第2章第18話「音楽を奏でる理由①」
「今更だけど、この後の授業は大丈夫?」
「うん、今日はもう授業出る気分じゃなくなっちゃったからサボっちゃう。沢渡くんは?」
「俺は元々レッスン後は何もなかったから平気」
「あ、レッスン……三笠先生、怒ってなかった?」
「大丈夫だよ。俺が何とかするんでって言って出て来たから」
「そっか」
そんな会話をしながら俺たちは旧楽奏堂を出て、上野駅へと向かった。電車の中で俺は、奏良に〝こっちは大丈夫〟という連絡を入れておいた。すぐに既読がついて、良かった! とスタンプが送られてきた。
電車の中で俺たちは無言だった。でも、その無言の時間は気まずくはなく心地良かった。
「もうすぐ着くよ」
「あれ、ここって寮の最寄り駅?」
「そう」
お気に入りの場所は、着くまでのお楽しみにしておいた。寮の最寄り駅に到着し、ホームに降り立つ。こんな明るい時間帯にここにいるのはめったにないから不思議な感じだ。今日はバイトは元々ない日だったけど、最近はレッスン後は奏良と練習して帰っていたからどのみち暗い時間帯に着いていた。
「チェロって重くない?」
改札口を出て、寮の方面へ向かいながら歩いている時に東宮さんがそう聞いてきた。
「うーん、最初は重すぎるって思ったけど慣れちゃったから今はもう身体の一部みたいな感じかな。全然、重さは感じない」
「へぇ、すごいなぁ。私、お母さんがもしヴァイオリンじゃなくてチェロとかコントラバスとかだったらやろうって思えていなかったかも。あ、嫌いとかじゃなくてね! 私には出来そうにないなぁって。大きさ的に……」
「確かに、女性にはけっこう厳しいよな。でも、チェロも色んな大きさあって小さめサイズとかもあるんだ。俺が使ってるのも実は小さめサイズのチェロ」
「そうなんだ。全然大きく見えるし、かっこいいなーっていつも思ってるよ」
東宮さんのその言葉が嬉しかった。俺は、男子の中では背が低い方なのがコンプレックスでチェロというかっこいい楽器をかっこよく背負えていない気がして、チェロを持って外を歩くのが苦手だった。最初の頃は、人通りが少ない道を歩いて帰ったりしていたっけ。実家の方は田舎だったから良かったけど、こちらはどこにいても人がいて俺を見て笑っているように感じたこともあったものだ。今では、すっかり慣れて気にしなくなったけれど……。
「ありがとう」
「私の方こそ、今日話し聞いてくれてありがとう。大事な時間奪っちゃってごめんね。練習時間確保するためにバイトの調整しているんだよね? なのに……」
「平気だよ。それに、これから練習できるし」
「え、これから?」
「うん」
そんな会話をしながら歩いていれば、俺のお気に入りの場所へ到着した。
「ここが俺のお気に入りの場所」
「素敵……こんな場所が寮の近くにあったんだ」
「ちょっと離れてるから寄り道しようと思わないと、なかなか見つけられない場所だよな」
俺が、この川沿いの散歩道のベンチを見つけたのは2年生のもめごとがあった後だった。まっすぐ寮に帰りたくなくて、一人になりたくて、何となくぶらぶらしていたら見つけた場所。
「こんな場所を見つけられる沢渡くんはすごいね」
「すごくはないと思うけどな。ここで楽器を弾くとさすごく落ち着くから東宮さんも弾いてみてよ」
「良いの?」
「もちろん。そのために連れて来たんだから」
「……ありがとう」
東宮さんは笑ってそう言った。それから、俺たちはベンチに腰を下ろしてそれぞれ楽器を取り出した。
「じゃあ、フォーレの合唱曲〝ラシーヌ讃歌〟を弾くね。この曲は元々、混合四部合唱なんだけど私はヴァイオリンだけで弾くのも好きで気持ちを落ち着かせたい時によく弾いているんだ。すごく穏やかな曲だから眠くなっちゃうかも。眠くなったら寝てて良いよ」
「寝ないよ。初めて聞く曲だから楽しみだ」
「ありがとう」
それから、東宮さんはヴァイオリンを構えて弓を引いた。綺麗で、穏やかで静かな音が流れていく。心地よくて、心が浄化されていく。ヴァイオリンを気持ちよさそうに弾く東宮さんに、夕日がかかってとても神秘的な光景に見えた。ラシーヌ讃歌は5分ほどの曲で、気づけば終わってしまっていた。
「外であまり弾かないんだけどとっても気持ちよかった~! 沢渡くんの言った通り良い気分転換になったよ」
「だろ? 東宮さんのヴァイオリンすごく素敵だった。ずっと聞いていたいって思っちゃうくらい」
「あ、ありがとう。なんか、家族以外からそう言ってもらえることなかったから嬉しいな。ねぇ、沢渡くんもなんか弾いてよ」
「え、俺?」
「うん」
ここではよく弾いてはいるけれど、ここで弾いている自分の音を誰かに聞かせたことは今までなかった。だから、少し緊張してしまう。
「んーじゃあ、カノンで」
「カノン良いよね~」
「うん」
俺は、そう頷いてからカノンを弾き始めた。カノンが好きな曲なのか、と聞かれると少し違うような気がして好きな曲なんだ、とは言えない。ただ初めて練習した曲でずっと弾き続けているから弾きやすいというだけ。自分の中では練習曲のような気持ちだ。今まではそうだった。だけど、真柴さんが音楽バーで見つけてくれた時に弾いていたのがカノン、だったのもありあの日以降は少し特別な曲にはなった。
「ぜんぜん、レッスンの時の音と違う!」
最後の1音を弾き終えてすぐに、東宮さんは驚きの声をあげた。
「レッスンの時の音が良くないっていうんじゃないよ? いつもの音もすごく素敵なんだけど、いつも以上っていうか……」
「やっぱそうなんだな」
真柴さんの耳が良すぎるから違って聞こえるのか、と思ったけれどどうやらそうではないみたいだ。誰が聞いても、大学内で弾く俺のチェロの音と外で弾く音は違うらしい。
「どうしてその音で弾かないの?」
そして、誰もがその疑問を口にする。真柴さん以外に過去のことを話すのは初めてでどう思われるか怖かったけれど、正直に話した。
「……他人に遠慮して自分の弾きたい音を奏でられないのは勿体ないよ。自分の弾きたい音で弾かないと」
話しを聞き終えた東宮さんは、優しい声でそう言ってくれた。
「そう、だよな……」
「ねぇ、沢渡くんはいつも何を思って音楽を奏でてる? 私は、お母さんのことを想いながら弾いてるんだ。天国のお母さんにまで届けって……」
東宮さんにそう聞かれて、俺はすぐに答えることが出来なかった。――なんの為、誰の為、そんなことを考えたことがなかったから。
「ごめん、気にしないで。次回のレッスンまでに詩織ちゃんと仲直りしておくから安心してね」
「あ、う、うん」
それから、俺たちは楽器を片付けてそのまま寮へと帰った。
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