第1話「出会いの音」
バイト先の音楽バーでチェロを奏でるのが何よりも好きな時間だ。
競争がなく、試験とか成績もなくて、ただただ音楽を奏でるのが楽しい時間。
ここで一緒に演奏するメンバーは、自分よりも年上でプロの人たちばかりだけど良い人たちだ。
俺は、近くにある上野芸術大学の音楽学部に通う3年で学費を支払う為、日々バイトに励んでいる。
この音楽バーは、定期的にメンバーが変わるのだが俺は専属でバイトをさせてもらっている。
最初は演奏をさせてもらい、その後はカウンター内でお酒作りや食器洗いの仕事。
演奏は、大体1時間~1時間半。今日は、3曲行っていて今は最後の曲の最中だ。
最後の曲は、きっと誰でも一度はどこかで聞いたことがあるであろう曲——バッヘルベルのカノン。
楽しく明るくて好きな曲だ。
カノンのサビに差し掛かった時、ふと観客の方を見るとバチッと誰かと目があった。
音楽バーは、少し暗い照明に設定されていて人の顔は見えにくくなっている為に、そこにどんな人がいるのか分かりにくいのだけど、目があった人だけははっきりと分かった。
それくらい、目立つ人。
同じ大学に通うピアノ専攻の真柴琴乃だ。学年1美人と言われていて、成績も全てにおいてトップ。
確か、家は音楽一家でお金持ちと噂を聞いたことがある。
俺とは正反対の世界を生きている人だ。
そんな真柴さんが、何故こんなちょっと寂れた音楽バーにいて、俺と目が合っているんだ……?
いや、自意識過剰かもしれない。目が合ったような気がしているだけで、実際は他のメンバーを見ていたのかも。
それにしたって、真柴さんが来るような所ではないので不思議なのには変わりないのだけど……。
「ありがとうございました! この後もごゆっくりとお過ごしください」
メンバー最年長の人が挨拶をして、今晩の演奏は幕を閉じた。
楽しい時間、と言うのは何故こんなにも早く終わってしまうのだろうか。
チェロを片付けてから、俺はカウンター内に入った。
カウンター内でのお酒作りも嫌いではない。そりゃあ、チェロを弾いている時に比べたらつまらないけれど……。
「梅酒ソーダ割1つください」
「はい」
と返事をしてお客さんの顔を見るとそこにいたのは、真柴さんだった。
「え!?」
こんな反応をしたら、真柴さんのことを知っていると言っているようなもの。
ここは、大学の人がいないのが良い所だったのに自らそれを砕けさせてしまった。
「あなた、同じ大学の人よね?」
初めて間近で聞いた真柴さんの声は美しかった。
声まで美しいって何なんだ。
「え、なんで、知って……」
女子と話すことに慣れていない俺は、オロオロしてしまっている。
「1年の頃から、同学年に小さな身体で大きなチェロを毎日背負って登校している人がいるって噂を聞いて知っていたの」
あぁ、と納得した。
俺は、男にしては身体が小さい方でチェロを背負うと身体が見えなくなるほど。
よく、子どもに楽器が歩いてるー! とすれ違いざまに言われることがある。
俺は、この小さな身体が嫌いだった。
「訳あってちょうどチェロ専攻の3年生を探していたの。私は、真柴琴乃3年でピアノ専攻」
「し、知ってます……。お、俺は沢渡凪音です」
「沢渡くんね。あなたの音、私が探し求めている音だった」
「え……?」
思わぬ言葉に俺の心臓は、どくんと跳ね上がった。
だって、真柴さんに褒められるとは思わなかったから。
真柴さんは、学力はもちろんピアノにおいてもトップだし、チェロやヴァイオリン、ヴィオラと様々な楽器を弾ける天才だ。
「3年生から、ピアノ五重奏を選べるようになったでしょ。それで、友達と仲間集めをしていたのだけどチェロだけ見つかっていない状況なの」
「ちょ、ちょっと待ってください……」
俺は、気持ちを落ち着かせるためにひとまず頼まれていた梅酒ソーダ割を作ることにした。
とんでも展開ですっかり忘れていたが、今はバイト中でここは仕事場の音楽バーだ。
「じゃあ、ついでにおつまみも頼んで良いかな」
「も、もちろんです……っ」
真柴さんって、こんな庶民的なおつまみを頼むのか。
気高きお嬢様と言う雰囲気だったから、ギャップが激しい。
ちなみに、真柴さんが頼んだおつまみはから揚げだ。
3種のチーズ盛りとかなら頼みそうだな、と思うけれどまさかのから揚げに驚いた。
気持ちを落ち着かせるために、仕事に集中しようとしたのに全く集中出来ない。
「お待たせしました」
「ありがとう。それで、気持ちは決まった?」
「い、いや……だって、おかしい、ですよ。俺なんて全然釣り合わない」
真柴さんの仲間ってことは、きっとすごい人たちの集まりだ。
俺は、学力もチェロもいつだって平凡な成績。目立ったところはこの小さな身体だけ。
釣り合わないのはもちろん、俺は出来れば平凡に残りの2年間を過ごしたいんだ。
すごい人たちの中に入り込んでしまったら、絶対に目立ってしまう。
「音楽に釣り合うとか釣り合わないって言うのはないと思うけど? 私は、さっきの沢渡くんの音色を聞いて、一緒にピアノ五重奏やってみたいなって思った。私たちの中に沢渡くんの音が入ったら、とても良い化学反応が起きる気がするんだよね」
真っすぐな瞳で、真柴さんはそう言った。
何て、美しい瞳だろうか……。
「お試しでも良いからさ、明日最初のレッスンがあるから来てくれない? 先生に、絶対明日までにチェロ奏者を見つけてくるって言っちゃってるんだよね……。もし、来てみてほんとに無理ってなったら断ってくれても良いから。それとも、どこか別の室内楽に誘われてたりする?」
「しないです」
「じゃあ、お願い! 単位は必要でしょう?」
真柴さんが言っていることは最もだった。
室内楽は、何かしらは取らないといけない。
出来れば、弦楽四重奏とか弦だけで完結するものが良かったけれど、自分から行動を移せるわけでもなく履修期間終了がもう間近に迫ってしまっていた。
それならば、うだうだ悩んでいないでせっかく誘ってくれている真柴さんの所に入るべきだろう。
「分かりました。ひとまず明日、行きます」
意を決して俺は、そう答えた。
「ありがとう! 後、その敬語やめて欲しいな。同学年なんだからさ」
同学年と言っても真柴さんは、孤高の存在でとても気安く話せる人ではなくて敬語で話してしまっていたのだ。
別に俺は、敬語キャラな訳ではない。
真柴さん以外には、普通に話せる。
だけど、真柴さんから敬語はやめて欲しいと言われたのだから、やめるべきだろう。
「わ、分かった。何限に行けば良い?」
「2限に4号館の101に来て。何かあった時の為に連絡先交換しときましょう」
「う、うん。えっとラインで平気?」
「うん」
それから、俺たちはQRコードを表示してID交換をした。
友達はさほど多いタイプではないので、ライン交換をしたのなんて大学1年の時以来かもしれない。
久しぶりに更新された友達一覧で、真柴さんの名前はとても輝いて見えた。
俺は今、とんでもないことをしている気がする。
学年1の美人で、学力もピアノもトップ、しかも性格まで最高に素敵な誰もが焦がれる女性——真柴琴乃とライン交換をしてしまった。
こんな、贅沢な夜が許されるのだろうか。
明日を迎えずして俺は死ぬのではないかな、なんて思ってしまうくらいとんでも展開の連続だった。
「よし、完了。じゃあ、これ食べ終えたら今日は帰るね。仕事中に付き合ってくれてありがとう」
真柴さんは、笑って言った。
「こちらこそ……!」
お礼を言うのはこっちだ。こんな平凡な俺に声をかけてくれてありがとう。
どうして、真柴さんがこんなちょっと寂れた音楽バーに来たのかと言う理由は分からず帰ってしまったけれど、明日もまた会えるのだからその時に聞けば良いだろう。
最初は、真柴さんのグループに誘われて戸惑っていたはずなのに今は明日が来るのを楽しみにしてしまっている。
そんな自分に少し呆れたけれど、誰だって俺と同じ立場になったら同じ気持ちになるはずだ。
明日に想いを馳せながら、残りの仕事を一生懸命こなした。
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