第2話「苦学生な俺」
夢のような時間はあっという間に過ぎて行き、バイトを終えた俺はぼんやりしながら夜道を歩いていた。
時刻は23時、終電で俺は寮の最寄り駅まで帰りそこからは徒歩だ。
もちろん重たいチェロを背負っている。だけど、もうすっかり日常なのでチェロなんて俺の身体の一部みたいなものだ。
駅から寮までは、歩いて15分程かかる。大体の人はバスを使うが俺はこんな時間に帰宅をする為、もはやバスは走っていない。
お金がある学生ならばタクシーや、楽器がなければ自転車と言う手もあるかもしれないが俺は徒歩を選んだ。
運動にもなるし、自転車でチェロは無理だし、タクシーなんてありえない。
寮は、しんと静まり返っていた。
こんな時間に帰って来る人はなかなかいない。門限は特にない。
俺の部屋は3階の304号室。静かにドアを開けて、部屋に入った。
上野芸術大学の寮は個室なので、安心して遅い時間に帰り早い時間に部屋を出ることが出来る。
「もう、1時かー」
適当に買ってきたコンビニ飯を食べながら、はぁとため息が零れた。
「真柴さん、綺麗だったな……」
今まで、本当に孤高のような存在だったからあんなに間近で見られてしかも話せて、あげくライン交換まですることになるなんて思いもしなかった。
「チェロ、やってて良かった~~~~」
もし俺がチェロでなければ、今の俺の立場は別の人間だったと言うことになる。
そんなの許せない。
俺はすっかり、グループに入る気になっていた。
真柴さんは、気高き天才お嬢様だけれど性格も良さそうだったし何より俺の音が好きだと言ってくれた。
たとえ、他のメンバーがやばい奴らばかりだったとしてもそれだけで乗り切れる気がしている。
まあ、真柴さんとその友達が集めてきた人たちならばそれほどひどい人はいないだろうと勝手に思ってはいるけれど……。
その後もふわふわした気持ちのままシャワーを浴びて、着替えて布団に入った。
4時には起きないといけないのだから、もう寝よう。
――夢を見た。
とても、幸せな夢。俺と真柴さん、それからヴァイオリンの女子が2人とヴィオラの男子が1人いて旧楽奏堂で楽しそうにピアノ五重奏を奏でている夢。
旧楽奏堂は、俺がチェロと初めて出会った場所で音楽と言うものに惚れた想い出の場所。
いつか、そこで最高の音楽を奏でるのが俺の夢なのだけど、もしかしてこれは正夢になるものなのかもしれない。
真柴さん以外ははっきりと姿が見えないけれど、きっと明日出会う人たちなのだろう。
俺は、この人たちと夢のように楽しく音楽を奏でることが出来たら良いなぁと思った。
ピリリリリ、と目覚ましの音が鳴って夢から覚めた。
最高に気持ちの良い夢だった。ずっと夢の中にいたいと思ってしまうほど……。
だけど、夢は覚めてしまうから夢なのだ。
俺はのろのろと起き上がり、朝のルーティーンをこなした。
朝は5時から7時まで寮の近くのコンビニで早朝バイトをしている。
早朝バイトは、客も少なくやることも限られているので楽でその上時給が良いのでとても助かっている。
「お疲れ様でした~」
チェロを置いておけるスペースはないので、バイトが終わり次第一度寮に戻り駅へ向かう。
心臓がドキドキと高鳴っている。約束の時間が近くなっているからだ。
いや、あまり期待しないでおこう。もしかしたら嘘かもしれないのだから。
でも、あの真柴さんに限って嘘なんてことはないだろうと思いたい俺もいて……。
真柴さんのことなんて、ほとんど知らないのだけど。
そんなことを考えながら電車を乗り継いで、上野駅へ着いた。
俺が通う上野芸術大学は、美術科と音楽科があってそれぞれ校舎が分かれている。
どちらもプロを目指している人たちで溢れかえっている大学だ。
俺ももちろん、プロのチェリストになれたらなとは思ってはいるがガツガツしているタイプではない。
細々と何となく卒業出来れば良いかな、と思っている。
いつもは、どんな人たちが音楽科の校舎に入っていくのかなんて気にしないのに今日は真柴さんの姿を探してしまった。
姿は見えない。いればこれだけの人混みだろうと気づくはず。
普段は見ていなかったから気づいていなかったけれど、俺って本当に身体が小さいんだなぁとしみじみと感じてしまった。
「気にするな気にするな」
身体の大きさはもうどうにもできない。
高校1年生くらいまでは、牛乳をたくさん飲んだりしてみたけれど大して変わらないことに気が付いてからは、もう何とかしようとは思わないようにしてきた。
今日の1限は、フランス語でその後が約束の2限目だ。
そわそわして授業に集中出来なさそうだし、何だか今日は時間が過ぎるのが遅いように思う。
ぼんやりと授業を聞きながら、90分がゆっくりと過ぎていく。
ようやく授業終わりのチャイムが鳴った。
思わず駆け出しそうになり、慌ててゆっくりと歩き始めた。
真柴さんは、4号館の101教室に来てと言っていた。
4号館は、音楽科校舎の中でも1番奥にある。
チェロを背負いながら奥まで歩くのは大変だった。
101教室の前で俺は、ゆっくりと深呼吸をした。
もう、みんな来ているのだろうか。
俺が1番だったらどうしよう。すごく気合が入っている人みたいだ。
最後は最後で新入りのくせにと思われてしまうかもしれない。
2番目か3番目辺りでありたい……と思いながら、教室のドアを開けようとした。
「沢渡くん!」
後ろから声をかけられて振り向くと、そこには真柴さんがいた。
「真柴さん」
「来てくれて嬉しい! 昨日、強引なところあったなーって思っちゃって来てくれるかちょっと不安だったの」
ごめんね、と申し訳なさそうな表情で真柴さんは言った。
「いや、全然! 一人で入るの緊張してたから一緒になって良かった」
「ごめんね、途中で待ち合わせしなくて。まだ誰も来てないと思うから、入ろっか」
真柴さんはそう言って、ドアを開けた。
そこは、いつもの個人レッスン室より当然広々とした場所で何だか煌びやかに見えた。
「たぶん、後5分くらいすればみんな来ると思う。先生も」
「そう言えばこのグループって男子いる?」
「いるよ。ヴァイオリン2人が女子で、ヴィオラが男子。先生も男性」
「それなら良かった」
もし、女子しかいないグループだったら終わってたなと思いつつ、まずそこを昨日聞いておくべきだっただろう。
昨日は、突然の出来事でそんな細かいところまで聞く余裕などなかったのだけれど。
「噂をすれば来たみたい」
真柴さんのその声で、こちらに向かって来る足音がするのに気が付いた。
一人、しゃべっている人がいるがその人の声に聞き覚えがあるような気がする。
「待たせたな~」
そう言いながら最初に入ってきたのは、俺の個人レッスンの担当講師の三笠先生だった。
「三笠先生!?」
「おぉ、沢渡~~真柴から昨日ライン貰った時は驚いたよ~まさか、沢渡が入ってくれるとはな。ピアノ五重奏やりたかったんなら言ってくれれば良かったのにー」
「いや、これには色々と訳があって……」
「お、男子がいる! 良かった~~~」
俺と同じ感想を言いながらガタイが良く背の高い男子が入って来た。羨ましい。
「失礼します」
礼儀正しく入って来たのは、大人しそうな女子。
「琴乃ーもしかして昨日、言ってたチェロってこの男ー?」
「そうよ、とっても素敵な音を奏でる人」
「ふーん」
じろじろと人の顔を見ながら嫌な感じの声を発している女子が真柴さんの友達なのだろうか。
親しそうだしきっとそうなのだろうけど、ちょっとショックだ。
礼儀正しそうな女子の方なら真柴さんの友達ぽいなと思ったのだけれど……。
こんなことを思ってしまっている俺も、失礼な奴なのでお互い様か。
「よーし、メンバーも揃ったことだし自己紹介するかー」
先生の声と共に、レッスン室の空気は少し落ち着いた。
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