(続き)序叙その3

 翌朝は天晴れ好日であった。


 小生は酸素を欲し、龍呑神社に足を運んだ。『サン・ミッシェル』へ赴きたいと云う、駈られるような衝動が俄かに勃発する兆しが見受けられなくもなかったが、どうにも本気になれない。石畳の参道をたどった。鬱蒼とした橅木の大樹が連なり、神域を匂わせる。鳥居をくぐり、苔むしてあちこち缼けた石段を上り、境内に入った。ご神木の老杉を右に見ながら、本殿へと進む。


 急勾配を做す檜皮(ひわだ)葺(ぶき)の屋根に千木が高らかに交叉し、切妻妻入の春日造で、また龍呑独自の特徴もある。全体に屋根が大きく、床が高く、向拝(こうはい)の階段の傾斜が著しいことだ。屋根は破風から軒までを反り伸びて、広げた翼のようでもある。社本体の倍ほども幅があるように見えた。


 向拝を蓋う屋根の軒下に社の柱と向拝柱とを繫ぐ虹梁(こうりょう)が渡っており、龍の彫りものを做してそのまま向拝柱に絡み附き下り、参拝者に裂口を開く。


 小生は逍遥した。古びた手水舎や石垣を眺めたり、杉の膚に触れてみたりする。楓の枝振りを愛で、露に濡れて黒っぽくなった橅の樹皮に苔の類が薄緑やら灰色やらの斑文を做すさまや、穏やかな起伏が息衝くような生命感を持つその樹幹が龍脚のごとくに見えたり、地表に明るい緑の苔があったりするのに眼を留める。また葉桜の垂枝を見下ろしては地を這う大蛇を連想したり、本殿の背後にある杜(もり)はお社に蓋い被さるように勢を傾けていたりするんだなあ、などと不思議に思ったりしながら時を過ごし、次第に時間の流れが緩やかになるのを感じた。


 普遍的一般考概を以て眺めてしまえば、特段のことはない。だが精細巧緻を追えば繚亂し、たちまち豊穣となるその樣相は捉えがたくなる。心を惹いて止まない。


 この事態は容易に解明できる。


 心惹かれて止まないとは、捉えたく焦燥し、葛藤していると云うことだ。捉えられないものはすべて意に背くからだ。他者としての他者性を帯び、異逆を做し、脅威を感じさせる。自己肯定を脅かし、存在の不安を覚えさせ、敵意を気遣わせる。

 この他者性を排したく、合致に到達したく、あがく。結局それが他者への関心となるのだ。これが最も発達し、客観的認識を有するのが人間であると言えよう。

 人間がその先鋭と考えれば、あるあらゆる生命が皆同樣に、他者性に喚起され、関心が赴くよう造られていると見てよいのではないか。それが進化ではないか。発達の最大時にあるすべての幼い動物が樣々なものに興味を示すのは、その最も端的な例ではあるまいか。


 とすれば脅威を覚えると云う情態は魅了されることをも含むのではないか。美が堪えがたいと言われる所以もこのあたりの事情を指しているのではないか。

 かように人間は苦しみと歓びとに駈られ、他者へと向かう。合致を夢みて。自己以外の他者対象、たとえば卑俗なところで金とか女とか物品とかに自己肯定の理由を求めるは、こうした理由からではないか。

 高度に発達した認識がより客観性の高い認識へ向かおうとすることはこう云った原理からではないか。より自己の例外へ、自分の外へと冒険し、新しいものを、鮮やかなものを求め、外部へと飛翔せんと欲情し、そこに於いてこそ、いや、そこにしかリアリティを発見し得ないのは。

 

 だが無論、成就しない。相も変わらぬ自家撞着に襲われる。

 仕方ない。他者性が持つ異逆、離反性と云う象りが、諸考概の彫像にかたち做されなかったならば、剋され、鞭打たれることもないが、興趣の情も味わえない。と言うか、生きる欲求が生じない。


 小生が彼女への欲を遂げられないのは幸いなのかもしれない。自然を捉えられないのは素晴らしいことなのかもしれない。捉え切れてしまえば、生き甲斐などない。魅了されることもなくなる。捉えられるようなものが現實的なもの、切實として感じられるか。いや、それ以前に捉え切れて安寧してしまうようでは、未来への心慮なく、人生を做すべき理由がなくなる。


 人間の認識が把捉する便宜の爲だけにあると考えれば、いかんとも解しがたい現象ではある。

 しかしながら、生きる意欲を駈る爲に、この絡繰りがあると思えば、すっきりと嵌まる。他者性がなぜ異逆性なのか、なぜ他者性を維持した合致があり得ないのか(他者性を維持した合致があり得ないのは、直感的にはあたりまえなことのようだが、よく考えると明晰な必然性はない。だが合致させないと云う意向が先にあったのだとすれば、不思議はない。コペルニクス的転回という奴だ)が晰らかとなる。


 他者性は他者に事實としてある本質ではなく、こちら側(と言っても小生の、ではない。小生の生存の、である)に内在する動機の顕在であり、こちら側から仕組んだものなのだ。初めに不一致と云う結論があり、それ以外の一切は見掛上の体裁、事務的なる処理でしかない。


 自家撞着するように構築されたから自家撞着するに過ぎない。かくして人の執著を熾し、より強く烈しく渇き求める焦燥の怨霊と做し、生へと向かい続けさせる。一切はその爲だけの架空の絡繰りだと解すべきなのだ。

 宇宙的な原理に基づく問答無用のこの絡繰りは必需のものなのだ。いいじゃないか。お蔭で意識、世界、生きることがあり、すべてが捉えがたい豊穣の樣相を顕在させ、人生の妙義を做す。


 あはは。善哉(よきかな)。

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