第2章第9話「心配」

 真柴さんのピアノ演奏会を聞いてから、俺たちはより一層練習に力が入っていった。俺は、土日にバイトを集中させて平日は火、水、木だけにし、月と金のグループレッスンがある日は終わってからも残って練習できるようにした。

 土日は、早朝コンビニバイト、昼間は単発のバイトを入れて夕方から夜は音楽バー。疲れているはずだが、そんなこともいっていられない。9月にある芸祭に向けて練習しないといけない楽曲も増えたから、当然練習量もその数に合わせて増やさないといけないのだ。


 今日は、夏休み前最後のレッスン日。夏休み中は、夏期特別講習日として何日か集まる日を設けられてはいるが強制ではない。来られる人は来てください、といった感じだ。一人だったとしても三笠先生は来てくれるそうだ。


「アマービレのレベルはどんどん良くなっていっている。だけど、練習しすぎも良くないから適度に休みをいれていけよ。自分の身体はもちろん、楽器も弾き続けると良くないからな」

 

 三笠先生は、俺たちの顔を見回してそう言った。明日からの夏休み、上手く時間を使って楽器も休まさせていかなければな、と思いながらはい、と返事をした。


 その後楽器の片づけをしながら、夏休みはどうしようかという話題になった。


「あたしは、なるべく大学来て練習するつもり~8月末に海外旅行に1週間は行くけど!」

「良いなぁ、どこ行くの?」

「パリよ。あたしの憧れの国なの。舞はどっか行くのー?」

「私は、実家に帰るくらいかなぁ。でも、夏休み中にやっているコンサートとかは色々見に行きたいなって思ってる」


 2人の会話を聞きながら、世界が違うなぁと感じてしまった。俺は夏休みも特に普段と変わらない。授業の時間がその分、バイトと練習に変わるくらいだ。


「何回かは集まれると良いけどみんなさっき配られた日程は空いてそう?」

「うん、今のところ大丈夫ー」

「私は、来週は厳しいけどそれ以外は平気そうだよ」

「俺も、8月はもうシフト決まっちゃってるんだけど9月の方は芸祭前はバイト入れないようにするつもり」


 そんな夏休みの話しをしている間、奏良は全く話題に入ってこなくてずっと楽器の手入れをしている。


「奏良は?」


 そんな奏良が気になってしまい、俺はそう問いかけた。


「あーごめん俺、夏休みはたぶん弾く時間ほぼなさそう。あっても早朝とか? だから、みんなと時間合わせるのはきついかも」


 奏良は楽器をケースにしまいながら、申し訳なさそうに言った。


「そっか……」

「そんな顔すんなよ~ちゃんと個人練の時間は何とかして取るからさ!」

「うん」


 奏良の家庭の事情は、詳しくは知らない。お母さんがあまり家にいなくて、お父さんは単身赴任をしていて弟妹が4人いるという情報だけだ。あと、都電荒川線沿いに住んでいるという新しい情報もこの前手に入れた。


「じゃあ、しばらく会えなくなるけど元気でな~」

「城ケ崎くんもあまり無理しないでね、またね」


 バイバーイと手を振って、奏良はレッスン室を出て行った。


「奏良、大丈夫かな」

「そういうあんたは大丈夫なの?」

「え?」

「最近、疲れてる顔してるよ」


 あぁ、やっぱり隠せていなかったか。


「大丈夫、大丈夫。明日からは授業ないしさ、その分休めるから」

「みんな、頑張ってくれているのは嬉しいけど体調崩したら意味ないから休む時はほんとに休んでね」


 三笠先生と同じ言葉を真柴さんは言った。


「うん、善処します」

「ほんとにお願いね」


 みんなは心配してくれているけど、実は俺は今までバイトのし過ぎで倒れたことは1度もない。何の自慢にもならないが、身体が慣れてしまっていて、逆にバイトをしていないと落ち着かないくらいで……。だから、倒れる心配はないという自信があった。


 そうして、それぞれ夏休みへと入っていったが芸大生には夏休みなんてあってないようなもの。夏休み期間中の9月最初の土日に芸祭があるから、8月はそれに向けて準備をしないといけない。芸祭が終わったら終わったで俺たちには弦楽専攻の学内演奏会と、室内楽オーディションが待っている。

 夏休みは、授業がないだけで普通の人たちは大学に通っているそうだ。俺は、グループレッスンがある日には行っているけれど、それ以外はバイトと練習に宛てられる時間があっても、外でしていた。どうせ、大学構内では思うように弾けないから……という考えは良くないと分かってはいるけれど。


 今日は、芸祭前最後のグループレッスンの日だ。夏休みが始まってからみんなに会うのは初めてだった。奏良はやっぱりいないかなぁ、と思いながら大学へ向かっていると前によく知った背中が見えた。だけど、前に見た時よりも細いと感じるのは気のせいだと思いたい……。


「奏良!」


 俺は思わず駆け寄った。


「おー久しぶり~」

「久しぶり。練習来られたんだな」

「なんとかなー」


 振り返った奏良はとても疲れた顔をしている。来てくれたのは嬉しいけど、大丈夫だろうか。


「早朝くらい練習できるかもって思ってたけど、無理だったなぁ。まあ、昨日で弟妹たちの夏休みは終わったからさ来週からはマシになる」

「それなら、良かったけど無理するなよ?」

「大丈夫だってー」


 そんな会話をしながら、俺たちはグループレッスンの教室へと向かった。


 レッスン室のドアを開ければ、女子たちは既に揃っていた。


「城ケ崎くん、来られたんだね」

「良かった~いくらあたし達が完璧っていっても最後くらい全員練出来ないと不安だもんね!」

「うん、みんな集まれてよかった」


 俺たちの演奏は、夏休み前までにほぼ出来上がってはいた。だけど、しばらく時間が経つとまた元に戻ってしまう。いくら、個人のレベルが良くなっていってても合奏となればまた違う。


「お待たせ~お、今日は全員いるな!」


 最後に三笠先生が入って来て、嬉しそうにそう言った。それから、セッティングをしてそれぞれ椅子に座り、チューニングを始めた。音楽が始まろうとするこの瞬間が、すごく好きだ。

 三笠先生の指揮のもと、最初は1番長く練習をしているドヴォルザークを弾いた。あぁ、やっぱりすごく素敵な曲だ。楽しいな、みんなの音が聞こえるくるのが安心する。しばらく全員揃っていなかったから。アマービレの音は、5人で完成する。誰か一人でも欠けたらダメなんだな、と久々に全員の音が合わさったことで実感した。


 しかし、最後のフレーズに入るという時、聞こえてくるはずの音は聞こえず聞こえて欲しくなかった音が聞こえてきた。


「奏良!」


 隣に座っていた奏良が椅子から倒れ落ちそうになった音だ。俺は慌ててその身体を支えた。俺と奏良の楽器は、すぐに事態に気が付いた女子たちが抑えてくれてた。


「だ、だいじょうぶ。悪りぃ、悪りぃ」

「大丈夫じゃないだろ。身体熱いよ」


 校門前で会った時に触れていれば良かった。きっとあの時から既に体調は悪かったはずだ。


「先生、ちょっと休憩入れさせてください」

「もちろんだ。ここじゃ、休むに休めんだろ。保健室まで連れて行こう」

「だいじょうぶです。練習、しないと……」

「ダメだ。そんな状態の学生を無理やり練習させたなんて知られたら俺が訴えられてしまう」

「……っ」


 悔しそうに奏良は顔を埋めた。それから、とても歩けそうにない奏良を先生が背負って保健室まで連れて行ってくれて、俺たちはその後に着いて行った。


「無理、しすぎだな。軽すぎる」

「え……」

「城ケ崎、ちゃんと食事はとっているのか?」


 先生の背中で奏良は、小さく首を振った。


「なんか、全然食えなくて……」

「保健室より病院行った方がいいんじゃないか」

「だいじょうぶ、なんで、病院だけは嫌ですっ」


 奏良の声は泣きそうだった。


「三笠先生、俺たちがなんとかするんでひとまず保健室でお願いします」

「しょうがないなぁ」


 小さくため息をついて、三笠先生はそのまま保健室へと入ってくれた。夏休み中の保健室には保健医はいなくて、むわっとした空気が漂っていた。すぐに、東宮さんが窓を開けてくれてその間に中園さんが冷房を入れてくれた。真柴さんは、どこかへ電話をかけているようだ。三笠先生は、奏良をベッドに寝かせた。

 ベッドに寝かされた奏良はとても辛そうだ。顔が赤く息も荒い。熱を測ったら38.9度もあって驚いた。


「城ケ崎の家の事情、沢渡は何か聞いてるか?」


 三笠先生は、体温計に映し出された数字を見ながら何とも言えない表情でそう聞いた。

 

「あまり、詳しくは知らないんですけどお父さんは単身赴任でいなくてお母さんは自由人で、弟が3人妹が1人いるって言ってました。家のことはほとんど全部奏良がやってるって……」

「なんだそれは……」


 信じられない、という顔で苦しそうに眠る奏良の顔を三笠先生は見つめた。


「でも、家族のこと好きだからって苦痛じゃないんだって言ってました……」

「……じゃあ、このまま家に帰っても城ケ崎くんのこと看病してくれる人はいないってことよね」


 中園さんの言葉にうん、と頷いた。


「さっき、迎えの車を呼んでいたの。送り届けはしようと思っていたけど、私たちも行った方が良さそうね」

「私も、手伝えることは手伝いたい。今日も帰ったらしないといけないことあったはずだもんね……」

「うん。みんなで奏良のこと助けよう。三笠先生、練習途中までって形になっちゃってすみません」

「そんなことは気にするな。本番を良い上体で迎えられるように、今は城ケ崎の体調が最優先だ。頼んだぞ」


 はい! と俺たちは返事をした。三笠先生はほっとした顔で保健室を出て行った。

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