第2章第8話「遠い存在」
その日、最後に演奏した音は今までで1番良い音だった。みんなの心が確かに1つになったからだろう。独りよがりの勝ちたい、という気持ちではなくてアマービレとして学年トップを勝ち取りたい。俺も、初めてそう思えた。平均点で今まで生きてきたけれど、これからトップを取れるかもしれないのだ。いよいよバイトについて本格的に考えないといけないかもしれないな、と思い始めていた。
それから、俺たちが帰り支度をしているとちょうど真柴さんのお姉さんが帰って来た。奏良がバカなことをして俺も巻き込まれて、それを中園さんが飽きれた顔で見ていて、東宮さんは静かに笑っていて、真柴さんは片付けをしながらあはは、と笑っていた。
そんな状態の時にお姉さんは帰って来て、しばらく廊下でぼーっとリビングの異様な光景を見つめていた。
「あ、お姉ちゃん、おかえりなさい」
「随分楽しそうね」
「さっき最高に良い合奏が出来てテンション高くなっちゃったの」
「良いわね「あ! もしかして真柴さんのお姉さんですか⁉ 俺、城ケ崎奏良って言いますっヴィオラやってます! よろしくお願いします!」
「あー! 抜け駆けずるいっ!」
お姉さんの存在に気が付いた奏良が真っ先に、自己紹介をしに行き、中園さんが慌ててその輪に入り込んだ。
「あたし、中園詩織です。ヴァイオリンやってて、琴乃ちゃんとは1年の時から仲良くさせてもらっていますっ」
「詩織ちゃんのことは知っているわよ。琴乃と仲良くしてくれてありがとうね」
「いえ、そんな……っ!」
「琴乃の姉の羽音です。大好きな妹にこんな素敵なお友達が出来てくれてて嬉しいわ。これからもよろしくね」
そう言って、羽音さんは綺麗に笑った。その笑顔は、真柴さんによく似ていた。それから、俺と東宮さんも自己紹介をして名残惜しいけど真柴家を後にした。
真柴家からの帰り道、俺と東宮さんは同じ方向だったので、必然的に2人で帰ることになった。少しだけ緊張する。
「真柴さんのお家もお姉さんも素敵だったねぇ~」
「うん。家に防音室あるの羨ましいな」
「ね。今は、寮に住めてるから良いけどさ。防音室がある家になんて絶対住めないよねぇ」
羨ましいねぇなんて会話をしながら電車に揺られて、寮の最寄り駅についた。まだギリギリ寮までの最終バスがある時間だった。
「バス乗ろう。この前、一緒に歩いてくれたし」
「良いの?」
「うん。俺も、たまにはバス乗りたい」
「沢渡くんが良いなら……」
そうして久しぶりに乗ったバスは楽だった。もっと、稼げるバイトをやればバスだってケチらなくて良くなるかもしれない。
それか、ダメ元で親に相談してみるか……。
「明日からみんな、バラバラだね」
「寂しいな」
「沢渡くんはずっとバイト?」
「うん。東宮さんは、実家帰るんだよね。楽しんで来てね」
「ありがとう、お土産買って来るね」
バスはあっという間に寮の前について、俺たちはバイバイと手を振って別れた。バスに乗れば、お金はかかるがその分時間はつくれる。当然のことだけど……。
今度、ちゃんとバイトのことを考えようとその晩は布団に布団に入ったらすぐに眠ってしまった。
それから、GWは過ぎて行った。GW明けからのアマービレのレッスンは調子がとても良かった。真柴さんとレッスン以外で会える回数は少なくなってしまったが、ピアノ演奏会が迫っているのだから仕方がない。
真柴さんが演奏する最終日の前日、俺は真柴さんのことが気になって普段は訪れないピアノレッスン室が並ぶ棟に夕方、忍び込んだ。別に入ってはいけなくはないので、悪いことはしていないのだけれど……。
何となく自分がここにいるのが場違いな気がして、恐る恐る真柴さんのレッスン室をのぞいた。先生はいなくて、真柴さんは一人で真剣にピアノに向かっている。その眼差しは綺麗で、本気で音楽をやっている人の目だった。
たぶん、俺にはまだあの目はない。勝ちたい、という気持ちは芽生えても俺はまだまだ凡人だ。
真柴さんのピアノの音はとても力強くて、かっこよくて、震える。
今回、演奏会で弾く曲はピアノ楽曲の中でもかなり難易度が高いといわれている曲の1つモーリス・ラヴェル作曲の〝夜のガスパール〟だと言っていた。この曲はソナタ形式で全3曲で構成されている。その中の3曲目「スカルボ」が特に難しい曲だそうだけど、真柴さんはその1番難しい曲を自ら選択した。
知らない曲だったが、少し聞いただけで難易度が高い、というのは充分に伝わってきた。ランダムに連打音やアルペジオ、複雑な運指が繰り返されていて、指が壊れてしまうのではないか、と不安になってしまうくらいピアノ専攻ではない人間が見たら怖くなる動きをしていた。
「かっこいいな……」
つい声が漏れてしまうくらい、かっこいい。見た目はすごく華奢なのに、いったいどこにそんな力があるのだろうか。
俺は、つい強く弾いたら変な音が出てしまうとか、弓が壊れないかとかを心配してあっさりした音になってしまうところがある。
それは、分かっている。楽器はそんなに脆くないことも……。
明日は、俺も真柴さんを見習ってもっと強くかっこよく弾くことを意識してみよう、と思った。
真柴さんに声をかけることはしないまま、俺はピアノ棟を後にした。
真柴さんの演奏会には、アマービレのみんなで聞きにいった。真柴さんが良い席を用意してくれたのだ。大学構内にある楽奏堂はパイプオルガンがあって大きく立派なコンサートホールで、座席数もたくさんあるけれど、今日の演奏会は満席だそうだ。
大学生の学内演奏会で満席になるなんて、すごいことだ。それほど、ピアノ専攻の学生の注目度は真柴さんを始めとして強いといわれている。
最初の人の演奏が始まってすぐにレベルの高さを感じた。去年までは、知り合いもいないしあまりこういう華やかな所は居心地が悪くて来ていなかったから、自分の専攻でない所がどんなものなのか、というのは噂で聞く評判くらいでしか知らなかった。
ピアノ楽曲はあまり詳しくはないが、きっとすごく難易度の高い曲を弾いているのだろう。そして、みんなその姿から〝1番になりたい〟という気持ちがひしひしと伝わってきた。
「いよいよね」
小声で中園さんが呟いた。みんな、素敵だったけれどやっぱり真柴さんのオーラはひと際大きい。同じグループになって、近い存在になったと思ったけれど、やっぱりこうしてみると遠い存在に感じてしまう。手が届かない人、だけど、その人に俺は誘われたんだと思うと本当にとんでもないことだな、と改めて感じる。
真柴さんのピアノ演奏は、昨日聞いた時よりも迫力があった。あの細い身体のどこにそんな力があるんだ、と思うくらいの音。
室内楽の時とはまた全然違う真柴さんが舞台上にいた。
最後の1音が鳴り終わると、ブラボー!!! と大きな拍手が沸き起こった。俺たちも立ち上がって、全力で拍手をおくった。
結果は見事、トップをおさめて、また1つ真柴さんの伝説が増えた。俺は、こんなにもたくさんの人に評価されるピアニストとデュオしなくてはいけないのか、と思うと急に怖くなってきてしまった。
だけど、同時に頑張らなくてはいけないという気持ちもより湧いた。
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