非黄金数
@masudo_yuu_kiji
非黄金数
[#IMG_5033(fig20211004143411.png、横1532×縦2125)入る]
「おはようございます、先輩。今日は二人殺す予定なので、そのつもりで」
リビングのドアを開けると、宍戸引彦は優雅にコーヒーを淹れていた。いつものことだが、朝の六時だというのに、宍戸は既に着替えてトーストまで焼いていた。相変わらず早起きな男である。
「……宍戸、その言い方止めない? あと、今日もトーストとコーヒーなんだね……」
それとは正反対に、何度もアラームの猛攻撃に抗ってやっと起きてきた逢田空は、まだ眠い目を擦りつつもひとまずそう言った。
今日はよく晴れていて気持ちのいい春の朝だが、それはそれとして逢田はあまり寝起きがよくないタイプの人間だった。おまけにロングスリーパーだ。つまり、非常に眠い。窓の外から聞こえる鳥のさえずりすら子守唄に聞こえるレベルの眠気だ。
「逢田先輩、眠たいなら別に寝ててもいいですよ」
「寝ないよ! 多分、本当なら僕の方が先に起きてないといけないんだろうし」
そうですか、と答えて宍戸はバタートーストとコーヒーをもう一セット机に並べてくれる。逢田の分も用意していてくれたらしい。
礼を言って逢田はテーブルに着いた。目の前の宍戸はもうトーストを食べ終わっていて、コーヒーを啜りながらタブレットでネットニュースを確認している。黒縁眼鏡越しの瞳は向かいに座る逢田の寝癖のことなんか一切気にしていなさそうだった。きちんと身だしなみが整えられたその姿がやけに心に刺さる。この時間に髪まできちんとセットしているということは、宍戸は何時に起きたんだろうか。今の自分が間抜けな寝起き姿であるだろう事実がいたたまれなくて、アラームの鳴らしすぎで充電が減っているスマホを自分用のモバイルバッテリーに繋ぎながら、明日は五時半にアラームをセットしようと決めた。
……なんせ逢田は、宍戸引彦の秘書なのである。雇い主に朝のコーヒーまで淹れてもらう秘書がどこにいる? 秘書たるもの、きっと雇い主が起きる一時間前には起きて朝の支度をしないといけないはずだ。多分。宍戸は別に弁護士でも政治家でもないし、逢田は実際あんまり仕事を任せられていない。昨日なんか、あまりにやることがないので一日中スマホゲームをしていた。実は今日だってこんなに早い時間から起きてこなくてもいいのだが、普通の会社員の二倍ほどの給料をもらっている身としてはどうしても何かしたくなってしまう。仕事は簡単で暇なのに、給料はたっぷりもらえる。夢のような仕事だ。問題は、雇い主の宍戸の仕事が弁護士でも政治家でも、このさわやかな春の陽気にふさわしいものでもないことだろう。
なんとなくテレビをつけて、朝のニュース番組を見る。宍戸はテレビをあまり見ないらしいが、逢田はどうしても癖でテレビを見ながら食事を取ってしまう。沈黙が痛いのだ。これで宍戸がもう少し口数の多い男なら会話で沈黙を埋められたかもしれないが、残念なことに彼は寡黙なたちである。ニュース番組では、今話題のパンケーキを特集していた。色とりどりのフルーツと生クリームが乗ったスフレパンケーキを見ながら、逢田はトーストを齧る。
「そういえば宍戸、今日のお客さんは二人って言ってたけど、何時から?」
「深夜の二時と明け方五時です。後者は朝焼けが見える時間帯を希望しているので、もし天候が崩れるようなら後日に回します。昼間は暇なので、できればその間に仮眠を取っておいてください」
その言葉に頷いて、逢田はトーストを飲み込んだ。
宍戸の作る朝食はいつもエッグトーストとコーヒーだ。というか、彼の食事は基本的に同じメニューをぐるぐるローテーションしている。昼食は大体サンドイッチだ。夕飯は、今日は火曜なので和食だろう。ご飯に味噌汁、ほうれん草の胡麻和え、あと鯖の味噌煮。夕食が曜日ごとにローテーションしているのは栄養素の偏りを防ぐためらしい。その心配がなければ夜も毎日同じものを作りたいと言っていた覚えがあるが、もしそうなったら秘書として流石に止めよう。
ろくに物のない殺風景な部屋に、ごくシンプルなバタートーストはよく似合う。宍戸はミニマリストなので、彼の部屋には本当にびっくりするくらい物がなかった。家具は白っぽい色でまとめられ、壁紙もしみひとつないホワイトだ。いざ引っ越すとなったら支度は数分で済むだろう。でも、ぎりぎりまで無駄を排除した部屋は、綺麗を通り越して怖い。真っ白な部屋は、天国を連想させる。過度なダイエットで骨と皮だけになったモデルみたいに、必要な生命力まで削ぎ落としてしまったように見える。
ふと、テレビ画面越しにスタジオがざわつくのが聞こえた。どうやらニュース速報が入ったらしい。
「……人身事故かあ。この時間に電車が止まるの、大変だろうね」
人身事故で電車が通行止めになったというニュースだった。ちょうど逢田が数ヶ月前まで乗っていた電車だ。もし逢田がまだ冴えない会社員をやっていたら、見事に足止めを食らっていただろう。
「春ですからね。この手の自殺は増えます」
今まで黙ってコーヒーを啜っていた宍戸が、逢田の独り言に反応した。頬杖をついてテレビを眺める彼は、いつも通りの仏頂面をしている。重ための前髪と眼鏡のせいでそもそも表情が読み取りにくいので、彼が何を考えているのか逢田には未だによくわからない。
オーバルのレンズ越しに見える瞳が、ニュース画面をじっと見ている。その瞳に、僅かだが憐憫に似た色が滲んでいるような気がした。
「……宍戸なら、もっと上手くやる?」
少しだけ試すような気持ちでそう尋ねると、宍戸はちょっと嫌そうな顔をした。
「自殺に下手も上手もないでしょう。確かに電車への飛び込み自殺は苦痛が大きいですし、多額の賠償金が請求されるリスクもありますが」
「賠償金?」
「電車を止めてしまうことになるわけですからね。過去には数百万円の賠償金が請求された例もあります」
「数百万円って……それ、遺族に行くの?」
「大体は示談になるので、訴訟まで行くケースは稀らしいですが。まあ、そうなるでしょうね。ちなみに賠償金の金額は場合によって変わってきますが、交通への影響が大きい時間帯は高額になるらしいですよ」
逢田はニュース画面を見た。朝のこの時間帯は、いわゆる通勤ラッシュの時間帯だ。交通への影響は相当だろう。……この時間に身を投げたということは、通勤か通学の途中だったのだろうか。こんな天気の良い春の日に自死を選ぶほど、この人は追い詰められていたんだろうか。遺族には賠償金が請求されるんだろうか? 逢田の脳内に、ストーリーが勝手に組み上がってしまう。
「人身事故は、電車が止まる以上社会への影響も大きいですし、駅のホームというのは元より人が集まりやすい場所なので話題にもなりやすい。厄介な死に方です」
「そんなに厄介な方法にしては、その、なんていうか、頻繁に起こらない? 僕も何回か足止めくらったことあるし」
「手軽なんですよ。普通の交通事故と違って運転手の責任になることもありませんし、なにより電車は社会と強く結びついている。先輩も、会社員時代は通勤に使っていたんでしょう?」
逢田は頷いた。満員電車に押し込められて会社に向かっていた時代が既に懐かしい。今は住み込みなので、そもそも通勤という概念が存在しないのだ。
「自殺の原因が会社や学校にある場合の話ですが。……死にたくなるくらい嫌な場所に向かう前に、ちょっと足を踏み外すだけで死ねるポイントがあるんです。衝動的に死を選ぶにはおあつらえ向きですよ」
「衝動……」
「飛び込み自殺は、多くの場合衝動的な行動が多いです。まあ、計画的に選んだ上でわざわざあんな厄介な方法を選ぶ人は少ないですよ」
逢田がニュース画面に目をやると、人身事故のニュースはもうとっくに終わっていた。政治家の不祥事の話題が始まったので、興味をなくした逢田はテレビの電源を切った。テレビから情報が流れなくなってしまうと、狂気的なまでにシンプルなこの部屋には一気に異様な雰囲気がたちこめる。ここで暮らすようになってしばらく経つがなかなか慣れることはなく、居心地が悪く感じてしまう。ちなみに、逢田が私室としてもらっている隣の部屋はもうとっくに物で溢れてしまった。というか、人間が暮らすとどうしてもそうなるのだ。
宍戸は席を立つと、空になったコーヒーカップと皿を持ってキッチンに行った。
ミニマリストというのはみんなこうなのだろうか。新築のようにぴかぴかに磨き立てられたキッチンを見て思う。キッチンの様子にはその人の性格が顕著に現れるという話は本当だったらしい。宍戸の家のキッチンには砂糖、塩、胡椒しか並んでいなかった。逢田が前に住んでいた社員寮のキッチンなんて、レモン塩やら変わり種のラー油やらいつどこで買ったのかも思い出せないような調味料が乱雑に並べてあったというのに。
自分は少しものぐさなところがあるのでむしろ見習わなくてはならないのかもしれないが、これはこれで極端に少なすぎるのではないだろうか。どうか、見えないところにしまっているだけであってほしい。これではあまりに人間味がなさすぎる。
宍戸が、シンクに皿を置いて戻ってきた。
「たとえどれほど厄介な死に方でも、最期ですから。死に方くらい好きに選ばせてやるべきでしょう」
「そうなのかな……。そんな気もする」
「最後ですからね。自殺は、死に方を自分で決めることができる唯一の死です」
シンプルな白いシャツに黒のジャケット、地味な黒縁の眼鏡。どれも質のいいもののようだが、過剰に金をかけすぎていたり、反対にかけていなかったりするようにも見えない。質よく清潔であることだけを求めた服装だ。服装までシンプルで、人間味がない。そんな男が人間の死の話をしている様子は、なんだか死神のようだった。
……実際、逢田はこの男のことを死神だと思っているのであながち間違いではないのだが。
「どんな無惨な最期でも、本人がそれを望んでいるなら話は別です。俺は本人の選択を尊重します。……ですが、まあ、それが妥協の果ての結論なら話は別ですね」
「妥協?」
「ええ。さっき言いましたけど、電車への飛び込み自殺って手軽なんですよ。死ぬのに準備がいらないでしょう? ……いつもと同じようにホームに立って、あとは足を踏み外すだけでいい。ロープも睡眠薬もいらないんですから、楽といえば楽ですよね。最期の舞台に手を抜く人間の気持ちは理解できないですが」
宍戸は少しうんざりしたような、あるいは呆れたような顔をしている。不謹慎極まりないな、と思ったが、この男が不謹慎なのは割といつものことである。宍戸は性格も口もあまりよくないので、社会に出たら上司に嫌われるタイプだろう。性格の難が特に仇にならない仕事をしているからか、昔と比べ皮肉に磨きがかかっている気がする。
「話が逸れましたが。俺ならもっと上手くやるか? と聞きましたね。ならこの際、個人の意志の尊重の話は置いておきましょう。あるいは妥協の末の選択肢だと仮定しますか」
「うん」
「……俺なら、もっと上手く殺りますよ。俺を誰だと思ってるんです?」
宍戸はいつも通りの仏頂面のまま、なんでもないことのように言った。傲慢にして不遜なその態度に、拍手すらしたくなる。逢田は宍戸引彦のこういうところがかなり好きだった。自信満々なその態度は、決して過信ではない。彼はまさしく死神そのものなのだから。
宍戸引彦は、自殺代行屋である。
自殺代行というと分かりにくいが、要は依頼人の望みの死を提供する仕事だ。ウエディングプランナーが依頼人の理想の結婚式を作り上げるように、宍戸は理想の死を提供してみせる。宍戸に消して安くない金額を払うだけで、それは簡単に手に入る。当たり前だが違法な仕事だ。依頼人とターゲットが同一なだけで、やっていることは殺し屋と何も変わらない。残酷で優雅で傲慢な彼だからこそできる仕事だ。逢田がそんな彼の秘書になって、もう数ヶ月が経つ。
逢田空が宍戸引彦と再会したのは、ある冬の夜のことだった。
逢田が一年と少し務めた会社を自主退職した帰り道だ。
その日はかなり寒くて、雪が少しちらついていた。積もることはなさそうな粉雪がアスファルトに落ちた瞬間吸い込まれるようにたやすく溶けていく様は美しくもあったが、その日の逢田にとっては、まるで自分の運命を示しているように見えた。
逢田は、同期の女性社員と付き合っていた。もう半年ほど恋仲にあっただろうか。彼女はふわふわのロングヘアと泣きぼくろが似合う大人しく可憐な良い子で、会社でも評判が良い娘だ。その大人しさや神経質さが仇になったのかもしれない。少し不安症で束縛がきついところがあり、最初はそれも可愛く見えていたのだが、次第にヒートアップし始めた。逢田が連絡を返すのが少しでも遅くなるとヒステリーを起こしたり自殺を仄めかすようになったりしたのだ。どうにか宥めすかしながら日々を送っていたのだが、会社の上司にそれを相談したのがまずかったのだろう。ある月曜、会社に行くと社員からの眼差しがやけに険しかった。必要なこと以外話しかけられないし、挨拶すらろくに帰ってこない。デスクで書類作成をしていても、ひそひそと噂話が聞こえる。
もしかしたら、彼女と揉めていることがどこかで噂になっているのかもしれない。この時点で正直予想はついていたのだが、昼過ぎに遅れて出社してきた彼女を見て、逢田はさすがに度肝を抜かれた。彼女は頬に大きいガーゼを貼って、手足にいくつも包帯を巻いていた。白い包帯から、青紫の痣がはみ出している。……出社してきた彼女の周りに、何人もの社員が駆け寄る。警察に通報を、とか、やっぱり逢田くんが、とかそういう会話が聞こえてきて――逢田は鞄を掴んで扉のほうに駆け出すと、そのまま一目散に会社から逃走した。
状況が何も理解できなかったが、あの場にいても事態がいい方向に向かわないことだけはわかる。逢田は、DVの加害者に仕立てあげられたのだ。勿論逢田は彼女を殴ってなんかいないし、生憎生きてきて他人に手を上げたことすらない。全くの言いがかりだ。だが、逢田には、無罪を証明できる気がしなかったのだ。土日は社員寮でごろごろしていただけで、彼女どころか他人と会ってすらいない。つまり、誰も逢田のアリバイを証明できない。……単純に、大人しく控えめな性格で会社でも愛されていた彼女の言い分をひっくり返してまで逢田の無実を信じてくれる誰かがいると思わなかったのもある。どうやら上手くいっていないらしいカップルがいて、その彼女のほうが生傷を作ってきたとなれば、誰だって真っ先に疑うのは彼氏の犯行だろう。
会社に辞めますとだけメールをした。会社を辞めるときにこんな簡単な連絡では駄目なのだろうなと思ったけれど、そんな余裕がなかった。もし彼女や会社の人達が警察に通報したらどうなるのだろう。逢田が彼女を殴った証拠をでっち上げることは流石に難しいだろうが、それでもただひたすらに怖かった。犯罪の疑いをかけられたことなんて、生きてきて一度もない。
逢田は、あてもなく裏路地をとぼとぼ歩いていた。冬の夜は寒く、雪のせいかやたらに静まり返っている。寒さと無音。そして暗がり。人間を心細い気持ちにさせるには十分だ。
持ち物は鞄ひとつだけ。中には通帳も財布もスマホもあったし、モバイルバッテリーもある。すぐさま金に困るようなことはないが、逢田が住んでいたのは会社の社員寮だ。流石に戻れない。就職を機に田舎から東京に出てきた逢田には近くに泊めてくれるような友人もいないし、こんなことで実家に帰れない。ひとまずネットカフェか安ホテルに泊まるのが最適解なのだろう。けれど、逢田の精神はもう限界だった。
「……死にたい……」
口から、白い息と共にそんな言葉が漏れた。夜闇に浮かび上がったその白い息がかき消えるより早く、音は溶けて消えていく。人混みから隠れたくてたどり着いた、誰もいない路地裏だ。誰かがその呟きを聞くことはないはずだし、ないはずだから言ったのだ。道の真ん中で泣きそうな顔をしながら死にたいと呟くスーツの男なんて、不審極まりない。
「――殺される!」
だから、次の瞬間響いた叫び声を聞いて、逢田は大きく飛び上がった。
……殺される、と、確かにそう聞こえた。まるで逢田の呟きに返事をしたようなタイミングだ。死にたい、と殺される、ではあまりに意味が正反対だが。逢田が目をぱちくりさせているうちに、タックルされたのかと思うような勢いで背後から走ってきた男にしがみつかれた。
「頼む、あんた、助けてくれ!! このままじゃ、俺はあいつに殺される」
「え、え!?」
熱烈なハグのような勢いで男にしがみつかれ、逢田はパニックになりながらも周囲を見渡した。周囲に人影はない。何かに追われてきたような口ぶりだが、追っ手はどこにも見当たらなかった。
男も周囲を見渡して、誰もいないことを確認したのか、震えつつもしがみつく力を緩めてくれた。その額には大量の汗が流れている。顔面は蒼白で、怯えきっているのは確かだった。歳は四十代くらいだろうか。なぜかこの寒い時期に真っ白な白い着物を着ている。これが女性だったら季節外れの幽霊にしか見えなかっただろう。
「と、とにかく、警察に連絡してくれ。俺はスマホを持ってなくて呼べないんだ」
DVの加害者にされている今警察に関わりたくはなかったが、目の前の男の気迫に押され、半ばパニックになりながらも逢田はポケットからスマートフォンを取り出した。目の前でがたがた震えている男は、ちょっと危ない人なのかもしれない。この寒い中、薄手の真っ白な着物なんておかしすぎる。まるで死装束だ。しかもドラマや映画じゃあるまいし、この令和の世の中で誰かに追われているなんて状況はいささか想像しにくい。この男はやはり少し危ない人で、自分の見た幻覚か何かに追われているんじゃないだろうか。だとしたら、ここで言うことを聞いておかないと逢田の身が危ないだろう。警察に連絡だけして、警察が来る前に立ち去ればいい。
そう思い通話開始ボタンを押そうとした瞬間、ぷしゅ、と空気の抜けるような音がして、逢田のこめかみのすぐ横を一発の銃弾が掠めた。
「え」
それが銃弾だと認識できたのは、数メートルほど向こう、先ほど男が走ってきたのとは反対の方向に、こちらに銃口を向けて立っている若い男がいたからだった。……どうやら、死装束の男は、幻覚から逃げているわけではなかったらしい。死装束の男が叫ぶ。
「待て、俺が悪かった、やめてくれ、ちゃんと金は払うから!!」
「――いや、そういう問題じゃないんですよね。申し訳ないですが」
銃口を向けたまま、若い男は答える。凛としたよく通る声だ。有無を言わせない冷たさを持った声でもある。
その声になんだか聞き覚えがある気がしたけれど、どこで聞いたのか思い出せない。街灯の一切ない裏路地は真っ暗だし、距離もあるせいで顔がよく見えなかった。だが少なくとも、逢田にはこんな物騒な知り合いはいないはすだ。
「来るな! 来るな!! ……くそ、こいつがどうなってもいいのか!!」
考え事をしている場合ではなかった! 死装束の男によって首筋に刃物を当てられて、その刃の冷たさに逢田ははっと我に帰る。
「え!? え、ちょっと待ってください、僕は無関係です!」
無関係の人間を人質にしたところで意味はないのではないか。そう思って、自分を羽交い締めにしている死装束の男の顔を見上げるが、男はすっかりパニックになっているらしく、逢田の首筋に当てた短刀も細かく震えている。死装束に短刀なんて、まるで切腹でもするときのようだ。……自分の置かれている状況は、恐らくかなりまずい。だって、先ほど躊躇なく発砲してみせた若い男に、無関係の人間を殺さないだけの優しさがあるだろうか?
「お前が俺を撃ったら、この男も道連れだぞ!!」
死装束の男が大きな声でそう喚いた。すっかり錯乱しているようで、ほとんど過呼吸のような呼吸をしている。
「……笑えない話ですね。その短刀、手に入れるのに結構苦労したんですよ。どうせなら俺のプラン通りに使用されてほしかったんですが」
平坦なトーンで語るその顔には、緊張どころか真剣さすらない。ただ、気だるそうに肩を竦めただけだった。
道連れ、という言葉を示すように、逢田の首筋に短刀の刃が押し当てられた。逢田の家の包丁が羨ましがりそうなくらいよく研がれているらしい短刀は、それだけで逢田の首筋から血を滲ませる。やられてみて分かったことだが、急所に刃物を押し当てられるという経験は相当怖い。逢田として無力ではない。いざとなったら男の腕を振りほどくくらいはできるだろうが、それはそれとして怖い。当たり前だ。
「アイダ! いいか、お前がもし俺を撃ったとしても、死ぬのはこの男もだからな!!」
……アイダ? 自分の名字と同じ音が聞こえてきて、逢田は驚いた。流れからするに自分のことではないだろう。そもそもこの死装束の男は自分の名前を知らないはずだ。それなら、今目の前にいる若い男の名前がそうなのだろうか。
若い男は銃口をこちらに向けたままゆっくりと歩み寄ってくる。銃口と逢田たちの距離は、もう二メートルもないだろう。発砲すれば確実に当たる距離だ。
そのとき、ゆっくりと辺りに光が射し込んだ。
月がちょうど雲の切れ目にさしかかり、辺りが一気に明るくなったのだ。おかげで、若い男の顔がようやく見えるようになる。月明かりに照らされたその顔に、やはり酷く見覚えがあった。
明るくなってよく見えるようになったのは、目の前の若い男にとっても同じことだったのだろう。彼とふと目が合った。途端、若い男は二、三回瞬きをする。さっきまでの無表情が嘘のようにきょとんとした顔をして、ゆっくりと名前を呼んだ。
「……逢田先輩?」
逢田のことを先輩と呼んで、男は黒縁眼鏡越しの目をまっすぐこちらに向けている。
先輩、と呼ばれて、真っ先に連想したのは会社の後輩のことだった。けれど、逢田の会社にはこんなおっかない後輩はいない。それでもその顔にやはり見覚えがあった。ややあって、若い男は口を開く。
「……その短刀、下ろしてくれませんか? 流石に無関係の人質を殺すと後が面倒なので」
「なんだ、やけに従順じゃないか! だが、先にそっちが銃を捨てろ」
若い男は言われた通り、銃を地面に投げ捨てる。黒い拳銃には、銃身の先に細長い筒が取り付けてあるようだった。ゲームで見たことがある。いわゆる消音器だろう。先ほど発砲音がしなかったのはこれのおかげか。
銃が地面に捨てられたのを見て、逢田の首筋からそっと短刀が離れていく。この隙にと逢田が男から飛び退いた瞬間、若い男が視界の端で動くのが見えた。彼は体勢を低くしてすべりこむように死装束の男の懐に入り込むと、そのまま死装束の襟を掴んで地面に引き倒す。ぶつかって吹っ飛ばされた逢田は今度こそアスファルトにしたたかに背中をぶつけた。
若い男は、いきなり地面に引き倒されたせいで頭をぶつけたのか目を白黒させている男の右拳ごと短刀を掴むと、男に掴ませたまま短刀を男の胸に突き刺した。迷いのない素早い動きだ。五秒もかかっていないだろう。自分で自分の心臓を刺し貫いたような体勢で、死装束の男は絶命した。死装束に真っ赤な血が広がる。
逢田は地面に尻餅をついたまま動けなかった。目の前で人が死んだのだと、理解するまでに時間がかかる。
「覚えてますか、俺のこと」
銃を拾い上げながら、若い男はこちらを見ないままそう尋ねてくる。雪のちらつく夜によく似合う、ひどく冷たい声だ。なのにどこか乞うような、祈るような必死さがその声にはあるような気がした。
……ここで名前を思い出せなければ、殺される。そういう不思議な確信があった。必死に頭を回転させる。普段ならすぐに思い出せていたのかもしれないが、生憎、こちらは自分の住所も暗唱できるか怪しいくらいに焦っているのだ。この平坦な声にも、黒縁の眼鏡にも、やたら整った顔立ちにも覚えがあるというのに、肝心な名前が思い出せない。この、世界の全てに退屈したような瞳――。
「…………宍戸?」
そうして、逢田は思い出した。
宍戸。宍戸引彦。高校時代の、部活の後輩だ。
高校時代の逢田は、囲碁将棋部に入っていた。囲碁将棋部と言っても囲碁と将棋ばかりする部活ではない。オセロやチェス、それにトランプゲームなど、ボードゲーム全般を遊ぶ部活だ。遊ぶ、という言葉を使うのは、実際その部がそういう雰囲気だったからに他ならない。大会に出るわけでもなく、日々ボードゲームをしながら菓子を食べてごろごろ適当に過ごすだけの部活。つまり、やる気のない生徒のたまり場である。
逢田の通っていた高校はそれなりに厳しく、特殊な事情がない限り生徒全員が部活に入ることを義務付けられていたので、こういう抜け道のような文化系のゆるい部活は人気があった。実際、放課後に空き教室に集まってだらだら過ごすのは居心地がよかったし、勿論土日に活動なんてない。他の部活がこぞってハードだったからこそ人が集まったのだろう。囲碁将棋部には毎年十人かそこらの新入生がやってきた。
そのうちの一人が、宍戸引彦だった。いつも暇そうにしているくせに、他の新入生たちと絡むこともせずに教室の端でじっと本を読んでいる愛想の悪い新入生。宍戸が入部希望の一年生としてやってきたとき、逢田はもう三年生だった。関わるようになったのが卒業の二ヶ月前なので関わった期間はそう長くないが、逢田はそのとき運の悪いことに部長をやっていた。じゃんけんで負けた結果だ。
囲碁将棋部はゆるく退屈であるがゆえに人気の高い部活だが、活動内容がボードゲームである以上、全く何もせずにごろごろしているわけにはいかない。活動をしていないことが教師にバレればもちろん即指導が入る。だから皆顧問をだまくらかすためにボードゲームをある程度はやっていた。実際、雑談をしながらのボードゲームはそこそこ楽しい。毎日同じゲームばかりやっていると飽きそうなものだが、メインは雑談で、その片手間にゲームを挟むくらいならそれほど飽きるものでもないのだ。しかもこんな部活に入る生徒は元よりインドア派の人間が多い。だからこそ気が合うのだろう、部員たちの仲は良かった。青春の熱気からは取り残されていた場所だったけれど、和気あいあいとした良い部だったと今でも思う。
その中で、宍戸はずっと一人でいた。
周囲に馴染めなくて孤立しているのかと思ったが、そういうわけでもないらしい。世間から爪弾きにされているのではなく、彼は自ら望んで孤立しているようだった。部室の隅で、ずっと退屈そうな目をして本を読んでいる。その様子がなんだか気になって、逢田は宍戸のことを注意して見るようになった。部長としての責任感もあったし、単純に興味が沸いたのもある。孤立している一年を哀れに思って話しかけたお節介な人間は何人かいたが、宍戸は愛想が悪く、口も悪く、そして性格も悪かった。声をかけた部員が皆毒舌にやられて退散していく様子はあまりに見事で、逢田は心の中で拍手をした。ダークヒーローに憧れる年頃だったのだ。逢田は、この奇妙な後輩のことを憎からず思っていた。
「悪趣味ですね、逢田先輩」
「へ?」
五回目に話しかけたとき、宍戸は本から顔も上げずにそう言った。一月、三学期が始まってすぐの放課後のことだ。
「趣味が悪いって言ってるんですよ」
「え、そう? そんなに変な格好してる?」
「服の話ではないです。というか、私服ならともかく制服着ててどうやったらそんな発想に至るんですか……よく俺にここまで構いますね。俺は見世物じゃないんですよ。珍しい生き物が見たいなら動物園にでも行ってきたらどうですか?」
「あー、いや、気に触ったならごめんね。それはそれとして宍戸、オセロやらない?」
「……もしかして頭だけじゃなくて耳も悪いんですか? 俺はあなたたちの青春の仲間入りはしませんよ。それは俺には必要のないものです」
「聴力も視力も平均より上だよ、自慢じゃないけど」
「そんなこと自慢されても困るんですが」
宍戸が呆れたようにため息をつくと、やっと本から顔を上げてこちらを見てくれた。他の部員がはらはらしながら二人の様子を窺っているのがわかる。それもそうだろう。宍戸の態度は、一年生が三年生に、しかも自分の所属する部活の部長に対して取っていいものではない。宍戸は他の生徒に対してもこういう露悪的な態度を取っているので、次第に周囲から嫌われ始めていた。本人は孤立したがっているようなのでむしろそれで都合が良いのだろうが、罵られた側からしたらたまったものではない。
逢田が宍戸に話しかけ続けるのは、他の部員に助けを求められたからだ。あと単純に興味だ。今まで宍戸を気にかけて関わりに行った人達は教師含め一定数いたらしいのだが、宍戸はどんな温厚な人間が相手だろうと相手が激怒するまで煽って追い詰めるらしい。そこまで他人を罵れるというのはどういう才能なのだろう。恐ろしい話だ。
逢田は、宍戸とまともに会話できる唯一の存在だった。五回目の接触にしてなお、逢田はこの生意気な後輩のことを好ましく思ってすらいる。
なんせ、自慢じゃないが逢田は自己評価が低い。宍戸は相手のコンプレックスを完璧に見抜いて的確に撃ち抜くことのできる男だが、プライドを折られて傷付くのは折られるプライドのある人間だけなのだ。
「というわけで宍戸、オセロをやろう」
「やりません」
宍戸が逢田に興味を向けたらしいのを良いことに、逢田は机の上に勝手にオセロ盤を広げた。部室にはいくつものボードゲームが置いてあるが、オセロは逢田が最も得意とするゲームだった。いくらゆるふわ部活動といえど三年間やっていればそこそこ上手くもなる。オセロなら部活の誰にも負けたことがなかった。
「宍戸が黒ね。先攻でいいよ」
「やりません。というかなんで勝手に決めるんですか」
「だって黒っぽいもん、宍戸って。ダークヒーローって感じがする」
「…………これで俺が勝ったら、二度と話しかけないでください。いいですね?」
「いいよ。絶対に勝ってみせる」
いきなり始まった対決に、遠巻きに見守っていたオーディエンスたちがざわついた。スポーツ漫画のような展開にテンションが上がっているのだろう。実を言うと逢田もいささかテンションが上がっている。生意気な新入生と部長の対決なんて絵に書いたような展開に、テンションが上がらない方がおかしいのだ。
目の前にいる宍戸はいつも通り冷静な顔をしていたが、逢田が不敵に微笑んでみせると眉を顰め、ちょっとだけ真剣そうな顔つきになった。少しは警戒してくれたらしい。この戦いに、負けるわけにはいかなかった。逢田は、勝ちを確信して白い石を手に取った。
――そうして五分後、逢田はボロ負けした。
オセロ盤は全て真っ黒に染まっている。宍戸の勝ちだ。
あれだけ大口を叩いておいて負けたのだ。しかも完璧なボロ負け。あまりの負けっぷりに、流石の宍戸もちょっと引いていた。オーディエンスはドン引きどころじゃない。くすくすと笑い声すら聞こえてくる始末だ。いや、いっそ笑ってくれる方がましかもしれない。
「…………では、約束通り、もう話しかけないでください」
そう言い残して、宍戸が席を立とうとする。これを茶番だと認識したのだろう。確かに見事な茶番だった。劣悪な舞台に巻き込まれたことに怒っているのか、相当機嫌が悪そうだ。その腕を咄嗟に掴んで、逢田は高らかに言った。
「明日また挑んでもいい?」
「……は?」
宍戸がその端正な顔を歪めて、理解できないという顔をする。理解できないだろう。今さっきこれに勝ったら二度と話しかけないと約束をしたばかりなのに、逢田の問いかけは矛盾どころの話ではない。自分でもそう思う。
だが、逢田は、宍戸を手離したくなかったのだ。この男に興味があった。逢田空にはプライドというものがないので、負けても悔しさより相手の強さへの興味が勝る。
「いや、だって宍戸強いもん。知ってるかわからないけど、うちの部活に、僕にオセロで勝てる人っていないんだ」
「はあ。それ先輩方が弱いだけですよね」
「そうかも。でもさ、弱い相手とばっかり戦うのって張り合いがないんだよね」
「……言いたいことがわからないわけではないですが、俺はあなたの相手にしては強すぎますよ。さっきだって試合を楽しむ暇すらなかったでしょう」
それは事実だった。一方的にいたぶられていたと言ってもおかしくないだろう。逢田が長考してやっと盤面をひっくり返すたび、宍戸は迷いない手つきで真っ黒に染めてみせた。
「えーと、うーん。でもさ、僕あと二ヶ月で卒業するんだよね……」
言い負かす言葉が見つからなくて苦し紛れにそう言う。流石に、宍戸を相手にこんな泣き落としが通用するとは思えない。他人の青春のために労力を割きそうには全く見えない男だ。だが、それを聞いて宍戸は少し眉を上げる。ちょっと考えるように目を細めて、やがて、口元に微かな笑いを浮かべて頷いた。
「……いいですよ。卒業までなら」
「え? いいの?」
「ええ。卒業式の日まで、何度でも相手してあげます。……どうか、その日には俺に勝てるようになっていてくださいね」
オーディエンスにも聞こえるようにわざと大きめの声でそう宣言した宍戸は、そのときやっと逢田に対して、本当の興味を持ったようだった。ライオンが獲物を見つけたときのように、その目は僅かな熱を持っていた。多分、何か企んでいるのだろう。悪い予感がする。
それでも今の逢田にわかるのは、自分がこの男をどうにかしてつなぎ止めたいと思っているということだけだ。
こちらを品定めするように真っ直ぐ見据えて立っている宍戸を見てふと思った。……そんな目ができるくせに、どうして一人でいようとするんだろう? 人を痛めつけるのが好きなら好きでそのまま暴虐を続ければいいのに、まるで他人を一切必要としていないみたいな顔を、どうしてしているのだろう。それだけが、逢田にはわからなかった。
銃口を強く額に押し当てられて逢田は我に返った。宍戸引彦が、銃を持ってこちらを見ている。
その目は冷めきっていた。あのときのような光はもうない。
「久しぶりですね、逢田先輩。さて、感動の再会のところ悪いんですが、ひとつ質問があります」
自分で感動の再会って言うなよと思いつつも逢田は黙って聞くことにした。なんせ、あっちは銃を握っているのだ。勝てる勝てないを思考することすら無謀だろう。
どうして彼がこんなところで銃を握っているのか、そもそもさっき殺された男は何者なのか。全く何もわからないが、もしかしたら昔馴染みのよしみで助けてもらえたのかもしれない。身勝手かつ淡い期待を抱く逢田の期待を裏切るように、宍戸は逢田の額に銃口を突きつけて言った。
「先輩。死ぬのと共犯やるの、どっちがいいですか?」
そうして、今に至る。
簡単な話だが、誰だって死にたくはない。死ぬのと共犯者になるのだったら後者を選ぶに決まっている。
こうして、逢田空は自殺代行人、宍戸引彦の秘書になったのだ。
「あのさあ宍戸、宍戸が仕事のときに使ってる偽名、相田って言うの?」
「そうですが。それが何か」
「いや、依頼人にそう呼ばれると間違えて反応しちゃうなあって。それよりなんで相田なんて偽名にしたの?」
「…………別に。もし迷惑をかけても良さそうな知り合いの名前から適当に選んだだけですよ」
宍戸は機嫌悪そうにそう言った。この話題を振った瞬間機嫌が恐ろしく悪くなったらしく、眉間に相当なしわが寄っている。どうやら偽名の話は地雷だったらしい。宍戸と話すときは触らぬ神に祟りなしを第一に動いたほうがいいことを知っているので、この話題はもう振らないことにする。というか、そもそも黙って仕事をしろと言われそうだ。逢田は書類作成に戻る。
逢田が今やっているのは、ここ数日宍戸が自殺代行を依頼されて殺した人達の依頼内容や結果を書類にまとめる作業だった。そんなに難しい仕事ではない。
ソファーに座ってしばらくタブレットの画面を睨んでいた宍戸が、ふと顔を上げた。
「先輩、一件キャンセルを認めることにしたので、来週木曜の午後八時の予定は取り消しでお願いします。あと、明後日届くように頼んでいた畳も注文取り消しで」
「はーい。というか、キャンセルなんてできるんだね」
「できますよ。急に予定が変わって死にたくなくなることもあるでしょう」
「……あるのかな。わかんないけど……」
まあ、宍戸が言うならあるのだろう。なんせ宍戸は死のプロである。高校を出てからもう三年以上もこの自殺代行業をやっているというから驚きだ。高校の後輩ががっつり違法な仕事をしているとは思わなかった。ちなみに宍戸は地元の家族に連絡せず東京に出てきたので、行方不明扱いになっているらしい。逢田も、ここで宍戸の助手として働くことが決まったときに親や兄弟には「しばらく連絡が取れなくなるけど気にしないで」とだけ残して連絡を絶っている。メッセージがあれば失踪事件扱いにはならないだろう。多分。
「先輩くらい思い切りがよければキャンセルはないんでしょうけどね」
心を読んだようなタイミングで宍戸が言う。この男は相手の思考を読むのが得意なのだ。高校時代数多の人間の逆鱗を見抜いて激怒させてきたのもそのおかげだろう。
「良すぎるんですよねあんた、思い切りが。いくら死ぬか生きるかの瀬戸際だからって、あんな軽いノリで非合法な仕事の片棒を担ぐとは」
「だってそうしないと殺すって言ったのは宍戸じゃん。え、もしかして、あれって共犯者にならないって答えても殺されなかったとか……?」
「いや、殺してましたね。俺の顔を見た時点で基本的には殺します」
澱みなくそう断言されて逢田は少し肩を竦めた。いい加減慣れたと思ったがやはり物騒な上司だ。宍戸の性格は高校時代と何も変わらない。背はかなり伸びているし全体的に大人になっているので、高校時代を知っている身としてはその成長がなんだか嬉しいのだが。
「……じゃあ、今回キャンセルした人も殺すの? その人、前に打ち合わせで事務所に来てたよね」
「殺しませんよ。キャンセル料はもらいますが」
宍戸はタブレットに今回キャンセルした依頼人のデータを表示してみせる。依頼人は三十代男性で、畳の上で安らかに死にたいというのが依頼内容だった。難病を患ったことから自殺を決意したらしい。ここで勤めるようになってからしばらく経つけれど、こういう安楽死の依頼が一番多い。
「治療法がないことで有名な病気だったため、安楽死を求めて俺に依頼をしたようなんですが、どうやらアメリカで治療薬が開発されたらしいですね」
「畳ってこのために注文してたんだ。模様替えでもするのかと思った」
「しませんよ。模様替えしたほうがいいのは先輩の頭では? ……今回のように、キャンセルに値するしっかりした理由があるならキャンセルを受け付けています」
そこで逢田の頭に一つの光景が浮かんだ。自分が宍戸と再会したあの日の夜の光景だ。あの男は、どうして追われていたんだろう。金を払わなかったとかそういう揉め事の結果なのだろうか。
「あれ、僕のこと人質にしようとしてたあの人は? あの人のことは最初から殺そうとしてたよね」
助けてくれ、殺される、と縋られたことを思い出しつつ聞くと、宍戸が非常に不愉快そうな顔をした。
「あれはキャンセルとは言いません。ドタキャンと言うんです」
「……ドタキャン?」
「逃げたんですよ。死ぬのが怖くなって。武士のように死にたいから切腹の介錯をしてくれ、というのが依頼内容だったんですがね」
「あ、それで短刀……」
自分の目の前で死んだ男の背景を知ってしまい複雑な気持ちになっていると、宍戸がやけに嫌そうな顔をした。自分はまたこの男の地雷を踏んだらしい。宍戸を怒らせる基準はよくわからない。完璧主義者のミニマリスト。それが宍戸引彦だ。
さっきちらりと見えたタブレットのホーム画面が恐ろしいほどに整理整頓されていて驚いたのを思い出す。ホーム画面の背景を白一色にしている人間を逢田は初めて見た。ちなみに逢田のホーム画面は乱雑に色んなアプリが散らばっていて非常に見づらい挙句どこになにがあるのかもわからない、腐海のようなホーム画面が数ページに渡っている。……まあでも、自分で決めたことを途中でねじ曲げる人間なんていかにも宍戸の嫌いそうな人種ではある。
「なんですか、その顔。もしかして自分のこと人質にした人間に同情してます?」
「同情っていうか……人間いろんな死に方があるんだなあって」
逢田がそう言うと、宍戸は苦虫を噛み潰したような顔をした。いや、正確にはさっきからずっとそういう顔をしていたのだが、噛む虫の数がどんどん増えている。元から目つきの悪い宍戸がこういう顔をするとかなり怖い。
「……先輩に一つ、任せようとしていた仕事があったんですが。やめました」
「え? やめないでよ、やるよ」
「なんでこういうのだけ即答しちゃうんですか。……まあ、本人がやる気なら構わないか……?」
宍戸は言葉を詰まらせて視線をさ迷わせる。あの宍戸が何かに躊躇するのは珍しかった。基本的に自分が得するかどうかで動いているあの彼が、他人に何かを伝えるのを渋るなんて状況はなかなかない。やがて、宍戸は大きなため息をついて頭をがりがりと掻きつつ言った。
「あなたに殺されたいって客がいるんです」
宍戸は心底不快そうだった。多分これは爆発寸前だろう。逢田はといえば、流石に想定外の言葉が飛んできたので目をぱちくりさせていた。だってそうだろう。プロの宍戸ならともかく、ただの秘書の自分がもたらす死になんの価値がある?
「……え? 俺? 宍戸じゃなくて?」
目をぱちぱちさせながら逢田が自分を指で示してまで尋ねると、宍戸は重苦しく頷いた。
「というか、なんで俺ならありそうみたいな言い方するんですか」
「だって宍戸イケメンだし……」
「…………時間やシチュエーションの指定ならともかく、指名なんて初めてですよ。うちをニッチなホストクラブみたいに使われても困るんですがね」
イケメンは否定せずに、宍戸がいかにも不快そうに言う。ニッチなホストクラブならそれこそそっちが指名されて然るべきではないだろうか。
ここで逢田の脳裏によくない想像がよぎった。逢田が会社を辞めることになった原因、元カノのことである。当たり前だが、逢田が今ここで働いていることなど彼女は知らないはずだ。ここで働き出してからは会社の面々と街でばったり顔を合わせるのが嫌で外にもろくに出ていない。
宍戸も事情は知っているので、同じことを考えたらしい。依頼人のデータを見せられた。逢田に殺されたがっている依頼人の名前は田島桜子。この近所のカフェで働いているらしい。殺害方法指定の欄に、はっきり「秘書の方に殺されること」と書いてある。凶器もシチュエーションも指定せずただ逢田に殺されることだけを指定して、数十万円の代金を払ってまで彼女は死ぬつもりなのだ。
写真を見た瞬間、はっきり別人だとわかる。逢田にDVの罪を着せた彼女は二重がぱっちりとした垂れ目の茶色いふわふわのロングヘアーが良く似合う女性だったが、写真の中の女性は快活そうな黒いショートヘアだ。目もつり目だし、チャームポイントの泣きぼくろもない。
「この方です。……確認なんですが、件の元カノとは別人ですよね?」
「うん、別人。全然違う」
「……厄介な女性に好かれる体質なんですかね。かわいそうに」
初めて宍戸が他人を皮肉ではなく本気でかわいそうだと言っているところを見た。しかし、元カノでないのであれば更にわからなくなる。逢田に殺されたい、とはどういうことなのだろうか。
「この方、先週うちに打ち合わせに来ましたよね。その時はまだ先輩に殺されたいなんて話は聞かなかったんですが……先輩、彼女と何か話しました?」
そう言われても、逢田はそもそもこの桜子という女性が本当に事務所に来ていたかどうかすら思い出せない。軽い会話くらいは覚えていないだけで交わしたのかもしれないが、それだけで殺されたくなるほど好きになってしまうものなのだろうか? 逢田には女性の心がわからないので何とも言い難い。
「まあいいや。やるよ」
逢田がそう言い切ると、流石の宍戸も目を丸くした。
「は? ……いや、正気ですか? 人殺しの経験なんてないくせに」
「ないけど、殺し方になんか難しい指定があるわけじゃないんでしょ? 僕だってできれば避けたいけどさ、ほら、前に宍戸が言ってたじゃん。本人の意思は尊重されるべきだって」
「いや、そりゃあ言いましたけど」
宍戸はどうやら逢田にこの仕事をやらせたくないようで、ぶつぶつと文句を呟いている。完璧主義の彼のことだから、自分の仕事の領域に逢田が入り込んでくるのが嫌なのだろう。ややあって、宍戸が根負けしたように言う。
「わかりました。トラウマになっても知りませんよ。死体すらろくに触れないくせに、どうしてそんなに思い切りが良いんですか……」
宍戸はやたらに渋い顔をしていた。まるで苦虫をまとめて百匹噛み潰したようだ。そんなに自分の領域に他人が入ってくるのが嫌なのか、それとも素人の逢田が中途半端に手を出してきたから怒ったのだろうか。そんなに嫌な顔をしなくても良いと思うのだが。この話はこれで終わりのようだが、なんだかもやもやする。さっきまでの事務作業に戻る気になれない。
ふと思い立って、かねてからの疑問を尋ねてみることにした。
「宍戸はさ、なんでこの仕事してるの?」
いきなりそう尋ねられて、宍戸は面食らったような顔をした。大体仏頂面の男だが、実は意外と表情豊かなのである。彼が心を動かされるような出来事がなかなか起きないだけで。黒縁の眼鏡越しに宍戸の目がゆっくり細められるのが見えた。
「……よりよい人生のためです」
宍戸はそう言って、ゆるく指を組む。それがまるで祈りのように見えて笑えてしまった。祈りなんて、彼に一番ふさわしくない行為だ。
「人生のすべては、死の準備期間です。少なくとも、俺はそう思っています」
「……そんなことないと思うけどな」
「そんなことありますよ。どれだけ華やかな人生を送ったところで、悲惨な最期を遂げたらそれはバッドエンドでしょう」
宍戸は迷いなくきっぱり反論を差し込んだ。宍戸に論争で勝てると思っていないので構わないが。
どれだけ華やかな人生を送ったところで、死が悲惨なら意味がない。それは確かにそうかもしれない、と思うけれど、逢田はどうしてもその二つを上手く天秤にかけることができなかった。幸福な人生を送って悲惨な死を遂げるか、平坦で退屈な人生の果てに望むとおりの死を得るか。天秤にかけようがない。人によって答えは違うだろう。
よりよい人生のために彼は人の死を学んでいる。他人の死をプロデュースすることは、いずれ来るであろう自らの死の瞬間のためのリハーサルなのだ。他人の人生を平気で踏み台にしていくところは宍戸らしいな、と思う。
「少し無駄話をしすぎましたかね。……俺から依頼人に連絡しておきます。実行の日時は決まり次第連絡するので、予定はしばらく入れないでください」
その言葉に頷いて、部屋から出ていく宍戸を見送った。リビングに一人にされてしまうと、真っ白な壁紙、必要最低限の家具がやけに寂しい。このまま他人に貸せそうなくらい殺風景で、家主の個性が全くない部屋だ。
部屋をぐるりと見渡してふと思う。なるほど、遺品整理が楽そうな部屋だ。
「こんばんは、秘書さん」
コンクリート張りの地下室に、逢田と依頼人の女性――桜子は立っていた。今から人を殺すのだ、という実感は思ったよりない。それより、今目の前に立っている人の人生の幕引きを背負っているという責任感のほうが逢田にとっては大きかった。この前宍戸とした話が悪かったのかもしれない。この部屋に宍戸はいない。ついていくとしきりに行っていたが、依頼人の桜子本人が逢田だけがいいと言ったのでしぶしぶ退却していた。
「……こんばんは。秘書の逢田です。よろしくお願いします」
「ええ。こちらこそ」
桜子は、見れば見るほど逢田の元カノとは似ていなかった。むしろ似ている部分を探す方が難しい。性格もさばさばしていそうで、嫉妬や不安なんかとは遠く見えた。そんな風に見える人でも死ぬんだな、と思うと、よくわからない気持ちになる。
逢田は手に持った拳銃のグリップを握りしめる。桜子は、殺し方について特定をしなかった。逢田が決めていいと言われたので拳銃にした。……特に意味はなかったが、強いて言うならその殺傷力に惹かれたのかもしれない。ナイフより何より、至近距離で使えるならこれが一番確実だと宍戸が言っていた。傷付けるためだけに作られたシンプルな道具。宍戸が好んで銃を使っているらしいのは、そのシンプルさゆえなのだろうか。
「さあ、殺してよ。……私ね、あなたに初めて会ったときから一目惚れだったんです。元から死ぬつもりだったけど、あなたに殺されるなら本望だから」
桜子は地面に座り込むと、逢田を見て微笑む。逢田は人を殺すという実感がないまま、深呼吸をする。なるべく早く済ませてこいと宍戸に言われてきたのを思い出して、言われるがままに彼女の額に銃口を当てた。――これで引き金を引けば彼女は死ぬ! 死とは、思っていたよりあっけなく来るものなのだ。あの裏路地で一度体験したはずなのに、どうして忘れていたのだろう。今になってそのことを思い出した。それがよくなかった。
女の両腕が、思い切り逢田の首を掴んだ。
「あッ……ぐ」
力いっぱい首を絞められて、逢田の頭に咄嗟に浮かんだのは、誤って引き金を引いてしまう可能性だった。銃を投げ捨てる。抵抗手段をなくすことだと理解していながらも投げ捨てたのは、結局逢田には人を殺す度胸などないということだったのかもしれない。首を絞めてくる手をどうにか引き剥がそうとするけれど、女性とは思えない力で絞められていてどうしようもない。
「……やっぱり、佳奈ッ、どうして……!」
佳奈――つまり、逢田にDVの罪を着せた彼女は、逢田の首を絞めながら笑っていた。
「空くん、やっと気付いたの。遅いね。……ねえ、あの眼鏡の人も言ってたけど、死はそれまでの人生のすべてなんでしょう? なら、私があなたを殺したらあなたの人生の幕引きは私になるのかな」
整形、あるいはメイク? どうやって顔を変えたのだろう。メイクでここまでいじれるとは思わない。整形だろうか。そうまでして追うような魅力が逢田にはあるのだろうか? というかそもそも、どうして逢田と宍戸の会話内容を知っている? その疑問を口にすることすら叶わず、首の骨が折れてしまいそうなほどぎりぎりと強く絞められる。
幸いなことに、銃は未だ逢田の手の中にある。引き金にも指がかかったままだ。首を絞められたまま相手の頭を狙うことは難しいだろうか、足や腹なら十分届く距離だ。だが、逢田は引き金を引けなかった。これを引いたら、彼女は死ぬのだろうか?
もういいかもしれない。
元よりプライドが無に等しいくらい自己評価が低いわけで、ここいらで終わってしまうのもいいかもしれないと、逢田はそう思ってしまったのだ。会社を辞めて雪の路地裏を歩いているときに呟いた、死にたいという言葉は嘘ではない。それにさっき彼女は、逢田の人生の幕引きを自分がやる、と言っていた。殺したいくらい強く愛されて、求められて、それなら少しくらいは返さないといけないのかもしれない。そう思ってしまった。
手の力をゆるめ、銃を地面に落とす。
これで抵抗の手段はなくなった。人間は首を絞められたらどのくらいで死ぬんだろう。そんなことが脳裏によぎる。いくら人生が華々しくても、死が悲惨なら意味がない。宍戸はそう言ったけれど、本当にそうだろうか。
彼女に首を絞められながら逢田は宍戸のことを考えていた。いつでも死ねるようにシンプルに最適化された棺桶のような生活は、果たして幸せと呼ぶんだろうか? あのからっぽの男は、走馬灯で何を見るんだろう。
気が遠くなる。目の前が真っ白になる。ざあ、と血潮が流れるようなざわめきが鳴り、走馬灯にしては長らく思い出してもいなかった風景が、瞬く間に目の前に広がる。
「卒業おめでとうございます、逢田先輩」
「ありがとう宍戸。今日こそ勝つからね」
高校の卒業式の日の放課後のことだ。逢田と宍戸は、二人で囲碁将棋部の部室にいた。あれから逢田と宍戸は毎週のようにオセロに興じ、毎週のように逢田はボロ負けした。宍戸引彦はオセロがめちゃくちゃに強かった。……いや、オセロだけではなく、他のボードゲームも強いのだろう。つまりは地頭の問題だ。流暢な罵倒も、他人を不要とする人生設計も、オセロで連勝することも、宍戸にはできて逢田にはできないことだった。
それでも今日は卒業式。約束通り、これが最後の試合だ。泣いたって笑ったって最後なのだから、勝つしかない。他の部員たちは空気を読んでドアの向こうで見守っている。
「さて、約束通り、卒業までは付き合ってあげたわけですが。勝てる自信はありますか? 先輩」
意地の悪さを隠そうともせずに宍戸が言う。彼が何を考えて逢田と毎週オセロをしていたのかなんて、なんとなく読めていた。
「……正直、宍戸の期待に答えられるかはわからないけど。でも、よろしく。宍戸」
今回も逢田は白、宍戸は黒だった。宍戸はもう色分けに文句を言わなかった。実際彼は黒が似合う。逢田はオセロの石を盤上に置いた。
――そうして十分後。
逢田は、笑って宍戸を見つめていた。宍戸が、オセロの盤に手を添えたまま雷に打たれたように固まっている。
盤面は真っ白だった。逢田の勝ちだ!
そのとき、逢田の胸にあったのは興奮だった。宍戸を、ただ人生が過ぎ去るのを待ち続けているだけのこの男を、青春という文脈に組み込んでやったことに対する歓喜の震え! その日、宍戸引彦は、永遠に逢田空の後輩にになったのだ。
ぷしゅ、と空気が抜けるような音がして、目の前に血が弾けた。
佳奈が背後に崩れるように倒れ込む。……撃たれたのだ。額を的確に撃ち抜かれたらしく、倒れた彼女の周囲に血溜まりが広がる。逢田の首を絞めていた手もほどけて離れる。
呼吸が自由になった瞬間、逢田は酷く咳き込んだ。地面にうずくまって咳き込みながらもやっとのことで息をする。
「逢田先輩」
名前を呼ばれて、サプレッサーで抑えた銃声がした方を向いた。宍戸が銃を構えたまま立っている。宍戸の姿が見えて安心した逢田が一息つこうとすると、宍戸に思い切り胸ぐらを掴みあげられた。
「……ふざけないでください」
怒りを押し殺した、重たく冷たい鉛のような声だった。本気で怒っていると一瞬でわかる。本気の怒りは殺気にも似ていて、その場の空気が一気に冷えた。
「どうして銃を捨てたんです。俺が間に合ってなかったら死んでましたよ」
胸ぐらを掴みあげられたまま、怒りと恐れを湛えた瞳と、至近距離で目が合った。後輩にこんな顔をさせるなんて先輩失格だなとふと思う。
「……ごめん」
宍戸は目の前にいる相手がさっきまで首を絞められていたのだということを思い出したかのように、ゆっくり胸ぐらから手を離してくれた。
「自殺願望でもあったんですか、あんた」
「あー……あったかも。でも、ないかも」
「なんですかそれ。しかし、よく化けましたね、この女」
「うん……整形したのかな」
目を見開いたまま死んでいる佳奈の遺体に近寄る。その顔は逢田の記憶にある佳奈の顔とは全く別人だ。むしろ誰が見たって別人に見えるだろう。
「知り合いが見ても判別できないくらい顔が変わっているとなると整形でしょうね。イカれてるな」
「でも、顔は整形で変えられるかもしれないけど、そもそもどうやって僕がここで働いてて、しかもここが自殺代行業者だってことがわかったんだろう」
そもそもその疑問が残っていた。それを知る手段が佳奈側にないからこそ、逢田も宍戸もこの女性が佳奈でないと判断したのだ。逢田が首を傾げていると、宍戸がポケットからスマートフォンを取り出す。
「……逢田先輩。このアプリ、先輩が入れました?」
宍戸が手に持っているのは、部屋に置いてきていたはずの逢田のスマホだ。
宍戸が指さす先の画面に、見覚えのないアプリのアイコンがあった。勿論インストールした覚えはない。首を振ると、でしょうね、と宍戸がため息をついた。以前ホーム画面を整理しようとフォルダを作って普段使わないアプリをまとめておいたことがあるのだが、その奥に隠されていたのだ。フォルダ内のページを移動しないと見えない位置にある。気付かなくても無理はないだろう。
「これ、GPSアプリですね。カップル用の。手際がいいな……。バレたらカップル用だからとかみんな使ってるからとかそういう理論でねじ伏せるつもりだったんでしょう。逢田先輩ならそれで十分丸め込まれそうですし」
「う、多分そうなる……」
「もし依頼人が逃走したときに警察に通報できないよう、基本的にスマホは没収しているでしょう? 没収したあの女のスマホを見たら怪しげなアプリがあったので、もしやと思って先輩のスマホも見てみたら見事に同じアプリが入っていたわけですよ。……多方、あの女のスマホで現在位置が特定できるようになってるんじゃないですか? 趣味が悪いな」
そう言って佳奈の遺体を見る宍戸の目は、まるで虫か何かを見るような目だ。
これに気付かなかったのは流石に逢田が悪い。スマホのパスワードなんてとっくに彼女にはバレていたのだろう。これを機に、整理整頓しようと心に誓った。
「それで、次はこれです。これに関しては気付かなかった俺も迂闊でした。すみません」
そう言われて差し出されたのは、逢田が使っているモバイルバッテリーだ。社員寮にいたときから使っているもので、鞄の中に携帯していたから、会社をやめて逃げてきた時も持ち出すことができた。
「横の接着されている部分を無理やり開いた跡があるのがわかりますか? これ、中に盗聴器仕込まれてますね」
「盗聴器? え、待ってよ、これ普通に電気屋で買ったやつなんだけど」
手渡されたモバイルバッテリーをよく見ると、確かに接着されている部分をこじ開けたような傷がある。マイナスドライバーでも使って無理やりこじ開けたのだろうか。
「隙を見てこじ開けて、盗聴器を仕込んだんでしょうね。一応付き合ってたんですから工作する隙くらいはまああるでしょうし」
「GPSと……盗聴器……」
「全て筒抜けですね。流石に理解しているかとは思いますが、先輩。GPSはともかく盗聴器の音声データが外部に漏れでもしたらまずいのはわかりますね?」
「は、はい」
宍戸がかなり怒っている。確かにそうだ。逢田のプライベートが外に筒抜けになるくらいならまだしも、宍戸の自殺代行業に関わる会話が外に漏れていたらまずいどころの話ではすまない。どう謝ったらいいかわからなくて逢田がしょげていると、いきなり宍戸が大きなため息をついて、その場に座り込んだ。
「まあ、今のところ外部に情報が漏れているような気配はありませんから。あの女の目的は、逢田先輩を殺すことだけだったんでしょうね。……相手が反撃して来たとはいえ、こういう形で依頼を遂行できなくなるときがくるとは思ってなかったですよ、本当に。……あんたと関わると、俺はいつも最適解を選び間違える」
独り言のように呟かれたその言葉にどう返事をしていいかわからなくて、逢田はコンクリートに床に腰を下ろした。
「あのさあ宍戸、人を殺すのって、めちゃくちゃ簡単なんだね」
それを聞いた宍戸は、今更ですねと肩を竦めた。
「簡単ですよ。これがあれば赤ん坊だって人殺しになれる」
宍戸は、今さっき実際に力を奮ったばかりの銃を照明の光に翳してみせた。黒くてシンプルな鉄の塊は、人を傷付けるために作られている。
「宍戸。どうしてあのとき僕のことを殺さなかったの?」
それは、逢田がずっと気になっていたことだった。宍戸引彦は、昔馴染みだからといってわざわざ高い給料を払ってまで庇ってやるような優しい男じゃない。しかも逢田は別に有能でもないので、逢田を秘書にしているうちは宍戸は損ばかりしていることになる。
しかも、今、逢田が自ら命を手放しそうになって宍戸は怒ったのだ。あれはまさしく怒り以外のなにものでもないだろう。命を手放そうとする姿を叱るなんて、本人の死への望みを尊重すると言った男にふさわしい行動ではない。
宍戸はしばらく眉を精一杯しかめて不貞腐れたような顔をしていたが、やがて観念するように口を開いた。
「あんたが、俺に勝ったからですよ。逢田先輩」
「……オセロで?」
「オセロで。そんなことかって思うでしょう」
「……思う」
逢田がそう言うと、宍戸は困ったように眉を下げた。彼がこういう顔をするのは珍しい。
「でしょう。でも、俺にとってはおおごとなんですよ。……あのとき、俺はあんたを負かす気でした。卒業式当日に観衆が見守る中でボコボコに負かされる先輩が見たかったので」
「うん、知ってたよ。絶対泣かすって顔してた」
「でもあんたはボコボコにならなかったじゃないですか。というかそうされたのは俺なんですよ。そもそも俺が先輩を殺せると思ってるのなら、それはあんたの大いなる欠陥です」
そこまでつらつらと語って、宍戸は急に大きなため息をついてうなだれる。宍戸がそんな風にうなだれたりすると思わなかったので逢田は少し驚いた。
宍戸はうなだれたまま、小さく消え入りそうな声で呟いた。
「……あなたが、俺の予想を越えたから。だから、俺はあんたに選択の猶予を与えた。こんなの初めてなんですよ。責任取ってくださいよ、ほんと……」
宍戸は顔を上げると、照れ隠しをするようにため息を着く。逢田にとってあのオセロは、あってもなくても人生が変わるようなものじゃなかった。けれど、宍戸には? 宍戸には、それはずっと練ってきた理想の生と死のプランさえ揺るがすようなものだったのかもしれない。
「重いやつに愛される適性でもあるんじゃないですか、先輩。次に変な女ひっかけてきたら相手諸共殺しますからね」
「え、怖いよ。大丈夫だって、今まで一人もそんな人ひっかけたことないし」
「……あー……そういうところですね」
そう言って苦そうな顔をする宍戸の髪が珍しく少し乱れていたので、先輩面をするつもりで思い切りぐちゃぐちゃにかき混ぜてやった。たぶん怒られるだろう。
より良い生とはなんだろう。より良い死とはなんだろう。逢田には未だにわからない。
でも、逢田は、すぐにでも死ねるように準備をして生の終わりをただ待っているこの後輩に、より良い生を見せてやりたかった。あの日組み込んでやった華やかな青春の記憶だけじゃもう足りない。
だから、まずは明日の朝食を、トーストとコーヒー以外にするところから頼んでみようと思う。それはエゴかもしれないが、それ以外の名前を付けてもみてもきっと、彼は咎めない。
非黄金数 @masudo_yuu_kiji
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます