8

 ◇ ◇ ◇




 小雨振る中、ただひたすらに俺は走った。事態は一刻を争う場面である。


 もし姫乃さんの言うよう紗が自殺を考えているなら、すぐにでも見つけ出す必要がある。それは単に俺が持つ正義感からでも、ましてや倫理基準などからでもない。単純にそうでもしなければ今後俺はずっと何かに苛まれると感じたからだ。ああ、だから紗よ。変な気だけは起こさないでくれ。


 姫乃さんの家を出てからもう十分は走り続けただろうか。横っ腹が痛みだした頃には学校近くの公園に来ていた。道路を挟んで斜向かいにはコンビニが見える。できることなら水でも買って小休止を、それがダメならベニヤ板でも頂戴したい気分だがそんな悠長なことなど言っていられない。


 膝に手を当て、しばし呼吸を整える。

 それにしてもこの雨じゃ俺は風邪を引きかねないぞ。


『あ、あかり、今学校近くの公園……うん、うん……ううん見てないの、全然……わかった』


 電話を切った後で姫乃さんが俺を見た。


『あかりは今家を出たところ。これから紗を探すって。それからあかりは紗のスマホに電話したみたいなんだけど、スマホの電源は切られてるって。ショッピングに行ったはずの紗がどうして帰って来たのかは知らないけど、紗は昔からそういうのに鋭い子だったから』


 つまり機転を利かされたのか。姫乃さんの妹らしいじゃないか。


『それと雉間、これを見て。これはさっき紗の部屋で撮ったんだけど……』


 そう言って姫乃さんは、スマホで撮った写真を見せてきた。


 画面にはさっぱりを通り越して物が何もない机が写されている。机の中の写真も見せられるが中は空。唯一ある物も学校の時間割表くらいだ。

 さすがの俺もこの写真を見て不審に思わないはずがない。

 俺が眉根を寄せると、


『私は紗が近いうちに自殺をすると思っていたけどそれは違ったの。それは今日だったの。机の上が綺麗なのはもう身辺整理を終わらせたから。それに捨てられていた英語と数学の教科書は紗のクラスでは明日使うものなの。だから紗は初めから明日の学校には行かないつもりだったの。だから……』


 その先は言わず泣きそうになる。


『なんで、私が今日も紗を見張っていれば……』


 悔やんでも悔やみ切れないだろうがそれは今することではない。

 俺は息も絶え絶えに言う。


「姫乃さん、どこか紗が行きそうなところに心当たりは」

『わからない。そんなところ知らないの』


「例えばどこかお店でも……」

『わからないの! ホントにっ!』


 声が荒らいだ。


『だって紗は、私が死んで一年も生きたんだよ! 趣味も変われば考えも変わるの。私がいない間に紗がどこに行ったとか私にはわからないのっ! わかるわけがないのっ!』


「……」


 言った後、姫乃さんはスカートの端を握り、俯いた。


『……ごめん』


 そんな謝られても、俺にはどうすることもできない。

 姫乃さんが紗の行きそうなところに心当たりがないなら、あとは闇雲に走り回るしか他はない。だがそれは何もしないよりはマシな策でそんなことをしていれば……。


 唇を噛む。


 そもそもなぜ紗が自殺をするのか、それすらも俺にはわからない。その理由だけでも知りたいが、そんなこと今となっては知る術がない。それに何より、現段階では情報が少な過ぎるのだ。

 せめてこの状況、あと一つくらい……、




「謎を解く鍵でもあれば……」




『鍵……』





 姫乃さんがはっとした。


『そうだよ雉間、鍵なの!』


 ほとんど無意識で言った俺に、思い出したかのように叫んできた。


『昨日、紗の尾行で商店街に行った時、紗に靴屋の店主が頭を下げたの。その時は私も不思議に見ていたけど紗はきっと前に、それも最近あの店に行ってたの!』


「行ってたって、紗があの靴屋に行ったからってそれが何に」


『わからないの雉間、鍵だよ鍵。紗はそこで合い鍵を作ったんだよ!』


「合い鍵? 紗が行ったのは靴屋なんじゃ」


『そう。だけど靴の修理も合い鍵作りも、どっちも手先の器用な人がやるから合い鍵作りを兼業にする靴屋さんは多いの。それでもし紗が合い鍵を作っていたなら……』


「!」


 俺は姫乃さんの手からスマホを奪い取った。

 一つだけ心当たりがある。


 紗の家では姫乃さんが亡くなってから仕事を辞めた母親が家にいる。今日、俺らが玄関に着いた時、姫乃さんのお母さんは誰とも知らず玄関を開けて驚いていた。あれは多分、あの時間、本来は紗が家に帰って来るはずだったから。そしてこれは俺の推論だが姫乃さんのお母さんがわざわざ玄関まで来て扉を開けたのは、紗は日頃鍵を持ち歩かないから。

 では、そんな紗がなぜ靴屋の店主と面識があったのか。


 俺はスマホの連絡帳から「如月京」を選び、番号を発信した。

 コール音が鳴る。


 昨日の放課後、俺は京からを聞いていた。


 スマホを耳に当て、じっと待つ。


 コール音が二回、三回と鳴る。


 頼む、出てくれ……。


 その願いが通じたのか、コールは五回もしないうちに切れた。


 切れるとわかるや口早に要件を言う。


「もしもし俺、雉間です。あの、昨日京が言った……」




『えーっ!? しいまぁー? だれそれしらないよ、そんなひとー』




 なっ!

 京はもうあの時の恩義を忘れたのか。この薄情者め!


 とは思えど、その声は京のものよりずっと幼い。おそらくは……。

 電話口から声が漏れてくる。


『あっ、空ちゃんダメでしょお姉ちゃんの電話に出ちゃ。誰から? え? 雉間くん?』


 やっぱりか。

 幸いにして電話の主はすぐ京に代わった。


『あの、もしもし雉間くん。京です』


「あー、よかったよ。出てくれて」


『はい、妹が大変失礼をしました』

「いや、それはいいんだ」


 俺は電話越しに再び要件を口にする。

「昨日京が言っていた、。その鍵がどこの鍵なのか教えて欲しいんだ」


『鍵? かぎ……』


 電話先では京の呟く声が聞こえてくる。

 まさか忘れたなんて言わないよな。

 不安半分で内心そう思っていると、やがて京は声を大きくさせた。


『あっ! 思い出しましたよ雉間くん。先週消えた、貸し出し用の鍵の件ですね! えっと、確かそのなくなった鍵は……』




 そっと、囁くように言われる。




『屋上の鍵でした』

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