラス扉を開ける。坐る。メニューを眺める。午後二時、彼女が来る。小生は和綴本を出して読むふりをする。給仕が素早く近附き、彼女に微笑む。仔細洩らさず観察する。

 非現實的だった。薄膜のうちに封じ込められていて、何も彼もが間接的、二次的で、ほんとうのことは何一つ起こっていない。焦ってもあがいても虚しくもがくに過ぎない。被膜の生暖かい毛細血管が脈拍する感触を覚えるだけであった。

 やがて彼女が去る。小生は残る。日射が茜に傾くまで待つかのように動かなかった。埃が燦めくのを酒中に舞う金粉のようだな、と見据え続けていた。物が鮮やかに濃く映える時刻。日常の持つ眩暈のような静けさがあった。

 翌々日には男が挨拶し、女は微笑んで応える。俗っぽい、小生には耐えがたい、無造作で非情な、粗雑で乾いた外界の空気がそこにあった。それでいながら見続けずにはいられない美しく悼ましい光景、ストーリーのわからない古い映画を眺めているようでもある。


 小生は熟慮の末、結論した。

 無爲だ。諦めるべきだ。だってどうにも自分が言うことを利かないではないか。求めれば求めるほど、斥力が働く。意識すれば意識するほどに乖離する。やれる奴にはやれるが、やれない者にはやれないのだ。

 どうすればよいのか、毫たりともわからなかった。彼女は小生以外の人間である。どうにもならなかった。他の普通の人らは、いったい、どうしているのか。どうやってこれを凌いでいるのか。

 彼女が自己以外の人間、他者であることそれ自体は、無機質な、純粋な客観的事實として捉える(そんなことができれば、の話だが)とするならば別段問題ではない。

 だが求めるとなると事情が異なる。執著とは隔たりをなくしたいと欣求し、とり憑かれ、焦燥し、疾駈することなのだ。意識の隔てを反故にして、求めるものに飛びつきたい破滅的で矯激な衝動に駈られ、それしか考えられない。

 普通に他と均しく意識する分には災いではない。苦にならない。それのみを改めて強く烈しく求め、他が心情から喪われるとき、事情は一変する。陋劣に執著すれば、小生以外の人間であると云う他者性が峻しく眼前に異者の絶壁となって聳えるのだ。一瞥をもくれぬ無情の壁となってしまうのである。基本的に人は皆、誰かを意識すると多かれ少なかれ同樣の感じを抱くのではないだろうか。

 諦めるしかないのだ。人と自然に触れ合おうとすることは小生にとって瞬きを我慢するようなものである。心臓の動きをコントロールしろと言われるのと同じことであった。


 だがその翌日も同じ席に坐っている。坐ってじっと待っている。待ち伏せるかのようにである。暗鬱な眼差しだったに違いない。

 諦められるわけがないのは、決断を下した昨日のうちからわかっていた。彼女の眼窩のクリームのような甘やかなグラデーションから離れられない。だったら思い切って気持ちを告白すべきではないかと云う衷言は条理である。だめで元々じゃないか、やってみなければわからないよ、と言って人は微笑するかもしれない。一つだけはっきりとわかっていることがあった。


 彼女とは知り合いになれても膜からは出られないと云うことだ。他者性への違和感(他者性と云うこと自体が既に違和感の表明に他ならないのだが)を免れることはない。疎外感を拭えない。意識の緊迫を離れられない。畏怖をやめられない。自己以外の存在に対して警戒的であることをやめられない。

 やってみなくともそれだけは晰らかなのだ。もしも交際にまで漕ぎ着けても、ただ心労に果てるだけの、作り笑いのような人間関係しか構築できない。

 小生にとって意識とは絶望である。世間から隔離され、内奥に封ぜられ、焦慮することでしかない。自己の基底を喪うことであり、世界の一員であることを否定されることに他ならない。不安や畏怖の切迫でしかない。だがわかる。人間すべては皆同じ構造を持っている。小生だけではない。ただ余人は眼を逸らしてしまっているだけなのだ。見せかけの平衡を失えば、必ずや小生と同じくなる。閉ざされた暗闇の中で今までどうやって呼吸をしていのかがわからなくなり、窒息感を覚えるように。

 いったい、誰が意識から遁れられようか。どうやって遁れ得ようか。遁れられるなどと云うことは空想のうちにすら不可能だ。(そもそも空想すら意識の内ではないだろうか)


 併せて他者性からも遁れられないと云うことになる。一切が他者(もの)と云う以外の存在で脳裏に描かれることなどあり得ないからだ。何人にも爲し遂げられないどころか、他者ではないと云う存在の仕方がどう云うことなのかを解することすらかなわない。そこから遁れる以前の問題だ。他者性なくしては見ることも聞くことも嗅ぐことも味わうことも触れることすらも爲せない。

 なぜこうでなければならなかったかなんてわからなかった。システムに蹂躙されて行くしか選択肢がないことのみがわかる。だから慣れは必須なのだ。

 多くの人が麻痺しているに過ぎない。だが生きる爲には不可欠な麻痺だ。現實から眼を逸し、在りもせぬ蒼穹を憧憬せずして、どうして生きることに堪えられようか。都合のよい夢だけを観て、欲望の虜となり、狭く日々を凌ぐしかない。愛情や賞賛が實質的なものであると信じ、有意義や享樂や名声を信じ、それらを求め、希望を抱き、明日を期待し、行動する他にどのような肯定的な生存状態があるか。

 よって彼女にかくも恋焦がれながらも何も實働せぬ小生がごとき人物もまた愚かな欲望の虜となって思いを馳せ、廻らせ、樂しむ。


 彼女を、古代ギリシア古典期の彫像やルネッサンスの絵画やバロックの意匠やロココの衣装を鑑賞するかのように眺め、樣々な悲恋や英雄叙事詩や落城の凄絶、神のごとき王たちの死を想像し、邪教の妖姫サロメの舞踊を玉座にて堪能するかのように陶酔する。


 時刻が訪れると、ああ、ほんとうに彼女を欲するならば、今こそ去らせてはならない、声をかけて想いを伝え、心を捉え、愛の勝利者となって天使の賛歌を天に燦めかせるかの、聖なる栄光を浴びなければならぬと云う強迫観念に襲われ、その度にいくつもの言いわけを案出し、彼女が店を出ると責務を免れた人のように安堵した。

 いったい、小生はこれで何をしているのか。小生の生きているとは、何をすることなのか。何を求めているのか。ただ執著し、彼女と給仕とを見張っているだけである。彼女が他人と眼を触れ合わせることすら受容せず、自らは異界にいるかのごとく他人事的である。どう云うことなのか、これは。


 いや、畢竟、すべては愛されたいが所以なのだ。隔たりをばなくしたい。誰かに奪われたくない。他者であって欲しくない。彼女が他の人と心通わすことがないようにしたい。なぜそれが愛されたい欲望に違反するのかと言えば、よくわからない。ただもうそれ以外を考えられない。自分と一体であって欲しく、自分のわからない部分があって欲しくないと云うことしかない。彼女独自の体験があったり、小生には知られぬ部分があったりすることが赦せない。それが第三者と共有され、かつ小生の手に届かないものであることが絶対的に赦しがたい。

 相手がどのような小さな門戸をさえ閉じることを赦さずに一切開放しろと要求しているようなものだが、その癖自身は極度の猜疑と敵愾心とを抱き、自己の域が一寸でも侵されることを怖れ、保守の城壁から出られず、彼女に一歩も近附けない。

 小生にとっては、対象でない自己を除けば(普通、自己もまた自分によって観察される。すなわち一対象者たり得るので、敢えてこのような回りくどい言い方をさせてもらおう)、すべてが異和を感じるものであり、脅威であった。


 生来の性癖とは言え、情なくもある。彼女が他人と目を合わせ、言葉を交わしたぐらいが何だと言うのか。それが胸裂けるような悲憤なのか。小生に対する不義の行爲なのか。ああ、余りにも頑是ない。彼女が小生以外の他人と親しげにするなど別段のことではない。いや、もしそれがどうしても我慢ならんと言うなら、是非はともかく措くとしても、何か手を打てばよいではないか。打つべきではないか。彼女の心をこちらへ向け返らせる何かをせずに、心奥で喚いて現實の何が変わるのか。彼女は他者なのだ。思いどおりに運ぶものではない。いや、自分の手足だって意に反して萎え衰える時が訪れるではないか。何かがなくては、何かをしなくては変わらないのが現實だ。そのことには根拠も正義もない。ただそうなのだ。

 熟知しているくせに、でき得る限りに於いてさえも何をもせぬ者に、求め訴える資格があると言えるか。


 小生がかようなざまで彼女に何の約束もしてあげられないならば、彼女が何をしようが自由ではないか。そもそも別の人間なのだから、異なる世界観を持ち、小生が知らぬ今日までの樣々ないきさつがあり、人附き合いがあり、他者を寄せ附けない内的体験があり、独自の意志や思惑があり、推し測り切れない懊悩に身悶えた欲望があり、塩基の配列に組み込まれた生得の情念があるのは、当然のことである。

 それが赦せないならば、もし彼女が小生の恋人になったとしても、解決を見出すことがないのは自明だ。恋人になったからと言って、すべてを掌中にし、すベてが意向に適合し、すべてについて意趣のままであると言えるような状態が来るわけではない。恋を實らせる爲のどのような行動を執ったとしてもそんな望みはかなわない。彼女が小生とは別の思考で物事を考え、別の皮膚で感じ、別の心情で想うことをどうにかできるものではない。

 彼女をして異なった世界の中で生きている事實を変えられない。彼女が他者でなくなることはない。彼女の他者性を変えることはできない。

 あたりまえだ。


 彼女は現實の女なのである。また現實の女だからこそ愛執も生じる。現實の女でない女の愛を捉え、愛され、何の意味があると思えるか。

 もしどうしても彼女の他者性をなくしたいとするならば、彼女と一体化してしまうしかないではないか。實際問題は擱くとし、彼女になるか、彼女が小生になるか、入我し我入するか、ともかくも同一のものになってしまう以外に成就する途はない。受精卵じゃあるまいし、まったく以て蒙昧、五歳児でも無理だとわかる。

 しかし、それ以外に要請を満たす方途があり得ないこともまた一つの事實である。欲がそれを指で差しているかのようでさえある。實現の可能性を別にすればそれしか考えられない。

 小生は論としてのこの問題に惹かれた。自身が直面している現實の問題を置き去りにし、没入し始めた。


 考える。


 もし望んでいることが、内奥に潜在する欲望が、そう云うことだとするならば、欲望は永遠にたどり着くことなく空転し、小生をして癒されることのない飢餓と涸渇とに駈り続け、死を迎える日まで安らぎを与えてくれることはない。まんざら冗談とも言えぬように思えた。人間だ、人間だ、と訴えてみたところで、脳の基幹は依然として両生類やら爬虫類やらなのである。

 かくも無謀な欲が未だ健在であって一向不思議のないものと思え、小生の求究の欲はいよいよ嵩じた。

 現に彼女が他者として勝手に振舞うことに根底的な喪失感を抱いている。幼子は母親に対してこのような一体への欲望を抱くと謂われている。他にまったく寄る辺を知らぬ赤子などにとっては、たとえ一瞬であっても母が視界から消え去ることは、大きな喪失体験になると謂う。


 小生はこの時点で、彼女だけに偏って欲望し、肯定感のほぼすべてを彼女に委ねていた。依存の現況にあった。嬰児とほぼ同じ状態であった。

 同じ条件がそろえば同じ状況に陥るわけである。嬰児も小生も、ともに同じく人間だから同じ構造を有し、それゆえ同じ症例が出ることに不条理はない。ただ人生経験の差異を考慮すれば少々情ないだけである。

 されどなぜ自然は人をしてかなえられる筈のない欲望を抱かせるのか。しかもただ単にかなえられないと云うだけではない。

 もしも現實に対象との合致、一体化などと云うとんでもないことが起こってしまったら、どうなるのだろうか。


 欣求していたそれを歓びとして感受可能であろうか。

 彼女が小生と合致してしまえば、それはもうただの小生であり、合致前と何ら変わらないではないのか。そう云う素朴な思いが泛ぶ。

 確かに何ら変わらないに違いない。


 感受とは、他者的刺激(他者的ではない刺激があり得ないので、これは冗漫な言葉だ。また刺激とは体感上既に感受に他ならないので、同義反復でもある)によって起こる反射である。刺激とは謂わば負荷に拠る緊張(同じく負荷もまた緊張自体に他ならないが)、ストレスだ。ストレスが与えられて生じるのが感受(同樣にストレスもまた感受自体に他ならない)の基本構造ではないか。手で物に触れたときだって、抵抗感である粗さなどがあるから刺激を受けて神経が反応する。他者性とは意識自体なのである。


 またそれは諸考概の装甲であり、他者性なくしては諸考概の具象が做せないのだ。見掛上、考概化の別名義とも言ってもよい。

 とすれば畢竟、合致とは意識の終焉を意味する。意識の終焉とは(あり得ないことではあるが)大変なことだ。意識がなくば何も彼もがなくなるからだ。意識とは世界であり、まさに瞬間を生きていると云うことのすべてではないか。

 よって他者性、すなわち疎外感や乖離感と云うかたちを採らずしては、合致感も顕われない。顕われようがない。端的に考えただけでも容易に解せる。

 もし彼女が小生と合致してしまって、そこに自分しか見出せなければ独りなのと同じ、と言うか、文字どおりの独りである。自己と他者とが分明できなければ甲斐がない。自分は今まさに合致している状態にあるのだなどと識ることは不可能である。合致を果たした満足が味わえない。

 彼女が彼女でなくては合致の満足はないのだ。彼女の他者性、すなわち彼女と小生との識別可能な状態を維持しながら、合致を果たすのでなければ満たされないのである。だがそのような乖離性を残した合致が合致としての安寧を与えてくれるであろうか。

 これは自家撞着である。 


 合致要請は構造的に矛盾している。小生の愚痴なる欲情は物理的に實現不可能なばかりでなく、構造的にも絶対成就できない。

 ならば合致要請などやめてしまえばよい。それだけのことである。苦しむばかりで實現性なく、無爲であるならば、やめてしまえばよいのである。

 と言うは簡単であったが、到底やめられるものとは思えなかった。息するなとか、胃液を分泌するなとか言うのと同じである。指尖に感受される抵抗の粗さをやめることができるだろうか。

 これは直観的には自明なことだ。


 抵抗の粗さも合致要請なのである。あらゆる感覚もそうだ。 

 すなわち指尖に感受される抵抗の粗さは、我々が認知する段階では既に『抵抗の粗さ』と云う他者性(=意識)を做している。他者性とは或る種の脅威(関心を誘う因子)であり、脅威が脅威であるのはそれを脅威でなくしたい気持ちが含まれ、すなわちなくしたいのになくなっていないと云うことである。

 脅威でない状態、合致状態を望み、かつそれがかなえられていない状態であることがわかる。


 かなえられないのは前述のとおり合致が既に構造的に表象不可能であると云う、異和がなくば他者性も表象し得ない原的構造によるもの。

 指尖に感受される抵抗の粗さ=『抵抗の粗さ』と云う他者性は、既に合致要請であり、指尖に感受される抵抗の粗さをやめることができないと云うことは、合致要請をやめられないと云うことをも示すのである。

『指尖の抵抗』とは、生きている實感そのものなのだ。やめられぬのも無理からぬ。意識そのものなのである。

 生きていると云う感覚、實存、生きていることそのものであるがゆえに、合致要請はやめられない。


 指尖の感受(『抵抗の粗さ』と云う意識)をやめることができないと云う、實践的にあたりまえで、直截的な体感には、かようにも強烈な源泉があるのである。

 そこまで原初的なことを言わずとも、通常人間が稀なる貴高さを示す異性に執著するのは、避けがたい衝動ではないか。小生はこれを愛しまぬことなど考えられない。

 また余人が所有せぬものを所有する優越に烈しく憧れずにはいられない。これに空想を廻らせずいられようか。


 實際に、小生は一瞬たりとも彼女を想わぬときがない。高潔にして清廉なる異性を眼の前にして、それが我が爲に取り乱し、我が爲に焦燥し、崩壊へと至る過程を眺めたいと切望せずにはいられない。優位の満足を求めずにいることなどできない。恋愛が優位性の確認を求める根幹的欲望に基づくものでもあることは知られた事實だ。


 これら一切は自己肯定の樣態だと言える。


 自分の立場にとってよいもの、有利なもの、自己を實現するものを欲し、自分が他者に対して優位であることを希い、他に比して優位である、肯定的と言うべき状態に至りたいと云う、欲望の基幹となる欲である。


 また種としての存続への意志でもある。

 比較的原始的な、暑さや寒さや苦しみを避けたい欲や飲食欲や生殖欲などもまた自己の肯定的状態を求めての欲だと捉えれば、自己肯定欲とは、生命の原理の原理であり、最深層に根附く欲望である。

 死は生物的には最大の自己否定なのだ。


 このようにまったく異和のない合致状態を求める。

 すなわち合致要請は、生の基底にある自己肯定欲と密接であるがゆえに、小生を凌駕し、かくまでも根源的に人間の現存の構造に奥嵌している(と言うよりは、人間の現存を構築している)。合致要請は生そのものだとも言える。だから『抵抗の粗さ』は物理的にも到底離れることができぬ實在として現にあるのである。

 なぜこのような苦労がなければならないのか。異和がなくてはならないのか。なくては生が成り立たないからだろう。


 むしろ生を、實存であるこの意識を成り立たせる爲にこのような仕組みが構築されたのかもしれない。異逆が異逆であるのは生の爲かもしれない。刺激物の官感受によって意識が顕われるのではなく、意識の爲に刺激と云う特性が措定されたのかもしれない。すなわち生の爲に異逆との葛藤があり、刺激としての表象があり、他者と云う脅威(他者性)があり、次に起こる出来事への関心があり、他者性によって存在の不安や異逆を感じると云う苦しみがあり、その苦しみからの解放(合致)への希求がある。小生らがこのようにしていると云うこと、生きていることそのもの、すなわち意識の爲にそのように措定されたのではないか。

 それが意欲と云うものの實体であり、生存の原理となって小生ら人間を(もしかしたら一切の存在を)衝き動かす。


 生物の歴史は自分以外の存在が自分に対して異逆性を有し、自己肯定(生存)の爲にはそれらを鞣し続けなければならなかった、と云う歴史であり、苦しみに駈られ(或いは歓びに駈られ)、そのようにし続けなければならなかった歴史だと言えなくもない。


 とすれば自家撞着は終わりなく、生きようとする意欲を生ぜしめる爲の、生命の原理の必然性から来るのか。自家撞着の解消は无を招くことでしかないのか。いくら努力しようともここからは永遠に遁れられはしないのか。せいぜい棘の尖を少しでも丸め、毒を薄め、普通人の顔を装って生きるしかないのか。


 だが、なぜ。なぜ生が、意識がなくてはならないのか。この問いこそは存在の意味の究明であり、誰しも容易に答えられるものではない。恐らく小生ら人間が考えるような意味での答らしい答はないのだ。なぜならば諸考概と諸論理とはその後から生まれているものであり、むしろ合致要請に基づく自家撞着を起こす爲の絡繰りの一つに過ぎない可能性が想定されるからである。


 そこには何もない。ただそうだからそうだとしか言えない。事實だけが経緯もなく唐突に、理由もなく忽然と在るだけである。公義なく、だから識別も名稱もない事實ただそれだけと云う非情性、そこには无空しかない。


 珈琲が冷めていた。

 小生は日常生活のこの場に突然放り投げられた者のように周囲を見廻す。すべてを異樣なものを眼にするかのように眺めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る