第15話あーん

「…なんの冗談でしょうか」


 思考回路が停止した証拠に俺は思わず敬語を使ってしまった。佳織は一体何がおかしいのかと小首を傾げた様子。おかしいに決まっているだろう。


「冗談じゃないよ?あーんだよあーん。ほら、口開けて」


 今佳織が俺にしようとしていることは言わずと知れたカップルがよくやる行為(俺とあの女はあんまりやらなかった)であるあーんだ。本来ならカップルが行うもの。カップルでもない俺と佳織がやるのは色々とリスクが伴う。避けるべきだ。

 だが、佳織は俺を逃がしてはくれないようだった。俺の瞳をじっと見つめて徐々に間合いを詰めてくる。迫りくるパンケーキは俺の思考を急かした。


 いや待て。ここは落ち着いて丁寧に断れば周りから見ても不自然には思われない。落ち着いて冷静に。

 …でも待てよ、このメニューは元々カップル限定のメニュー。ならばあーんするのは自然とも捉えられる。ここは素直に受け入れるのが自然か…?


 混濁していく俺の思考はなかなか結論を弾き出してはくれない。迫るタイムリミットに俺の思考はさらに混濁していく。あれよあれよといううちにパンケーキはすぐ口元に迫っていた。最終的に俺は本能に身を任せることにした。


「あ、あーん…」


 ぱくり、と一口かぶりつく。先程まで食べていたものとはなんら味の変化は無い。しかし、シチュエーションが変わるだけで俺の味覚はこのパンケーキをさらに一つ上の美味しさへと導いていた。

 初体験でも無いというのにこの心臓の高鳴りはなんなのだろうか。相手が異性となるとどうしても意識してしまう自分がいる。


「きゃ〜!あのカップルラブラブじゃん!いいもの見れたわ〜!」


「ねぇねぇ、ウチらもあれやろーよ!」


 …とてつもない視線を感じる。俺が普段浴びない量の視線だ。それだけに俺の動きは関節が錆びついたロボットのようになってしまっていた。


「おいしい?」


「…うん」


「ふふ、零くん照れすぎじゃない?もしかして初めて?」


「いや、初めてでは無いんだが…」


「…初めてじゃないの?」


 数分ぶりの感覚だった。手足が痺れて動かなくなる感覚。光を失い、濁った佳織の瞳の色は血の色に似ていた。


「へー、そうなんだ。…私が奪いたかったのにな」


「な、なんだよそれ…別にいいだろ。初めてか、初めてじゃないかなんて…」


「良くないよ。初めてはいつまでもその人の中に記憶されるんだ。無意識のうちにね」


 俺の頭にフォークを突き立てた佳織は諭すように語る。残念そうでありながら、細めた目つきから別の感情の起伏が見て取れた。


「…ま、いいや。無くなっちゃったものは仕方ない。食べ終わったし、そろそろ行こ」


 佳織はさらに残ったパンケーキを一口で平らげた。いつもの様子に戻ると、すぐさま席を立つ。俺は残ったコーヒーをぐっと飲み干して後を追った。


「…あれは」


 俺を捉える復讐に燃える瞳に気づかずに。


▽▼


「今日は付き合ってくれてありがと。私用事あるから、じゃあね」


 会計を終えた零と佳織は店を出て別れた。それぞれ反対の方向へと歩いていく。

 零はまっすぐに帰路に着く。帰りを待つ玲奈のためだ。基本的に彼女は零がいなければ生活がままならない。一日いないだけで彼女の生活はいとも容易く崩れる。世話のかかる妹であるが、零はそこも可愛らしいところだと考えていた。


 そんな零の後方に、彼の後を追う影が一つ。零が一人になる瞬間を虎視眈々と狙っていた。

 彼の名は本多優。学園のプリンスの座から墜落した悲しき男だ。凛々子の例の動画が流出して以来、彼の信用は地の底に落ちた。彼を慕っていた後輩も、惚れ込んでいたファンクラブも今や解散。優は居場所を失った。

 学園で居場所を失いお先真っ暗になっていた矢先、優の視界に捉えたのは零の姿だった。

 優は知っていた。あの動画は凛々子が零と接触した時に撮られたものであるということを。それ故に、自分がこの状況に陥った原因は零にあると考えていた。


 誰でも復讐したい相手が目の前にいたらどんな状況でも襲いにかかるだろう。優の手元に握られているのはカッター。殺傷能力は低いものの、傷を与えるには十分過ぎるものだ。刺しどころによっては致命傷にもなりうる。

 震える刃先は彼の背中を狙う。刺せればどこでもいい。零に自分を陥れた復讐を、と。


(お前が…お前が僕をこんな目に遭わせてるんだ。お前なんて…お前なんて…!)


 近道をするために狭い路地に入った零に優が迫る。人の目が無い事を確認した優は意を決して踏み出した。


「お前なんかッ…!」


 飛び出した刹那だった。優の横っ腹に衝撃が走る。突撃は阻止され、優は声を上げる暇もなく地をのたうち回る。衝撃で肺から出た空気を取り戻すようにぜぇぜぇと呼吸を繰り返す間に優は自分の手にカッターが握られていないことを確認した。そして次の瞬間、彼の体に再び衝撃が走る。それは人一人分、それにしては軽い体重がのしかかった反動からくるものだった。


「はい、残念」


 紅色の瞳は愚者を逃さなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る