9

 ◇ ◇ ◇




 公園から月和高校までは走れば十分もかからない。俺は今一度自分を奮い立たせて走った。現在の時刻は十八時を少し回ったところ。雨はだいぶ勢いを増しつつある。


 道中、部活終わりか数人の月和高生が傘を持たずに走る俺を好奇な目で見てきたが……まあ、その視線はありがたくいただくさ。


 ちょうど部活組の下校時と重なり月和高校の昇降口は開いていた。俺は屋上までの階段をひたすらに駆け上がった。途中、姫乃さんは久良さんに連絡をつけてくれたが、久良さんの到着にはまだ時間が掛かるとのこと。当然、久良さんの到着を待てる暇はない。


 階段を上がり終えて屋上の扉に手を掛けると、扉には鍵がされておらず重い手応えに開ければ……、




『紗!』




 屋上には紗がいた。




 紗は金網フェンスの外側の、へりの上に立っていた。


 扉が開く音に気付いた紗は一瞬こそ驚きの表情をするも、あとは柔和に微笑んで俺を見た。


「誰……ですか?」


 初めて聞いた紗の声はどこまでも透き通るようで、とても冷たかった。


 考えてみれば俺が紗を一方的に知っているだけで本来俺と紗はこれが初対面。だからいきなりに誰と言われればこちらも尻込みしてしまうのが実である。


 近づきながら言う。

「あの、俺は一年Aクラスのしいま……」


 途端、紗の目の色が変わった。

「しいま……ああ、あなたがそうでしたか」


 俺を、知っているのか?


 どこか威圧的に言う。

「で、何のようですか? 私は今から落ちるんですよ」


『やめて、紗!』


 見れば紗がいるフェンスのところだけがポッカリと大きな穴を開けている。そしてそのすぐそばには円状に切り外されたフェンスとペンチが転がっていた。言わずもがな、犯人は紗だ。


 今の俺と紗の距離は十メートルちょっと。あと数歩進めばぎりぎり姫乃さんが紗に届く距離だ。つまり俺さえ間合いに入れば姫乃さんが紗をこちら側に引っ張ることだって十分に可能。とりあえず今は紗の足を屋上の縁からこちら側に落とせば、あとはどうにでもなる。最悪取り押さえる格好になるが、女子に力負けするほど俺も柔じゃない。それに時間さえ経てば久良さんも来る。今すべきことは……。


 俺は姫乃さんに目配せを送り、踏み込んだ。


「ここから落ちたら絶対に助からないだろ。死ぬから止め……」


「来ないでっ!」

 怒号にも似た声で叫ばれた。




「それ以上来たら、私落ちますから……」




 おお。なかなかに迫力のある脅しじゃないか。

 だが今のやりとりで俺と紗との距離は確実に十メートル以内にまで詰めた。これであとは姫乃さんが紗の腕を引けば……。




『雉間、行けないの……』




 え……。


 姫乃さんは震えていた。


『雉間のしようとしていることはわかるの。でも、今のを聞いたら……私にはできないの。もし、見えもしない私に触れられて紗が驚いて落ちたら……そう考えると、私には無理なの』


「くっ」


 確かに姫乃さんの言うことは一理ある。多少神経質な気も否めないが、万が一を考えればないがしろにはできない。


『紗! 危ないの、止めて!』


 だがこのままではまずい。どうにかしてこの状況を打破しなくては。

 雨の中、慎重に言う。


「まあ何があったかは知らないが、別に死ぬことないだろ」

『そうなの紗、死んじゃ……』




「うるさいっ! 全部あなたがいけないんですよ! あなたがっ!」




 言葉は姫乃さんを制したが紗は俺に言っていた。


 だが、俺にはまったくもってわけがわからない。


 茫然ぼうぜんと立ち尽くす俺を前に、紗は泣き出した。




「雉間……あなたのことは色々と噂で聞いていますよ。探偵局のことも、事故のことも、全部、ぜんぶっ! ホントに、あなたはなんなんですか……。探偵局は、あなたが作った探偵局は……ホントは私のお姉ちゃんがやりたかったことなのにっ!」




『紗……』


「それをなんであなたがするの! どうしてお姉ちゃんがやりたかったことを奪うの! お姉ちゃんはもう死んだのに……なのに、なんであなたは生きてるのっ!」


「……」


『違うの紗、雉間はね』


「もうなんなんですか! 今日私の家に居たのもあなたでしょ! ひとの家に来たり、友達を使って買い物に連れ出したり、もうやめてよ! それも全部当て付けなんですか。死んだお姉ちゃんへの!」


「……」


「ねえ、あなたは知っていたんでしょ? お姉ちゃんのことも。事故のことも。それに、お姉ちゃんが作りたかった探偵局のことも、全部! ねえ、どうなのっ!」


 詰問が飛んでくる。


 紗は、自殺する原因は俺にあると言う。俺が探偵局を作ったことで、死んだ姫乃さんの代わりを俺が成している。いなくなった姫乃さんの存在が俺で補われている。そのことがせないのだろう。




 同じ場所で事故に遭ったのに、姫乃さんが死んで俺が生きていることも……。




「どうなんですか! ねえ、早く答えてぇっ!」




 俺は……。




「俺は知っていた! 姫乃さんも、姫乃さんが作りたかった探偵局のことも!」


 一瞬、「姫乃さん」という言葉に紗は狼狽うろたえた。


「じゃあ、どうして……」


「前に、俺は姫乃さんに言われたんだ。探偵局を作るまでは死んでも死にきれないって。だから俺は探偵局を作った。だって俺は、探偵の姫乃さんの助手だから!」


「うるさいっ! うるさいうるさいうるさいっ! 助手に探偵……そんなの馬鹿げてるのっ! お姉ちゃんは、私が大好きなお姉ちゃんは自分の手で探偵局を作りたかったの!」


 紗は目元を乱暴に拭った。


「もういいですよ! どうせ私は今から死ぬんですから! そうすればずっと会いたかったお姉ちゃんにも会えるし、きっとお姉ちゃんだって早く私が死ぬのを待っているに決まっていますから!」


『違うのっ!』


 紗の言った言葉に、初めて姫乃さんが声を張り上げた。


『紗、死ぬことは本当にすごく悲しいことなんだよ。誰とも話せないし、ずっと一人で、ずっとずっと一人ぼっちないんだよ。それに、私は死にたくなんてなかったの! もっと生きたかったの! もっと生きて、生きて生きて、もっと紗といたかった! もっと紗と一緒にいたかったの! 探偵局だって、本当は自分で作りたかったけどもういいの。私が作りたかった、困っている誰かの助けになる探偵局は今の雉間探偵局だから。それに私は紗に死んでまで会いたいなんて思ったこと一度もないんだよ。私が紗に思っているのは、紗には私が生きられなかった分もずっと生きて欲しいってことだけ。私は……、私は紗が死んでまで紗と会いたくないの! ねえ……、だからお願い……。紗、もうやめてよ……』


「…………」


 これだけ姫乃さんが言おうと、その言葉は紗には何も届かない。


 どうしてこうも伝わらない。どうしてこうもわかってくれない。姫乃さんは死んでも紗のことを想っているというのに。


 俺に見えている光景や聞こえる声が、紗にだったらどれほど良かったか。もしそうだったなら誰も傷付かずに済んだかもしれないのに……。


 そのことが俺にはひどく堪らなく、もどかしく感じた。


 だから、俺は……。




「姫乃さんは……」




 紗が俺を見る。

 俺は溢れ出て来るものを抑えられなかった。


「姫乃さんは紗に死んで欲しくなんかない! 紗には姫乃さんの分まで生きて、ずっと自分がいたことを忘れないで欲しいってそう思っているから!

 昨日、紗が姫乃さんに花を供えてくれた時、姫乃さんはすごく嬉しかったんだ。自分がいなくなった後も自分を忘れないでいてくれる人がいるのが。だからもしここで紗が死んだら姫乃さんは悲しむ。自分を想ってくれる人が死ぬのは姫乃さんが嫌なことだから!」


「お姉ちゃんが、嫌なこと……」


 動揺だろうか、紗はそれだけを呟いた。

 俺は近づき言葉を重ねる。


「それに姫乃さんは生きたかったんだ。死にたくもなかった。ずっと生きたかったし、ずっとずっと紗のそばにいたかった。紗と一緒に生きていたかった! 何より姫乃さんは、紗には自分の分まで生きて欲しいってそう思ってる。だから紗は、そんな姫乃さんの想いを無駄にしないでくれっ!」


 その時、俺は初めて自分の声が自分でも驚くほど大きいのに気付いた。


 いつの間にか屋上に落ちる雨粒の音は穏やかなものとなっていた。


 沈黙が降りた屋上では静かに紗が一人咽び泣いていた。


 それを見て俺はゆっくりと理解する。




 紗が思い留まってくれたことを。




 溢れる涙を拭い、言う。


「ごめんなさい。あの、私……」




 その時――。




「きゃっ……!」




 縁の上に立つ紗の足が滑った。

 

 


 途端に足は縁から外れ、紗はこちらを向いて真後ろに倒れていく。


『雉間!』


 考えている暇なんてなかった。

 俺の体は言われるよりも先に動いていた。


 全力で走り、距離を詰める。

 手を伸ばし、飛び付くように目の前の紗の手を……掴んだ。


 そして掴むや否や今度はその手を思いっ切りに引っ張り、俺は真後ろへと投げ返した。


 決断が早かったのが良かったのだろう。落下前の紗の身体は強い重力を帯びるよりも先に屋上へと戻った。




 




『しいま……』




 俺にはこうなることがわかっていた。

 俺が走らなければ初めから紗には手が届かない。

 でもこの距離を走れば止まれない。

 そんなことはわかっていたけど、俺には立ち尽くすことができなかった。


「雉間さん!」


 落ちる間際、振り向き見た光景は、開かれた屋上の扉から叫ぶ久良さんと、驚愕の表情を見せる事務員や教師といった大人たち。


 まあ、その表情も無理ないだろう。

 落ちゆくのだから。

 俺は……。

 

 落ちてる最中さなか、姫乃さんの声が聞こえた気がした。




『なんで雉間、人間嫌いなのに……』




 まあ、幽霊嫌いとは言ってないからな。

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