第8話
以降、文化は急速に発達し、蓄音機という装置があれば、ピアノやオルガンが家になくとも、音楽を聴くことができるようになった。
西洋音楽の旋律は、人々の身近になった反面、目新しさを失った。
あれだけ巷にあふれていたあの男の曲も、すっかり聴くこともなくなっていたある日のこと。
「ゆきやこんこ、あられやこんこ」
「い、一郎や、そのお歌は……」
小学校に上がったばかりの我が息子が庭で口ずさんでいた歌が、縁側で寛いていた私の耳に入ってきた。
その時の私は、よほど驚いた顔をしていたのだろう。
一郎は最初、きょとんとした顔で私を見つめていたが、すぐににっこりと笑った。
「はい、父さま。
一昨日の音楽の時間に、先生から教えてもらったのです」
「そ、そうか。
いや、お父さんが知っていた歌と、とても良く似ていたからね。……最後まで聞かせてくれるかい?」
「はい!」
一郎は、はきはきと返事をした後、元気よく歌い始める。
そんな、まさか……
それは、かつて私が夢中になって聴いた曲に相違なかった。
信じられない、あの男が鬼籍に入って、もう十年以上も経っているというのに!
それは、昔私が聴いた原曲とはかなり違っていたものの、歌い出しは間違いなく同じ、彼の曲であった。
つまり、こういうことだ。
彼の書いた曲は、市井に溶け込み浸透し、少しずつ
瞬間、心の内に鍵をかけて閉じ込めたつもりの罪悪感が、ぶわっと膨れ上がった。
そしてそれは、竜巻のように猛烈に私の良心を傷つけた。
ああ、私はとんでもない過ちを犯してしまった。
岡野の言った通り、彼はやはり、百年に一度の逸材だった。
私は、その天賦の才を、日本の音楽の発展に欠かせぬ人材を、つまらぬ嫉妬で失わせてしまったのだ!
「お、おおお……」
「父様、どうされました父様」
私は、いつのまにか縁側に手をついて嗚咽を漏らし、泣いていた。
気がつけば一郎と家内が傍にいて、私の背中をさすっている。
ふたりに大丈夫だと言い、何とか立ち上がった私は、一郎の歌っていたさっきの曲を、すぐさま譜面に書き起こした。
その後も私は、「雪」と同様に、いくつかの曲を探し出して書き起こし、「作者不詳」として、小学生の音楽の教科書に掲載させた。
当時の私は、文部省でそれぐらいの権力を持っていた。
そうだ。これは私のせめてもの贖罪———
たとえ彼の肉体や楽譜が失われていようと、彼の芸術は死なせない。
彼は、彼自身の歌の中でなお生き続けるのだ。
これで私の魂は、ようやく救済された……
かに思えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます