第2章第3話「いつもと違う日」

 その日の帰り道、俺は中園さんの話しを思い出していた。あんなにも誰かを強く思うことが出来るのを羨ましいな、と思ったのだ。俺にはそんな相手は今までいなかったから。奏良を始めとしたこのメンバーが俺にとって、大切な存在となっていったら良いなぁと思った。


 その晩の音楽バーでのバイトはとても順調だった。俺は何て分かりやすい性格をしているのだろうか。今日は、チェロとピアノとヴァイオリンの3重奏で演奏をしたけれどとても気持ちよく弾けた。プロのお二人からも最高だったよ! と褒めてもらえた。音楽というのは、本当に自分のコンディション1つで音が全く変わるから面白い。


「お、今日は調子良さそうじゃーん!」


 演奏を終えてカウンター内に入ると、先輩がにこにこと笑顔でそう言った。

 

「おかげさまで。まあ、まだ結果は分かんないんですけど」

「それでも一歩前進したならいんじゃない?」

「そう、ですね」


 まだ少しだけ良い方向へ進んだだけかもしれないけど、それでも俺たちにとっては大きな一歩だ。


 その後も一生懸命働き、今日も終電ギリギリで帰宅した。真っ暗な中、チェロを背負って歩いていると俺は何をしているんだろうなぁ、とふと思う時があるけれど音楽がしたくて、夢を叶えるためにこの道を決めたんだとすぐに思い返しため息をついてしまう。


「今頃みんな、寝てるのかなぁ」


 一人の時はこんなこと思いもしなかったのに、仲間が出来ると厄介だ。勝手に気になって、みんなはどうしているんだろうって想像してしまう。

 奏良は、家庭が大変そうな雰囲気だしまだ寝ていないかもしれない。

 中園さんと真柴さんはぐっすりかな。それとも案外夜更かししているのだろうか。

 東宮さんは、同じ所の女子寮の方に住んでいるぽいけど共有スペースで会ったことは今の所ないなぁ。

 そりゃあ、俺が普通の人たちと違う時間帯を生きているから会うはずがないんだけど。そんなことを思いながら、静かな寮内を歩いて部屋へと戻った。


「あー明日、久々に朝のバイトないのか」


 自分の身体のことは自分が1番よく知っているので、2週間連続で朝バイトと夜バイトを入れたら、1回朝はバイトを入れない日を作るようにしている。たったそれだけでも、身体は随分と楽になるんだ。

 だけど、俺がバイトを嫌だと思わない理由には生活費の為とは別に、通勤ラッシュに巻き込まれなくて良いという理由もあった。だから、嬉しいけど少し複雑だ。明日は、普通の人たちと同じ行動になるのだから。嫌ならバイトがなくても早く起きれば良いのだけど、身体は正直でバイトがなければぐっすりと眠ってしまうのでそれは、無理だった。

 久しぶりに朝のことを気にせずに眠れるのは気持ちが楽だ。ゆっくりと湯船に浸かって、髪を乾かし、楽譜を眺めながら横になった。


 音符を見ていると心が落ち着く。今日、ドヴォルザークのピアノ五重奏曲の楽譜を借りてコピーしてきていた。別にやりたい訳ではない。ただ、何となくどんな譜面になっているのか気になったのだ。楽しそうな譜面だった。同時に、難しそうでもあるけれど、見ているだけでワクワクする。今回は無理だったとしても、いつかこの曲を弾いてみたいな、と思った。この曲を弾く真柴さんの音色を聞きたい。


「これじゃあ、中園さんとおんなじだ」


 だけど、真柴さんのピアノにはそう言う気持ちにさせる力がある。芸祭の時や校内で開かれるコンサートでしか聞いたことがないけれど。それだけでも、充分すごさは伝わっている。これから、その音を間近で聞けるのだと思うとドキドキする。早くみんなで演奏をしたいから、次のレッスンの時にはすんなり決まってくれると良いなと思いながら夜は更けていった……。


 次の日、久しぶりにゆっくりと眠れて頭がすっきりしたように思う。やっぱり睡眠は大事なんだなぁ、なんて当たり前のことを思う。だけど、苦学生の俺にはこの状況を変えることは出来ない。いや、変えようと思えば変えられるけれど、変えたくないんだ。音楽バーのバイトは正直、少し給料は低い。それでもバイトをしないといけない分、練習時間が減るから音楽バーはとても良いのだ。

 後もう1つ変えられない理由として、せっかく慣れたのにまた新しいコミュニティを作らないといけない、ということが億劫だった。そんなことを思いながらのんびりと朝の準備をして、部屋を出た。背負っているチェロも何だか、昨日よりも軽い気がする。


「あれ、沢渡くん?」


 共有スペースに差し掛かった所で、東宮さんに声をかけられた。


「東宮さん、おはよう」

「おはよ~寮で会うの初めてじゃない?」

「うん、俺いつも朝バイトしてるし夜も遅いから」

「朝もバイトしてたんだ。すごいなぁ。良かったら一緒に大学行こうよ、私も今から出る所だったんだ」


 東宮さんの誘いはとても嬉しいのだけど……。


「ごめん俺、徒歩通学なんだよね」

「じゃあ、今日は私も徒歩にするよ!」


 元気な声で東宮さんは笑って、そんな嬉しい言葉を言ってくれた。そこまで言ってくれて断る理由なんてない。


「ありがとう」


 そうお礼を言って俺たちは、寮を出た。朝の空気はとても気持ちが良くて、好きだ。特に春の朝は、気持ちが良い。だから、徒歩通学は嫌いではない。


「朝のバスって混んでるから、ギュウギュウ詰めなんだよね。圧迫感なく通えるの良いねー」

「俺も、それが嫌で徒歩通学にしてる。人混み苦手でさー」

「分かる~あ、そう言えばさ、中園さんの件は上手く行きそう?」


 楽しそうに歩きながら、東宮さんはそう聞いてきた。


「うん、メッセージ入れた通り上手く行きそうだよ」

「そっかーそれなら良かった。暗い空気って私好きじゃないんだよね」

「俺も」

「そうだよね、暗い空気好きな人なんていないか。上手く行ってくれるなら、私は今回私の候補曲が選ばれなくても良いやって思ってるよ」

「良いのか? あんなに熱く語ってたのに」


 あの日の東宮さんの語りは、正直びっくりした。だけど、あんなに熱く語れるものがあるのは羨ましいなと思ったのだ。


「良いの良いの。私は、フォーレの歌の方が好きなんだ~沢渡くんは好きな作曲者いないの?」

「うーん、今のところいないんだよね。やっぱ変かな?」


 音楽学部に通う者ならば、一人や二人好きな作曲者がいるのが普通なのかもしれない。


「変ではないと思うよ。これから好きな作曲者とか出来ると良いね」

「うん」


 そんな会話をしながら歩いていたら、あっという間に最寄り駅に着いた。いつもここまでの15分は割と長く感じるのに、今日は短いと感じた。それは、東宮さんと話しながら歩けたからだろう。電車は当然、座れずもみくちゃにされながら楽器を守って上野駅へと辿り着いた。


「毎日思うんだけどさ、楽器持っている人優先の車両って作って欲しくない? 混雑する時間帯だけでも良いからさ。女性専用車みたいなので。この路線だけでも需要あると思うんだよねーもちろん特別料金は払っても良いし。あーでも、美術の人も荷物多い人いるし、芸大生専用車両? なんてのがあったら面白そう」

「確かに、それは面白そうかも」

「でしょ!?」


 東宮さんは、黙っているととても大人しそうな女子に見えるけれど、話し出すと音楽のことでなくても饒舌になるのだな、とまた新たな一面を見られて嬉しく思った。


「沢渡くん、1限目何?」

「俺は西洋史」

「歴史取ってるの偉いなー。私、歴史苦手だから3年になってから取らなくても単位平気になったから取ってないや~」

「けっこう面白いよ。西洋音楽の歴史ともつながってる部分あるからさ」

「なるほど……私は、個人レッスン!」


 東宮さんがそう答えた所で、校門に辿り着き「じゃあ、またね」と俺たちはそれぞれの教室へと向かった。いつもと違う華やかな朝だったなぁ、なんてしみじみと思ってしまうくらい良い時間だった。

 

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