第36話保健室

「あっちゃ〜、鼻血でちゃってるね。ちょっと下見て止まってて」


 不覚だ。まさかボールが顔面に直撃してあろうことか鼻血を出してしまうとは。当たってしまったことへの情けなさよりもこんなありがちな展開に陥ってしまっているこの現状が悔しい。何処まで普通なんだ俺は。

 

「はい、ティッシュ。…少し大人しくしててね。私はちょっと野暮用があって離れるから」


 鼻にティッシュを詰めたところで俺は背もたれにより掛かる。女に夢中になっていたからボールが避けられなくて鼻血を出した、なんて字面にしたらなんと滑稽なものなのだろうか。これでは俺と志文どっちが愚かなのか分からない。全くの不覚だ。

 一人になった保健室は静かだ。本当ならこのまま体育館に戻っても良いのだが、こんな様で戻る気にもならない。俺はぼーっと空間を眺めていた。

 タッタッタッ、と小刻みな音が聞こえてきた。その音は次第にこちらに近づいてきて、扉の前で止まる。


「失礼しまーす…零くん、大丈夫?」


 保健室に入ってきたのは佳織だった。少し息を切らした様子の彼女は汗ばんでいた。


「鼻血が出ただけだよ。別に大したことじゃない」


「良かった…みんな心配してたよ?すごい音してたし…」


 佳織は俺の隣にあった椅子に座る。鼻血が出ただけだと言うのに心配性な奴だ。他人に対してそういった感情を向けられるところも彼女が好かれる理由でもあるのだろう。


「零くん、ちょっと我慢してて」


「え、なっ、佳織、何を…」 


 佳織の手が俺の両頬に伸びてきた。優しく包み込むように俺の頬にふれると、次は彼女の顔が迫ってくる。

 佳織は俺の顔をまじまじと見つめ、額や頬をペタペタと触り始めた。細い指が俺の顔を這い回る感覚はなんだかむず痒かった。


「…か、佳織?その、くすぐったいんだが…」


「あっ、ご、ごめん!他に怪我してないかなって…」


 佳織は俺の指摘で自らが恥ずかしい行為をしていたと気付いたのか、赤らめながら顔を離した。

 二人の間に微妙な空気が漂い始める。こういう時に下手な会話をするとさらにまずいことになると俺は知っている。だから俺は佳織が動くのを待つことにした。


「…あ、あの、さ。球技大会の練習は…どう?」


「どうって?」


「うまくいってるかなって。ドッジボール、人気競技じゃん?」


「まぁ、上々かな。他のクラスがどうなのか分からないから正確には言えないけど、勝てる確率は高いと思う」


「そっか、零くんがいるなら勝てるよ」


 俺は佳織の言葉に首を傾げた。俺がいることで勝ちに近づくことができるのだろうか?もしそんな可能性があるのだとしたらきっと俺の悩みは一つ消えることになる。

 佳織は俺の様子を見てなにか察したのか、俺の疑問を拭い去るかのように軽く微笑んでみせた。

 

「零くんはもっと自信を持って良いんだよ。君は普通の人が持っていない力を持ってる」


「そんなのがあったら俺は苦労してない。お前の過大評価だ」


「そんなことは無いと思うけどな。零くんは自分を見失ってるんだ。零くんが見てる自分は本当の自分じゃない。零くん自身が作り出した自分なんだよ」


「俺が作り出した…自分?」


「そう。零くんが思う零くんはあくまで零くんが作り出したもの。自分を自分で評価したそのものが氷織零として形成されたものだよ」


 その瞬間、俺は紘会長の言葉を思い出した。あの時の会長は言っていた。自分の評価は自分だけで決めてはいけない、と。


「君はきっといつか本当の自分に気づく。その時はきっと、君が一歩進んだ時だよ。…その時には私も隣にいられたらいいな、なんて」


「…そうか。いつになるんだろうな。俺がそれに気づくのは」


「きっとそう遠くない未来だよ。零くんの周りには頼もしい人がたくさんいるからさ」


 「そうだといいんだがな」と残して俺は視線を床に落とす。少しだけ、懐かしの木目調の床を思い出しながら。


「だから大丈夫。まずは球技大会、絶対勝つよ!私も頑張るから、零くんにもかっこいいところ見せてほしいな」


「お、おう。極力、頑張るよ」


 互いに顔を赤くしながら俺達は笑いあった。


「…」

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