第1章第5話「好きな曲①」

 その日は、3限目が空きコマだったので俺はぶらぶらと近くの公園を散歩してこれからのことを考えようと思った。上野芸術大学は、近くに大きな公園があってその中に大学がある作りとなっている。公園には、大学だけでなく美術館や動物園もあって、休日は賑わうが平日の昼間は人が少なくて良い。


 人がいても、休日のように友達同士や家族連れ、カップルではなくて一人で行動している人ばかりなので気持ちが楽になる。ぼんやりと歩きながら、やっぱり真柴さんに嘘をつき続けるのは難しいような気がしていたし、何より俺自身が嘘をつきたくないと思っていた。真柴さんなら、きっと話せば理解してくれるだろうし俺のペースに合わせてくれると思う。


 だけど、あんな賑やかな音楽バーで俺の〝音〟を見つけてしまうなんて、真柴さんはすごく耳が良いんだな……。俺だって本当は、自分の思うままに弾きたいけれど、去年みたいなことはもう二度と起きて欲しくない。音楽は、音を楽しむって書いて音楽なのだから音楽で喧嘩をしたくないと俺は思っている。


 気持ちがぐちゃぐちゃしてきたから、俺は一度近くにあったベンチに腰を下ろして楽譜を開いた。この楽譜は、個人レッスンで弾いている曲だ。俺は、気持ちを落ち着かせたい時によく外で楽譜を眺める。そうすると、心がすっと軽くなっていく気がするのだ。


 そうしていると、ふっとどこからか綺麗な音が聞こえてきた。 


「ヴィオラの音……?」


 音楽大学が近くにあるから、公園で楽器の練習をしているのは珍しい光景ではない。だけど、音の主が気になって俺は楽譜を仕舞い再び歩き出した。そうして、音に導かれるように辿り着いた所では城ケ崎くんが、池の畔のベンチに腰を下ろしてヴィオラを弾いていた。

 その姿は、どっしりとした体形とは正反対でどこか儚さが漂っていて音もとても優しくて、切なくて消えてしまいそうな感じがした。


「城ケ崎、くん」


 練習の邪魔をするのも悪いとは思いつつ、俺は話しかけていた。


「あれー? 沢渡くんじゃん、こんな所で何してんのー?」

「空きコマだったから散歩してて……そしたら音が聞こえたから気になって。城ケ崎くんは?」

「練習―ここ、落ち着くから俺のお気に入りの場所なんだ~」


 そう言って、座れば? と言って隣を開けてくれた。俺は、「ありがとう」と言いながら腰を下ろした。


「さっき、弾いてたのシューマン?」

「そ。シューマンのピアノ五重奏、2楽章のIn modo d'una marcia. Un poco largamente」

「発音良すぎ」

「そこ? 何で2楽章なの? とかじゃなく」


 可笑しそうに笑って、城ケ崎くんは言った。


「ごめん、あまりに発音良かったからさ。それで、何で2楽章?」

「明るい曲よりもちょっと暗くて落ち着いた曲が好きなんだよね。室内楽で自由に曲決めて良いって言われた時に真っ先に思い浮かんだのがこの曲だったんだ。まあ、この曲を候補に持って行くかは悩み中ーだけど」

「そう、なんだ」


 ちょっと意外だった。城ケ崎くんは、所謂陽キャという人たちに含まれそうな雰囲気をしていたから、明るい曲が似合いそうだし好きなのだろうと思っていた。


「しっかし、大変そうなグループに入りこんじゃった感じするよなー。厳しそうっつーか、意識高すぎて俺ついていける自信今からないや」

「俺もだよ……リーダーなんて柄じゃないのにな」

「音楽バーで真柴さんと会ったって聞いたけど、バイトでもしてんの?」

「うん、学費と音楽関連の出費は自分で払わないといけないから、バイトしないとやっていけなくてさ」

「沢渡くんも苦労してんだねー」

「もってことは、城ケ崎くんも?」

「まあ。ちょっと違うかもだけど、俺5人兄弟の1番上でさー父親は単身赴任でいなくて、母親は自由人だから家のことほぼ俺がやってんの。だから、家がめちゃくちゃ煩くってさーこう言う静かな所で静かな曲弾いて、気持ちを落ち着かせてるって感じ」


 レッスンの時に、金曜日までは難しいと言っていた理由は家庭の事情なんだな、と分かった。お金持ちで親が何でもやってくれるような人たちと違って、俺たちのような学生は音楽に全ての時間を費やすことは難しいのだ。全く同じではないけれど、近い環境の城ケ崎くんに共感した。

 城ケ崎くんは再びヴィオラを弾き始めた。近くで聞くと、本当に綺麗な音色だ。ずっと聞いていたくなる。最初、城ケ崎くんは華やかな側なのかなと見た目だけで判断してしまったけれど、どうやら違うらしいし価値観が合いそうでほっとした。少し、気持ちが軽くなったから俺は大学に戻ろうと腰をあげた。


「もう、戻るのか?」

「うん。俺、まだ曲の候補思いつかないから図書館にでも行こうかなって思って」

「なるほど。あ、そうだ、ライン交換しねー? 後、凪音って呼んでも良い?」

「あ、う、うん! もちろん! 俺も奏良って呼んで良い?」

「おう!」


 それから俺たちは、ライン交換をしてこれからもよろしくと笑い合って別れた。久しぶりに同性の友達が出来たことが嬉しかった。

 ひとまず、俺がすべきことは楽曲候補を絞り出すことだ。大学の図書館には、様々な楽譜が置いてあるコーナーがある。オーケストラ、吹奏楽、室内楽、ソロ、各楽器のアンサンブル……など、ジャンルでまず分かれていて更にその中でも作曲者別に分かれている。楽譜の量は膨大で、気が遠くなりそうになった。


「うーん、何が良いかなぁ」


 奏良みたいに、パッと思いつかない。音楽バーでも今までの2年間でも、様々な曲を弾いてはきたけれど、特別に好きな曲というのは俺にはなかった。当然、好きな作曲者もいない。思えばいつも与えられた曲を弾いてきただけで、好きな曲を選ぶと言う行動をしたことがなかったかもしれない。幼い頃の発表会とかでも、先生に勧められた曲を弾いていたっけ。


「お、沢渡じゃないか」

「三笠先生」


 突然、静かな空間に自分の名前を呼ぶ声が響き振り返ると、チェロを背負った三笠先生がいた。


「楽曲選びか?」

「まあ、そんなところです。なかなか思い浮かばないんですけど」

「そうか。楽譜からじゃなく、音源を聞いて選ぶと言うのも良いと思うぞ。これ、借りようと思っていたが先にお前に貸してやろう」


 そう言って、三笠先生から渡されたのは有名ピアニストによるピアノ五重奏曲アルバムだった。最近音楽はすっかり、サブスクになっていたので久しぶりにCDを手に持ったような気がする。


「確かに、直接聞いた方がこれが良いって言うの思いつきやすそうかもしれないです。ありがとうございます」

「んじゃ、頑張ってなー」


 三笠先生は、ひらひらと手を振って図書館を出て行った。俺も、受け取ったCDだけを借りて図書館を出た。



 ——その日の夜、バイトを終えた俺は寮にあるオーディオ設備が整った部屋を借りてアルバムを流した。


 寮には、楽器演奏が出来る部屋はもちろんCDやレコードを良い音響の中で聞ける部屋も用意されているのだ。お金持ちの学生は、自分の部屋にも当然、設置しているが俺にはそんな余裕はないのでこの部屋はとてもありがたいと思っている。


 CDを入れて、最初の曲を流し始めた。ピアノ五重奏曲は、大体30分~45分ほどの長さの曲が多い。複数楽章で構成されているのだ。昼間、奏良が好きだと言っていたシューマンのピアノ五重奏曲は4楽章ある。その中の2楽章が好きだと言っていた。


 このアルバムは、どうやら色々なピアノ五重奏曲の中の一部分をたくさん収録しているものらしい。だから、それぞれ10分~15分ほどで終わり次の曲へと変わる。オーディションは15分で、どの楽曲の第何楽章を選んでも良いそうだ。そういう決め方なので、このアルバムは確かに選曲決めに適しているなと思った。

 だけど、なかなかピンとくる曲がなくていよいよ最後の曲となってしまった。

しっとりと美しいピアノの音色が聞こえてきた。そして、次に聞こえてきたのはチェロだった。しばらく、ピアノとチェロが目立つフレーズが続いている。

 俺は、すぐに楽曲の作曲者を確認した。


「ドヴォルザークのピアノ五重奏曲イ長調作品81第一楽章……」


 そう呟き、脳内でこの楽曲を弾いている自分と真柴さんを想像してみた。それは、とても幸せな光景だった。しっとりしたメロディは真柴さんにとてもよく似合いそうだった。俺が、この曲をちゃんと弾けるようになれるのかは置いておいて、全体的にも楽しそうな曲で惹かれた。


 そして、何故だか少し懐かしさを感じる……。


 明るい部分も、激しくかっこいい部分も、しっとりと美しい部分も全て1つの楽曲の中に入っていた。


「これにしよう」


 俺は、あまりこういうことでは悩まないタイプなので最初に良いと思ったものをそのまま持って行く。時間はまだあるから、もう少し探してみようとかそういうことはしない。そもそも、そんな時間はないし……。土日は、朝から晩までバイトだ。

 まあ、余裕があればもう1曲くらい探してみても良いけれど。ひとまず、金曜日中に1曲は選べたことにほっとして俺は自室へと戻った。

 

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