第3話

「お、相変わらず早いね。」彼女の声が聞こえて、メニューから顔を上げた。


朝、彼女から「今日のお昼はここで食べよう」というチャットがこの店の住所と共に送られてきた。サンゼンヤという、どこにでもある大衆向けイタリアンファミリーレストランを指定した真意まではわからなかったが、大方好きな人とのランチに関係しているだろうことは容易に想像できた。


「何か頼む?」僕はメニューを彼女の方に回した。


「……何を頼んだら良いかな?」彼女はずいぶん迷った挙句、そんなことを言い始めた。


「何って、好きなものを頼みなよ。」


「そうじゃなくて。」彼女はテーブルに身を乗り出して、周りに聞こえないように言った。「何を頼んだら、魅力的だと思う?」


メニューをぱらぱらとめくって目を通す。パスタ、ピザ、ハンバーグ、ドリアなどが並んでいる。正直、なんでもいいと思った。


「パスタかなぁ。」


「その心は?」


「なんというか、こう、おしゃれな感じがするよね。」


「パスタはおしゃれな感じがする、ね。」彼女はスマホのメモに何かを打ち込んだ。


「ちなみに、パスタは好き?」


「そうでもないかな。どっかというとピザの方が好きかな。」


確かに、普段彼女が購買で買っているのもパンだった気がする。同じ小麦でも、麺よりパンのほうがしっくりくるのかもしれない。ちなみに僕は米派だ。


「じゃあピザでいいんじゃない?」


「でも、パスタはおしゃれな感じがするんでしょ?ならパスタ食べるよ。」


そう言って、何種類かあるパスタを見比べていた。


「ご注文はお決まりですか?」フロアを巡回している店員が、声をかけてきた。


「僕はハンバーグを1つ、ライスは並で。それと」彼女の方に目をやった。


「じゃあ、アラビアータで。」


「お飲み物はいかがされますか?」続く店員の質問に、彼女はこちらを見た。


「えっと、コーヒーを2つ、ホットで。」


「かしこまりました。少々お待ちください。」そう言って店員は立ち去った。


「確認しなかったけど、コーヒーは飲める?」


「飲んだことない。普段は炭酸系を頼むし。」


じゃあ何でそう言わなかったんだ、という言葉が喉まで出かかったが、なんとか飲み込んだ。


「まいったな、僕もコーヒーは苦手なんだ。」


「は?じゃあ何で頼んだの。」彼女は恨めしそうに僕を睨んだ。


「……おしゃれな感じがするから?」


「おしゃれな感じ、するかなぁ。」彼女は不満そうにメモを書き足した。


「デートの時に頼むかどうかは、飲んでみて考えたらいいよ。」


「お待たせいたしました。お先にホットコーヒーお二つです。」


彼女は置かれたコーヒーを手に取って、すぐに口に含んだ。


「あちっ。」


「そりゃホットだからね。気をつけてね。」


そう言って僕もコーヒーを啜った。コーヒーに関しては、苦味より酸味が強いものが苦手なのだが、この店のコーヒーは特に酸味が強かった。人間というのは不思議なものだ、これを美味しいと感じるなんて。向かいの席に目を移した。彼女もまた、顔をしかめていた。


「どう?」


「なんだろう、発酵した泥水を飲んでるみたい。」


「うん、メロンソーダとかを頼んだ方が良さそうだね。」


二人してちびちびと消化していると、料理も運ばれてきた。


「お待たせしました。ハンバーグと、アラビアータです。ごゆっくりどうぞ。」


残りのコーヒーを一気に飲み干して、カトラリーとペーパーに手を伸ばした。


「ナイフは拭くのがマナーなの?」


「いや?汚れが気になっただけだよ。」


「ふぅん。」彼女はフォークを眺めた後、ペーパーでそれを拭いた。


それからはお互い黙々と目の前のものを食べていた。


普段からサンゼンヤによく来るわけではないが、ここのハンバーグを食べたのは初めてではなかった。ハンバーグの良し悪しがわかるわけでもないが、前に食べた際に美味しいと感じたことを覚えている。今日改めて食べてみても、その感想が変わることはなかった。


ハンバーグが半分くらいになったところで、彼女が口を開いた。


「ねえ。」


「なに?」僕は口の中のライスを飲み込んで聞き返した。


「こういう時って、何か話した方がいいの?」


「何か、というと?」


「食べてるものの感想とか、この後の予定のこととか。」


彼女としては、この沈黙に気まずさを感じたらしい。


「食べてるんだから黙っててもおかしくないと思うけど、そうだな。……そういえば、昨日ドラゴンハンター3の発売日が2週間後だって情報が公開されて」


「ドラゴンハンターの話は彼とはしないから。」彼女は素早く僕の話を遮った。


「そう。……アラビアータ、美味しい?ここのは食べたことないんだよね。」


彼女は少し考えた後こう答えた。「うん。おしゃれな味がする。」


「君に食レポは向いてないってことはよくわかったよ。」


彼女はふてくされてアラビアータを食べ始めた。ハンバーグがほんのひとかけらになった頃、彼女はまた口を開いた。


「あのさ。」


「うん。」


「なんか、気にならなったりとかしない?」


彼女が何を気にしているのかがわからず、首をひねった。


「ほら、食べ方とか、音とか、色々さ。」


しばらく自分の手を止めて彼女を観察した。フォークの持ち方は、僕と同じに見える。耳を澄ます。かすかにパスタの咀嚼音が聞こえてくるが、特段気にするほどの音でもない。むしろ心地よく感じた。ただ、姿勢はお世辞にも良いとはいえなかった。とはいえ、どれもこれも一朝一夕で直るものでもないし、そんな細かい所作にまで文句をつけるような器の小さい男とは付き合ってほしくないと思った。


「そんなじっと見られると、恥ずかしい。」彼女は少し顔を赤らめた。


「ごめんごめん、特に気にならないかな。」


「ならいいんだけど。」


空になった食器が下げられた後に彼女は、見ている僕の幸せまで逃げていきそうなため息をついた。


「人に見られてると思うと、急に色々気になっちゃうんだもん。」僕の思考を知ってか知らずか、彼女は言い訳をした。


「昼飯食べるくらいでそんな気張ってたら、当日一日持たないよ。もっと楽に行こう。」


「はぁ。」彼女はまた大きくため息をついた。「なんか大変だね、恋をするのって。」

「そうかもね。」


恋が大変であることに関しては、全くその通りだと思う。何しろ、食事の間気を張り詰めていたのは僕も同じだった。普段は少しも気にしないというのに、デートの予行練習と考えただけで、フォークの持ち方から飲み物を飲む所作まで、粗相はないだろうかと意識してしまう。


「疲れてるようだし、今日はこの辺にしようか。」


「そうだね。ごちそうさま。」彼女も荷物を持って立ち上がった。


最後に余計な一言が聞こえた気がした。「今、なんて?」


「レジはあっちだよ。」彼女はいたずらっぽく笑った。


テーブルマナーは気にするのに、財布を取り出す素振りも見せないことは気にならないのだろうか。釈然としなかったが、ここは彼女に甘えて恰好をつけさせてもらうことにした。


店を出て、時計を見た。12時50分。彼女と違って、僕は3限に向かう必要がある。


「じゃあ、また明日もよろしく。」彼女はそう言って寮の方に向かった。


「はいはい。」


数歩も行かないうちに、彼女は振り返った。そして神妙な顔で言った。


「今日はありがとね。」


「……どういたしまして。」


彼女はまたいたずらっぽい顔をして、帰っていった。


一人残された僕は頭を抱えた。彼女はまるで僕の心を見透かしているようだ。どんな言葉を発したら、どんな表情をしたら、どんな行動をしたら、僕が彼女を好きになるのか、彼女はすべて知っている。そうでなければ、彼女の行動に説明がつけられない。


「いや、違うな。」今度は僕がため息をつく番だった。


逆なのだ。僕が彼女を好きだから、彼女の行動を僕が都合のいいように解釈しているだけ。真実はいつだって、僕が考えているよりシンプルだ。


時計を見た。12時59分。3限に間に合わせるのは諦めることにした。

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