暁天に舞いしは彦星か

悠凪コケラ

第一章

第一話「五里霧中」

 五里霧中とは、まさにこのことだろう。

 そこは、ほとんど自分の足元までしか視認できないほど、濃く深い霧が立ち込めていた。風は全くと言っていいほど吹いていないが、あたりを覆う霧のせいか肌寒い。

 都内の私立大学に通う宵月肇よいづきはじめは、ふと気が付くと、見覚えのない不気味な場所に迷い込み、途方に暮れていた。

「おーい! 誰かぁ!」

 少しかすれた声で肇は叫ぶ。

 もう何度目だろうか。尋常ではない濃霧――言うなれば白い暗黒に包まれた空間のなか、おそるおそる足をしばらく進めては立ち止まり、ひたすら助けを呼び続けていた。

「――おかしくなりそう」

 不安に満ちた蚊の鳴くような声が、思わず口からこぼれ出る。相変わらず人の気配はない。ただむなしく響き渡るのは、落ち葉交りの砂利道を歩く、自分の乾いた足音だけだった。

 なぜこんな場所にいるのか。どうやってこんな場所に来たのか。そして、ここは一体どこなのか。肇にはその記憶が一切なかった。かすかに木々の香りが漂っている。山中の神社かなにかの境内けいだいだろうか。それにしては、あまりにも広大すぎる。そもそも、それらしき建物も見当たらない。

 肇は二の腕をさすりながら、地面にゆっくりと腰を下ろした。デニムパンツのポケットからスマートフォンを取り出し、うつろな表情でロック画面を眺める。画面の右上には小さく『圏外』という文字が表示されていた。

 案の定といった様子で、ため息をつく肇。誰とも連絡がとれず、インターネットにも繋がらない絶望的な状況だ。

 いつかこの霧は晴れるのだろうか。晴れたところで、はたして事態は好転するのだろうか。ここでずっと待っていれば、お釈迦様が蜘蛛の糸でも垂らして助けてくれるのだろうか。なんにせよ、こんなわけの分からない場所で、独り寂しく朽ち果てたくはない。

「誰かいませんかぁ? 助けてください!」

 もはや大声で叫ぶ以外どうしようもなかった。このまま無闇に歩き続けても、どこにもたどり着くことはない。なんとなくそんな気がしたのだ。昔から悪い予感だけはよく当たる。

 長い距離を歩いて疲労はあったが、不思議と喉の渇きや空腹は感じなかった。肇は宇宙の果てにいるかのような静寂に身を任せ、おもむろに目を閉じ思案にふける。     

 ――そういえば、今日は大切な予定があった気がする。

 あごに手をやり、記憶の糸をたぐっていく肇。

 そうだ、その予定のために徹夜でレポート課題を終わらせた。課題を提出して今日の講義にすべて出席した後、待ち合わせ場所だった駅前のファッションビルに向かった。

 ――そこから先の記憶に、なぜかモヤがかかっている。思い出そうにも思い出せなかった。だが、この心のわだかまり、この違和感はなんだろう。単に「思い出せないから」というのが原因ではないような気もする。

 閉じていた瞼を静かに持ち上げて、ストレッチでもしようかと、まさに腰を上げたその時だった。肇は背後に人の気配を感じ取る。

 人の足音が近づいてきている。ゆったりとした足取りだ。冷たい汗が肇の背筋をつたう。

 数秒後、近づいていた足音が止まった。金縛りにでもあったかのように、恐怖でピクリとも体を動かすことができない肇。

「迷って……いますね?」

 聞こえてきたのは、透明感のある澄んだ女性の声だった。肇は小刻みに頭を震わせながら背後に目を向ける。

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暁天に舞いしは彦星か 悠凪コケラ @kokera_nagi

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