塔
百目鬼 祐壱
塔
バスは遅れた。この国ではよくあることだ。しかしそれも一時間に達すれば雲行きが怪しくなる。予約はしっかり取れているのだろうか。この種の手違いもまた、この国ではよくあることだ。
「心配するな、ノープロブレムだ」ゾーが言った。「宿の前まで来てもらうように手配してある」親指を立て、気持ちの良い笑顔を浮かべる彼の顔が、今でもありありと蘇ってくる。
もう十年も前のことである。長旅の途中で訪れた、小さな国の、それも片田舎にある小さな町でのことだ。首都の街からバスで七時間かかるこの町には、しかし、世界遺産にも登録された宗教遺跡があった。だがそれも、私が訪れる数日前に、突如、外国人観光客の立ち入りが禁止された。それを知ったのは、町はずれでゾーが経営するゲストハウスにチェックインしようとした時のことだった。
「よくあることさ」ゾーは訛りの強い英語で言った(もっとも、この時はまだゾーの名前を知らないのだが)。「軍部の気まぐれみたいなもんさ」
その国では、長年にわたり軍事政権による独裁政治が続いていた。少数民族への人権侵害、不正選挙、政権中枢による汚職など、絶えることのない黒い噂は先進国からの非難を呼び、国際的に孤立の状況が続いた。しかし経済成長に行き詰まった頃合いから、国際社会への歩み寄りの姿勢を見せるようになる。長らく停止していた外国人観光客の受け入れを再開すると、「最後のフロンティア」として物好きな旅人たちからの人気を獲得したが、政府の一存で外国人の行動が制限される、そのような政治的リスクを抱えてもいるのもまた事実であった。
「で、どうする?泊まるのか?」ゾーが聞く。「こんな状況だから部屋は空いている。ちょっと値引きしてもいい」
お目当ての遺跡以外にこれといった観光名所を持たないこの町に長居する理由もない。幸い、ここからまたすぐにバスに乗れば、数十キロ離れた場所に位置する国内第二の都市に今日中にはたどり着くことができる。そのことをガイドブックで確認してから、ここでバスチケットを取れるか聞くと、正午の便なら取れるとゾーは言った。値段を確認して、チケットを取ってもらう様にお願いすると、ゾーは私の両眼をしっかり見つめて、少しの沈黙のあとにこう言った。
「本当に時間がないのであれば、先を急いでもいいとは思う。でも、せっかくだからこの町でゆっくりするのもいいんじゃないか。町の人は優しいし、ご飯はおいしい。なにより、ここの川から見る夕陽は本当に美しい。ガイドブックには書いていないかもしれないが、一番だ。それだけ見てから、明日出てってもいいと思うけど」
たしかに、急ぐ必要はないといえばない。移動先として考えている次の都市にも、それほど見たいものがあるわけではない。ビザの関係上、五日後には出国をしなければならないが、それ以外に制約はない。たまにはこういうのもいいと思った。それに、なんとなく、ゾーの言葉が信用のおけるものに感じた。とりあえず一泊取ることを伝えると、ゾーはグーサインを右手で作り、「パーフェクト」と三度呟いた。
そして結局、私はこの町に三泊することになった。
町のはずれを流れる大河に沈む夕陽は、いままで見たことのない、真っ赤な世界を作り上げて、私の網膜をやさしく温めた。それはゾーの言う通り、一番だった。もう一度見たいと思った。次の日も思った。結局、出国までの期日ぎりぎりの日数まで延泊することになった。
「嬉しかったけどさ、まさか三泊もしてくれるとまでは思ってなかったな」ゾーは笑いながら、エントランスでバスを待つ私にホットコーヒーを出してくれた。宿泊中に何度か出してもらった、粉っぽいインスタントコーヒーの粗さが、私は嫌いではなかった。
「正直、最初は舐めてたけどね、まさかあんなに綺麗だとは、思わなかった」
ゾーはご機嫌だった。受付に置かれた財布の束を整理しながら、「また来るか、この町に?」と私に聞いた。
「気に入ったから、絶対に、いつかまた来るよ」
本心からそう思った。今回行けなかった遺跡に再挑戦したいという気持ちもあったし、またあの夕陽を見たいと、それもまた事実だった。
「でも、この時間感覚のルーズさっていうのかな、バスが全然来なかったり。それだけはどうにかならないかなって感じだね」私は笑いながら、あくまで冗談だと分かるように言ったつもりだった。それは、本当に軽口だった。
しかし、その言葉になかなか返事はなかった。顔を上げると、真剣な表情をしたゾーが、受付の椅子に座りながら、私のことをじっと見ていた。
「この国の人間に、時間感覚が欠けているわけではない。そもそも、この国の人間とひとくくりにまとめるには、我々は人種も言語も多様すぎる」そしてゾーは、低い声で、こう続けた。
「俺の生まれ育った村には、大きな塔があった」
ゾーはこの国の東北部に位置する小さな村で生まれた。山向こうはすぐ隣国という、国境の村だ。住民はすべて、国民の大部分を占める人種とは言語も宗教も異なる少数民族だった。
帝国列強による植民地化以前の風俗を色濃く残したその土地では、近代的な建物など半世紀以上前に宣教師が建てた小学校の校舎ぐらいで、住民のほとんどは竹で作られた高床式の家屋で暮らしていた。道路はもちろん舗装されておらず、熱帯内陸部の乾いた砂埃が常に村中を舞っていた。
塔は、村の中心に聳えていた。白磁を思わせる外壁は薄汚れており、ところどころが崩れて中の素材が剥き出しになっていた。塔の回りを巻くように伸びる螺旋階段の欄干が施されているが、少し触れば崩れ落ちてしまうような心許なさであった。
塔はとてつもなく高かった。何メートルあったかは知らない。その後ゾーが目にすることになる、首都の摩天楼の、どの建築物よりも高かったと彼は言う。流石にそれは冗談なのだろうが、しかし、数キロ離れた隣の村からでも見えたというのだから、相当なものだったのだろう。そんな高さを有する建築物は、いったいいつできたのか。父に聞くと、ずっと昔からあると言った。祖父に聞くと、ずっと昔からあると言った。
塔の頂上には小部屋がある。そこに、ひとりの老人が暮らしていた。老人に食事を運ぶ役目が子どもたちに与えられていた。肩まで伸びきった白い髪を風に揺らす老人の目は落ちくぼんでいて、視線はどこも眼差していないように見えた。いつから暮らしているのか聞くと、ずっと昔からだと言った。
ゾーが数えで十の歳を迎えるころ、政府の役人が村にやって来た。人民服を身にまとった役人は、ゾーに塔の頂上まで案内をさせた。役人は、老人に、塔が違法建築物であることを告げ、ただちに退去することを命じた。老人は、ここに誰かが暮らさなければならないと言った。それが掟だと言った。いなくなるとどうなるのか役人が聞くと、世界が終わると老人は言った。役人は半笑いを浮かべ、そして老人を殴った。老人の鼻から血が噴き出した。ゾーはそれをただじっと見ていた。
それから何日かが過ぎた夜、複数の軍人がやってきて、村に火をつけた。理由は分からない。反抗的な勢力に対する見せしめだったかもしれない。住民に銃口が向けられることはなかったが、村は燃えた。家族と命からがら逃げ出したゾーは、裏山から燃える村を見た。塔も、燃えていた。老人が取り残されていたはずだが、どうなったのか。母に聞いたが、言葉は返ってこなかった。ひとりで、燃える村と塔をじっと見ていた。
すると、燃える塔の頂上に人影が見えた。老人だった。老人は、笑った。にやりと笑った。そして、両足で跳躍した体は、欄干を乗り越えて、自由落下の一途をたどり、やがて煙に吸い込まれて見えなくなった。
そのときの光景を、ふとした瞬間に思い出す。思考の切れ目に、時間の隙間に、それは忍び込んでくる。この町の、燃えるような夕焼けは、あの光景にそっくりだと思う。だからそれを目にする度に、そこに塔を探してしまう。老人を探してしまう。どれだけ探しても見つからないことは知っているのにねと、ゾーは言った。話し始めた折の険しい表情は消え去り、いつものはにかみで、コーヒーのおかわりはいるかと私に聞いた。欲しいと答えると、ゾーは私のマグカップを持ってキッチンへと下がっていった。
最後まで聞いても、そのゾーの話が、時間感覚の話といったいどのように関連するのか分からなかった。もしかしたら、重要な部分を聞き間違えていたのではないかとさえ思う。ゾーの発音に訛りがあったことと同様に、私の聞き取り能力も完璧なものからは程遠かった。この話は不完全かもしれないが、しかし、あのとき、私はそのような話としてゾーの話を解釈し、物語を脳内で再生した。その事実だけはゆるぎない。
マグカップを手にしたゾーが戻ってくると同時に、ゲストハウスのドアがノックされた。窓の外に、大きなバスが一台停まっているのが見える。「ほら、ちゃんと来たろ?」そんな表情を作って、ゾーが笑いかけてきた。
外に出ると既に日は暮れかけていた。バスの運転手は私の名前を確認すると、早く乗れと指図した。車内には、民族衣装を身につけた中年女性が一人いるだけで、それ以外に乗客はいなかった。
発車するバスを、ゾーは見送ってくれた。大きく手を振っていたが、やがて完全に見えなくなった。
車内は冷房が効きすぎていた。上着を取り出そうとリュックの中身を探っていると、俄かに差し込んできた光に目が眩む。窓の外には、大きな川と、燃えるような夕陽が見えた。燃え盛る夕焼けの中に塔の影を探したが、目に映ることはなかった。
数年後、その国で長年弾圧を受けてきた少数民族が武装蜂起し、現在まで続く内戦に発展した。私が訪れることができなかった宗教遺跡も大きな被害を受けたとニュースで見た。あのゲストハウスがどうなったかは分からない。何度かフェイスブックでメッセージを送ってみたが、いまだにゾーから返信はない。
塔 百目鬼 祐壱 @byebyebabyface
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