第7話

 日々の忙しさの中、あの男のことなどすっかり忘れていた私にとって、それはかなりの衝撃インパクトを持ったニュースであった。


 その事を私に伝えた部下は、忌々しげにこう言った。

「何でも、留学先の独逸で、肺結核しびょうを患ったらしく。

 ええ、東京ではなく、故郷の大分に戻っており、そこで最期を迎えたそうです。

 せっかく国家予算を使って勉強をさせてやったというのに、勿体ない」


 憤慨する部下に、その場では何気ない返事を返したものの。

 彼を追い払った後すぐに、私は心臓が締め付けられるような気分の悪さに見舞われた。

 動悸と冷や汗が止まらなくなり、とうとうその日は早退を申し出た。


 当時の私には思いもよらなかったことだが、今ならわかる。

 私は、芸術というものに対して、何かとんでもない冒涜を犯した気になっていたのだ。

 それから実に一週間も寝込み、家内や職場にも、多大な迷惑をかけてしまった。


 それからさらに一週間後。

 すっかり痩せた姿でようやく仕事に復帰した私に、部下が嬉しそうに報告しに来た。


「私の立ち会いの元、あの男の書いた譜面を全て焼却処分して来ました」


「な、なんとバカなことを……」


 私があの男のことを快く思っていないと察していた部下は、そうすれば褒めてもらえるとでも考えていたに違いない。


 私が、嘆き口調で顔を覆ったのを見て取ると、あたふたと言い訳を始めた。


「あ、あの男は肺結核に罹患しておりました!

ゆえに、持ち出される可能性のあるものは全て、早急に焼却せざるを得なかったのであります!」


 その後もくどくどと言い訳を続ける部下を「もういい」と下がらせ、私は紙巻煙草をやりに、屋上へと上がった。


 青い空に向かって紫煙を燻らせ、静かに物思いに耽る。


 これは、私の狭量が招いたことなのか?

 否、違う。たまたまだ。


 我々は、慧眼を持ってあの男を才を見出し、国を代表する音楽家として育てるべく、先進の地へと送り出した。

 あの男は、憧れだった独逸への留学を果たし、本望を遂げたのだ。


 残念ながら、志半ばにして病に斃れてしまったが、藝術の道とは厳しいもの。

 やむなき天命、仕方のないことだった。

 ちょっとした私の意地悪が、彼の未来を奪っただなんて、悪い連想もいいところだ。


 私は、何度も何度も自身にそう言い聞かせた。


 そして、それから後は、このことを積極的に忘れることにした。

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