第2話
「お待たせ。待った?」
改札の喧噪の中、彼女の声が聞こえて、腕時計に目を落とす。17時35分。
「まず最初のアドバイスとしては、5分程度だとしても遅れたなら謝罪を先にしたほうがいいかもね。」
「ごめんって。髪のセットやら化粧やら、女の子は時間がかかるものなの。」
彼女は全く悪びれた様子もなく、手鏡で前髪をさっと整えている。
4限が16時に終わったのだから、移動時間を除いても1時間は準備時間としての余裕を持たせて集合時間を決めたはずだが、彼女の美しさを引き出すのにはあと5分必要だったらしい。
「まるで男は時間がかかってないみたいな言い方だね。髪のセットなら僕もいつもより念入りにしたんだけどな。」
そう言って僕は髪を指に巻く仕草をした。
「その短い髪を?まさか2分が3分になった、とか言わないよね?」
「残念。0分が1分になった、が正解。」
「聞くだけ損した。」
彼女は手鏡を鞄にしまった後、こちらに向き直った。
「じゃあ、行こっか。」
そうして、僕と彼女は二人して目の前のデパートに入っていった。
平日の夕方であるということを考慮しても、客はあまり多くなかった。数年前に隣町に大型ショッピングセンターができたから、駅ビルに併設されたデパートで買い物をする人は今日日少ないのかもしれない。
「とはいったものの、どこから入ったものかね。」
彼女もまた、ショッピングセンターの恩恵を受けた一人だったようだ。
「普段はどこに?」僕は何気ない風を装って訊いてみた。
「ウニクロ。」
ウニクロといえば、僕でも知っているようなお手頃なブランドだった。全く知らない高級ブランドの名前が彼女の口から出てこなかったことに、ひとまず安堵した。
「決まりだね。何階だっけ?」
近くのフロアマップに向かって歩き出そうとした僕の袖を、ふと彼女は掴んだ。
「いやいや、だめでしょ。初デートに着ていく服がウニクロじゃ。」
「なんで?ウニクロは良いブランドだよ。安いし、カラーバリエーションあるし。」
事実、僕も大変お世話になっている。同じ服を色違いで3つくらい買っておくと、ワンシーズンはそれだけで一週間のローテーションを組める。
「じゃあその服は?」
確かに、今日着ている服はウニクロではなかった。規則的な柄の入った紺基調のシャツに、黒地のジーンズだった。決して自分で選んで買ったものではない。去年あたりだったか、友人の買い物に付き合った際に、おすすめされて買ったものだ。正確な値段は思い出したくもないが、ウニクロとは一桁違ったような気がする。
「友達とお出かけするくらいでも着てないじゃん。」
僕だって、出かける相手がただの友達だったら、ウニクロの服を着て来ただろう。だが、しばらくタンスの奥底に眠っていた一張羅を引っ張ってくるくらいには、彼女は僕にとって特別だった。これは断じてウニクロが悪いわけではない。相手が悪かっただけなのだ。
「とはいえ、アテはあるの?」
彼女はスマホを見せてきた。「女子大学生におすすめのブランド20選」と書いてあった。
「ここに載ってるやつの中で、このデパートにある3つに行ってみようと思います。」
「安直だなぁ。でも賛成。」同じ状況なら僕もそうするだろうと思った。
一つ目の店は、ランキングの上位だけあって、おしゃれな雰囲気だった。照明も煌びやかで、少なくとも僕一人で入ることは、今後の人生でもあり得ないだろうと思った。
彼女は入り口の近くに並んだ服を眺めていたが、おもむろにその一つのタグを裏返すと、素っ頓狂な声を出した。それからしばらく店員に話を聞かれた後、彼女はそそくさと店の外に出ていった。
「お気に召さなかった?店員さんがおすすめしてたやつとか、似合うと思ったけど。」
柱の陰でしゃがみこんでいる彼女を追いかけて声をかけた。
「あんたまでおんなじようなこと言って。あんなの、大学生が手を出せる訳ないじゃない。」
彼女は震える指で「バイト何日分だろう」と数え始めていた。
「可愛く見られたいんでしょ?多少の出費は覚悟しないと。」
「でも、でも!」
しばらく頭を振りながら何かと葛藤している様子だったが、やがて大きくため息をつくと、
「とりあえず、次に行こう。確か他の店はもう少し良心的だったはず。」
と絞り出すように言って立ち上がった。
次の店は、店員がとにかく明るかった。僕たちが並んで入店したのを見て、
「彼氏さんですか?いいですね!これとかどうです?熱々なお二人にぴったりだと思いますよ!」と商品を片手に彼女ににじり寄っていった。
僕はこの営業文句を笑って流した。何より、彼氏と言われたことにとてつもない優越感を感じた。
一方彼女はというと、石のように固まっていた。僕なんかを彼氏だと思われた怒りで声も出ないわけではない、と思いたい。もとより彼女は、人見知りというほどではないが、進んで友達を増やそうというタイプでもなく、どちらかというと内向的だった。そんな彼女にはお構いなしに、店員はひたすらに話し続けていた。10分ほど今のトレンドやおすすめの話をしたのち、別の客が入ってくると、店員はそちらの対応に向かい、後には置いてけぼりを食らった彼女だけが残った。
「欲しいものは?」視点が明後日に向いている彼女の前で手を振った。
「休息かな。」
僕らは地下1階の食品売り場で飲み物を買い、座れる場所を探した。
「本当は、カフェとかに、入りたいけど。」
しばらくして見つけたソファに座って、彼女はよく冷えた缶コーラを一気に飲み干した。
「あの値段を見てたら、そんな贅沢もできないよね。」
「概ね同意するよ。」
でも、と思った。もしこれが本当のデートだったら、彼女はカフェに入ったのだろうか。このよく冷えたサイダーに不満があるわけではないが、僕が彼女とカフェに入る権利を持ち得ないという事実には、大いに不満があった。
「それにしても、服って何であんな高いんだろうね。生地はどれも変わんないのに。」
「身もふたもないことを。ほとんどはデザイン代、おしゃれさってやつだよ。ドラゴンハンター2にもあるだろ、性能は良くないけど見た目がいいやつ。」
「確かに。で、残りが水耐性とかってことか。」きっと防水のことだろう。
そんな話をしながら、改めて彼女が着ている服を見た。
「そういえば。今着てるの、ウニクロじゃないよね。ずいぶん高そうに見えるけど。」
彼女はブラウンのスラックスに、黒のカーディガンを羽織っていた。
「あ、わかる?出来れば最初に気づいて欲しかったけどね。」
本当は、待ち合わせの改札で彼女を見た時から気づいていた。いつもより服装に気を遣っていることも、髪型や化粧がちゃんとしていることも。でもそれを指摘したら、僕のためにオシャレをしていると思っている自惚れ屋みたいで、小恥ずかしかった。それを指摘するべき人は僕ではない、などという余計な思考も働いた。
ただ、今なら自然に、率直な感想を伝えられる気がした。
「よく似合ってるね。もちろん、今日会った時から、そう思ってた。」
「ほんとにぃ?」彼女はじっと僕の目を覗き込んだ。
「本当だよ。」少しも目を逸らすことなく、そう返した。疑いは晴れたのか、彼女はにっと笑った。
「ありがと。それももっと早く言って欲しかったけど、素直に認めたから許してあげよう。」
最後の店は、値段が高すぎるでもなく、店員が強引すぎるでもなく、ちょうど良い場所だった。最初は店員を警戒していた彼女も、しばらくすると自然に商品を眺められるようになった。
「これとこれ、どっちが似合ってるかな?」
彼女は、薄紫色と水色のワンピースを持って見比べていた。
「まいったな。どっちもって答えはナシなんだろう?」正直、僕には違いがわからなかった。どちらを着ていても、彼女が彼女であることに変わりはないのだから。
「そりゃお財布が許せばそうするけどさ。」彼女は少し口を尖らせた。「じゃあ、質問を変えよっか。どっちを着ている私と一緒にいたいと思う?」
同じような質問に感じたが、僕は素直に目を閉じて、それぞれの服を着ている彼女と過ごす想像をしてみた。街の中、人混みを彼女の手を引きながら歩く。公園、木陰のベンチで休みながら、他愛のない話をする。波打つ浜辺、ただ黙って、いつまでもこの時間が続いたらと願う。どこにいても、どちらの彼女も可愛いと思った。
「……こっちかな。」
ただ、薄紫色のワンピースを着ている彼女と過ごしていたときのほうが、少しだけ、本当に少しだけだが、彼女の笑顔が華やかに世界を彩っているように感じた。
「じゃあこっちにしよっと。」
さっきまでの長考が嘘のように、彼女はもう水色のワンピースをラックに戻した。
「本当にいいの?」思わずそう尋ねた。
「何、不服なの?私があんたの意見を参考にするのが。」
「全然、そんなことはないけど。」
「じゃあ、何も問題はないじゃない。」そう言うと、彼女はさっさとレジに向かっていった。
正直、全くといっていいほどファッションには明るくないので、僕の意見が参考になるとは思えなかった。とはいえ、二択にまで絞ったのは彼女だし、何より本人がそれでいいと言っているのだから、今更僕が口を挟むものでもないのだろう。それに、彼女が僕の選んだ服を買ったというのは、気分が良かった。
彼女もまた、帰り道は終始機嫌が良さそうに鼻歌を歌っていた。
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