第27話忘れてた

「おかえりなさい零くん」


 俺が扉を開けてただいまというよりも先に聞こえてきたのは瑠璃さんの声だった。なんの偶然か俺の帰って来るタイミングが分かっていたらしい。この人は本当に底しれないな。


「おかえりおにい!むぎゅ〜」


 瑠璃さんの後ろから出てきた玲奈が俺に飛びついてくる。俺はそれを受け止めると玲奈の頭をナデナデした。


「ただいま玲奈。今日も瑠璃さんに遊んでもらってたのか?」


「うん。瑠璃ねぇとアニメ見てた!」


 玲奈の無垢な笑顔。俺以外といる時に見たのは久しぶりだ。玲奈は最初こそバリアを張っているが、一度打ち解ければ懐くまでは早い。いい友人が出来て兄としては喜ばしい限りである。


「零くん、私の頭も空いてるわよ」


「やると思いますか?荷物下ろしてくるんでちょっと待っててください」


 不服そうな瑠璃さんを尻目に俺は自室へと向かった。


▽▼


「…さて」


 零の部屋に一人の人間が入り込んだ。言うまでもなく瑠璃である。零がリビングで玲奈に構っている隙を見て部屋へと忍び込んだのだ。ただ、このタイミングで忍び込んだのには意味があった。

 瑠璃は脇目も振らずにクローゼットへと向かう。一切の音を立てずに扉を開くと、ハガーにかけられている服の一つを手に取った。学園から指定されているブレザーである。

 瑠璃はブレザーにゆっくりと顔を近づける。そして瞼を落とし、神経を嗅覚に集中した。


「すんすん…この匂い、会長…?」


 瑠璃はブレザーについた匂いから瞬時に一緒にいた人物を判断した。

 驚くべきことに彼女は衣服についた匂いで誰と共に行動していたかが判別できる。

 香水の匂いに紛れていようと、消臭剤でごまかされていようと、瑠璃の嗅覚を欺くことはできない。なぜなら、彼女は3種類まで匂いを嗅ぎ分けることができるのだ。


(妙に帰りが遅いと思ったら会長と出かけていたのね。まったく隅に置けない人ね…少し私の匂いでも付けておくべきかしら?虫除けはしておいて損は無いしね。…ん?)


 自分の匂いを擦り付けようと服を抱きしめたのもつかの間、瑠璃の嗅覚は怪しげな匂いを察知した。零のものではなく、紘のものでもない。色濃くついた第三者の匂い。

 瑠璃は嗅覚を研ぎ澄ませ、匂いの出処が右ポケットであることを突き止めた。躊躇うことなく手を突っ込むと、ズルズルとその中身を引き抜いた。


「…へぇ」


 忌々しいほどの存在感を放つ”それ”を見て瑠璃はその瞳から光を消し去った。


▽▼


「おにい見て見て!これ瑠璃ねぇが書いてくれたの」


「おー、すごい…あ?」


 瑠璃さんが書いた似顔絵に関心していると、俺の背中にぞわりとした感覚が走った。とてつもなく感じるごまかしようのない嫌な感。今まで体験したことのないような体の芯から震え上がる感じに俺は身を震え上がらせた。

 俺はすぐさま後ろを振り返った。視線の先はリビングと廊下を隔てる扉。閉じていたはずの扉が開いている。そしてそこには瑠璃さんがいた。

 今まで見たことのない表情をしていた。殺気に満ちていて、それでいてどこか悲しそうな顔。俺に向けてこなかった顔だ。佳織が時折見せるそれとは似ていて非なるもの。

 

「…零くん」


 あまりの気配に俺の手足は固まってしまっていた。動かそうにも石のように重く、その場に張り付いてしまったように動かない。圧倒的な差というのはこういうものなのだと俺はこの時身を持って体験した。

 辛うじて動かした口から俺は言葉を絞り出す。


「瑠璃さん…?」


「これは、なんなの」


 瑠璃さんが突き出した右手に握られていたものを見て俺は目を見開いた。そしてひどく後悔し、叱責した。失念していた自分に。ポケットというわかりやすい場所にッ隠したままにしていた自分に。


(やっちまった…!よりによって今、このタイミングで…!)


「…私優しいの。だから聞いているのよ零くん。これはなんなの」


「…ソックスです」


「誰の」


「…佳織のです」


 殺気が一段と増したのが分かった。空気を介して肌にビリビリと伝わってくる。


「る、瑠璃ねぇ…?」


「ごめんなさい玲奈ちゃん。ちょっとだけ我慢しててくれる?」


 瑠璃さんは玲奈をソファに座らせると俺に向き直った。そして再び俺に切れ長の殺意に満ちた瞳を向けてくる。


「…どこで手に入れたのかしら?まさかロッカーから盗んだ、とか?」


「渡されたんです。…その」


「なんでかは言えないってことかしら?…ふざけないで」


 重くのしかかるような圧に俺は胃の中がひっくり返るような思いだった。尻に敷かれるってこういうことなんだろうか。

 正直、お門違いな怒りだとは思う。だが、彼女が本気になっている以上、俺が下手に強気に出れば間違いなく逆鱗をグーパンチすることになる。彼女の殺気が収まるまでは我慢するしかない。


「浮気よ。これは立派な浮気よ!他の女のソックスを持ってくるなんて…欲しいなら言いなさいよ!!!」


 瑠璃さんは声を荒げた。その声には殺気よりも疑問と悔しさが多く滲み出ていた。


「言えるわけないっすよ。そんな…てか、俺は別に欲しいって言ったわけじゃなくて…」


「何にせよ浮気であることに間違いはないわ。私という存在がありながらこんなもの…私だったらソックスでもパンツでもいくらでもあげるのに…!」


「それは風紀的にどうなんですか…」


「学園外で風紀なんて気にしても意味ないのよ!なんなら全裸になってやるわよ!」


 変な方向にエンジンがかかってきた。どうやら瑠璃さんの殺意は収まり、俺への欲望を先取りされたことへの悔しさのほうが大きくなってきたらしい。つくづく分からないなこの人は。


「落ち着いてください瑠璃さん。玲奈がドン引きしてます」


「これが落ち着いていられるわけないでしょう!未来の旦那が取られそうなのよ!?」


「まだ貴方のものじゃないでしょうが。いいから落ち着いてください…」


「…二つ、条件をつけるわ」


 瑠璃さんは一息ついて俺に二つの指を突きつけてくる。一応は平生を取り戻してくれたようだ。とりあえずは一安心してもいいだろう。


「一つは今夜実行してもらうから。覚悟しなさい」


「実行不可なものはやめてくださいよ…」


「…一つ、今夜は私と一緒に寝なさい」


 いきなりの無理難題に俺は顔を引きつらせた。

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