第3話 Yの魔物のウインク
「どうかしましたか?」
女はベンチで脂汗を流す男に声を掛けた。身なりからサラリーマンだと判る男は、腹に手を当て、顔を上げた。
「いや…ちょっと胃の辺りが……い、てて……」
そう言い、項垂れた。
「お医者様に行かれた方が良くないですか?この辺りで言うと――」
辺りを見回し、女は思案した。男は手で制し、首を横に振った。
「時間も無いですし、いいんです。バッグの薬飲めばなんとか」
そう言いながら鞄の中を探り、瓶を取り出した。そこから二錠を手に出して口に放り込んだ。女は驚いた様子で言った。
「ダメですよ、多めのお水で飲まないと」
「腹に入れば同じですよ。むしろ水で薄まらないから効果的かも……いてて……」
女は呆れた様子で男に尋ねた。
「そのお薬飲んでも痛みが取れないんですか?」
「いや、少し収まるんですよ。っていうか、あなたはお医者さん?」
訊かれた白衣の女は指さした。その方を見ると、公園脇の薬局が見えた。看板には《横尾薬局》とある。女の胸の名札には《薬剤師・横尾》とある。
「薬局の方でしたか」
女は頷き、男の手から薬瓶を取った。
「食事の前後だと、どちらが痛みます?」
男は思い返し、答えた。
「どちらかというと空腹の時です」
「ならこれ、あまり効きませんよ」
「そうなんですか?」
女は思案した。
「お医者に行かれる事を勧めますけど」
「言いましたように時間が――」
「でしたらせめてお薬を別のタイプにしませんか?いえ、営業とかでなく」
慌てて付け足したのが面白く、男は苦笑した。
「薬剤師さんが仰るなら」
「私たちは診断は出来ませんが、売薬をおすすめは出来ます。試されたらどうかな――というお薬がありますから」
男は立ち上がった。幾分楽になった様子だが、腹部から手を離す事は出来ずにいた。
「加茂井と言います。今さらなんですが怪しいものではありません」
頭を下げた。女も笑いながら呼応して頭を下げた。
「横尾です。どうぞ、お店にご案内しますから」
案内された店内で薬品の説明を受け、おすすめだという薬を買った。
「さっきのお薬がまだ胃にありますから、お辛いでしょうけどもう少し――あと三時間くらい空けてから飲んでみてください」
言われて頷き、会計を済ませると加茂井と名乗った男は立ち去った。
「痛みが治まってくれると良いんだけど」
見送りながら横尾水面は呟いていた。
その翌日。普段通り昼を摂りに公園に出た水面は思わず微笑んでしまった。
「その後如何ですか?」
加茂井と名乗った昨日の男が同じベンチに腰を下ろしていたのだ。加茂井は立ち上がり、頭を深く下げた。
「おかげさまでとても良く効いてくれました!痛かったのが嘘みたいに」
「それは良かったですね」
「それであの……」
「はい?」
「お礼というわけでは――いや、お礼かな?あの、もしよろしければお昼をご馳走させて頂けたらなって」
水面は驚いた。周囲を見れば昼食に出た勤め人で公園は賑わっている。クスリと笑い、水面は言った。
「代金を頂いているのにお礼なんて頂けません」
加茂井は残念そうに顔を曇らせた。
「でも、私は今からお昼なんですけど、ご一緒なら出来ますよ」
加茂井は満面の笑みで頷き、二人は連れだって歩いた。
「え?ミルキーウェイの出店準備がお仕事なんですか?私、大好きでよく行くんです」
チャーシュー弁当を膝に置き、水面は驚いた顔を上げた。
「横尾さんは薬局の跡取りさんなんですね」
加茂井に水面は手を顔の前で振って見せた。
「跡取りというか、子供は私一人なのでなんだか流れでここまで来ました。それだけなんです。友達はほとんどが大手の製薬会社に就職して――」
言い淀んだので加茂井の方で話をつなげた。
「町のこうした薬局は大切です。本当に地域に寄り添っていますからね。私も救われましたし」
笑う加茂井に水面は微笑み返した。
「実際、思う事は多いんですよ。大規模なショッピングモールを建てまくってますけど、きっといつまでもこんなクルマ社会は続かない。少子高齢化がさらに進むのは明白で、そうなればまた住まいの近くにある商店が見直される時が来るんだろうなって」
「そんなこと言って良いんですか?」
「サラリーマンは仮の姿です。給料のためにね」
顔を見合わせて笑った。
「もうそろそろお店に戻らなきゃ」
「私の方も本社に戻らなくちゃです」
揃って立ち上がると、揃って言いかけた。
「あの」
「あの…」
加茂井は頭を掻き、上目遣いに言った。
「もしも、ですけど、もしも宜しければいつかもっとゆっくりとお話し出来ませんか?」
スマホを取りだした。水面は顔を赤らめ、小さく頷いて自分のスマホを出した。二人は友達登録をした。
「じゃあ、また」
そう言う加茂井に水面も返した。
「はい、また」
手を振り合って別れた。公園を出る時、水面は振り返った。もう加茂井の背中は見えない。だが笑みは消えない。早くまた話したいという思いが湧き上がって消えない。何故こんな気持ちになるのか自分でもよく分からなかった。それは急ぎ足で本社に向かう加茂井も同じだった。
それからというもの、加茂井と水面はLINEで言葉を交わし続けた。多忙に過ぎる加茂井だが、それを理解して水面は深夜であっても返信した。
会える日は多くはなかったが、それでも互いに無理をして会う時間を作った。仄かで甘やかな時が流れるなか、加茂井は奇妙な変化を感じていた。体調の回復だ。
――最近は胃痛もほとんど出ない。現場の進捗は厳しいが、何故だろう……。
水面も裏切りの痛手から立ち直りかけていた。痛みは痛みだが、どこか膜が張ったように遠く感じる。信じられる事の喜びが治癒に役立っているように感じた。
さすがに季節が暑さを忘れ、人の服装もコートが出番となった十一月。加茂井と水面は同棲を始めた。二人とも同棲の経験はあったが、その時と比べるべくもない幸福感に満たされていた。
朝起きれば愛する人が居る。激務に向かう愛する者に《頑張って!》と言葉を掛けて見送る。帰ったらなにが食べたいか考えながら自身も仕事に励む。そして夜、戻った愛する人に食事を並べると、こんなに作ってくれたの?と喜ぶ。口にするものどれも《美味しいよ!》と言葉を掛けられる。一日の終わりには腕に抱かれて見つめ合い、明日も笑顔でいようねと語り合う。愛は、貰うより与える方が幸福だと話し合い、うなずき合い、そして将来を夢描く。この相手が居れば、どんな苦難にも負けないと信じられる。
「あなたがいれば」
「きみがいたら」
二人は愛(I)の大切さを相手(You)から教えられ、唇を重ねた。
加茂井は思う。二股の道だって、水面と一緒に考え、選び、進むだけだ――と。そこに何の後悔があるものかと。
水面は思う。この人は裏切らない人だと信じられる――と。自分だけでヴィクトリーなんて得ようとしない人だと。
その翌年、二人は質素な式を挙げて歩み出した。延々と続く三叉路を、人生の真の勝利目指して。
Yに棲む魔物 狭霧 @i_am_nobody
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