第2話 I と V

「言っても良い?率直な感想」


 俯く横尾水面に立木逸美は、渋面で言った。


「無理なんじゃないかな?ミナモと久保田」

「そうなのかな…」

「だってさ、なに?LINEはこの一週間で二度往復しただけ?言いたくは無いけど、それって、少なすぎない?いくら久保田が激務のDQ薬品の開発っていってもよ?LINEくらい……」


 逸美は項垂れる水面を見て言葉を切った。泣いてはいないが水面の表情はこれ以上無いほどに沈んでいた。


「水面にはもっと相応しい奴がいるよ。必ずね。だから」


 その先は言わない。言われなくとも水面にもわかっている。大学四年間を共に学んだ親友なのだ。水面の彼・久保田博は二人共通の友人だったが、三年の時から水面は久保田と交際に入った。一時期は久保田のマンションで同棲も経験したが、卒業後に就職した仕事が不規則で激務という事もあり、生活は別々に戻した経緯があった。

 水面はと言えば両親が経営する薬局二店舗を手伝う日々で、それなりに多忙ではあった。だが、同棲を解消して、ここまで今彼と会う時間が減るとは想像もしていなかった。


「私は開発じゃないけど、製薬会社の開発の激務は想像出来るわ。多分久保田みたいなタイプは水面を幸せに出来ないと思うよ。だって水面ってしっかりしてそうでどこかメルヘンなとこあるし」

「なにそれ」


 精一杯明るく膨れて見せた。


「お姫様よ。守られたいし待ってるの。お姫様のためだけに時間を費やせる王子様の出現をね」


 親友に言われると、そんな気がしないでもない。言い返せずにまた俯いた。


「とにかく私から言えるのはそれだけ。決めるのは水面自身だよ。それじゃあ私これから同僚の子と飲みだから行くね」


 立ち上がり、水面の肩に手を置いた。


「元気出そう。他を見る事も大事だよ」


 じゃあねと手を振り、逸美は店を出た。水面は手の中のスマホを見つめた。水面からしなくては久保田から掛かっては来なくなった。かと言って話せば明るく、頻繁に《ごめん》と言ってくれる久保田だ。


「博は別れたいの?私にはわかんないよ」


 待ち受けの久保田は微笑んでいた。


 それから数日。久保田と言葉をやりとり出来ないまま水面は仕事に励んでいた。そんな或る夜、店を閉めたあとで従業員と共に居酒屋に来た水面は騒々しい店内の奥に意外な顔を見つけた。逸美だ。


――こんな店に?逸美は六本木とか、その辺が好きだったはずなのに…。


 声を掛けるか迷ったが、その水面の身体が凍り付いた。


――え……!


 袖壁で初めは気づかなかったが、逸美のさらに奥に男が居た。立ち働く店員が去ると、男の顔が見えた。


――ひ……ろし?


 笑顔の逸美を見つめているのは久保田博――水面の彼だ。グラスを手にした久保田と向かい合う逸美は、時折額が触れそうなほど顔を近づけ、笑い合っていた。


「なんで……」


 混乱して頭が回らない。水面は急いで席に戻った。一番奥に座り、顔を伏せて時間を過ごした。その間中、二人のことが頭の中で渦巻いた。

 同棲からは距離を置いたが、それは久保田の仕事のためだと納得していた。連絡が途切れがちになったのも、初めは彼が忙しいからだと理解しようと努めた。LINEをかわせば優しい言葉も返ってきた。それでもその状況に苦しみ、相談した親友には別れを諭された。その親友である逸美と久保田が、何故居酒屋で楽しげにいるのか。


――私とは会う時間も作らなかったのに……。


 いつしか水面の中に逸美と久保田への疑念が生まれていた。

 店は繁盛し、人は右往左往している。逸美は思いきってもう一度二人に接近を試みた。幸いな事に手洗いへの通路は観葉植物で完全に目隠しされている。そして二人は、その通路を挟んだ二人掛けのテーブル席に居た。

 人に隠れるようにして通路まで行くと、水面は耳に神経を集中した。かろうじて二人の声が聞こえていた。


「ハッキリしてあげなさいよ」

「それな」

「それなじゃなくって!可哀想じゃないの、水面。鈍感な子ほど思いっきり傷ついちゃうんだからね?あの子恋愛耐性無いしさ。それとなく距離置いても気づかないくらいなんだよ?その鈍感さは国宝級。大学四年の時の三人でした旅行覚えてるでしょ?」

「記念にってな」

「そう。あの夜私、部屋を抜け出して博のとこ行ったじゃない?寝る前にあの子、私に言ってたの。私たちってまるでYの字だねって」

「なんだそりゃ?」

「つまり、Yの字みたいに三人が繋がってて仲がいいよねって話よ。あの時点ではもう水面と付き合ってたんでしょ?」

「まあな」

「で、私にも手を出したと。悪い男だよねえ」

「俺の溢れる魅力にお前らが抗えなかったってだけの話だろ」

「よく言う!あの子、こんな悪い男に引っかかっちゃったんだよね。純粋なんだから。指でね、空中に字を書いてたのよ。何してるのって訊いたら、Yの字書いてるって。横尾のY。ずっとこうだと良いねって」

「うへえ……とんだメルヘンだな」

「私、内心で笑っちゃった。Yの字ってホラ、下に棒が伸びるでしょ?あれ一本取ったらヴィクトリーのVが残るわけでさ」


 二人は笑い合った。


「何にしても早く別れなさいよね。二股楽しんでないでさ。私もそろそろ本腰入れようかと思ってるし」

「本腰?」

「結婚に決まってるでしょ?うちは割と早婚の家系なの」

「勤めてるアミーナ製薬はどうすんだ?辞めるのか?」

「まあね。パパのドラッグストアチェーンで重役で雇って貰うから収入の心配はないし、夫はDQ製薬を将来的に背負って立つホープだし」

「抜け目ねえなあ」

「町薬局の娘を選ばない博と一緒」

「なるほど」


 乾いた笑い声に耳を塞ぎ、水面は席に戻ると友人たちにわびて急ぎ店を出た。

 握りしめた拳は震えていた。



「解雇?いや……部長、それは一体何の冗談で――」


「冗談?それはおまえの方だろう、久保田。おまえはアミーナ製薬の社員と交際しているそうだな?おまえたちを知っているという人物から内々に通報があったんだよ。仲よさげに《新薬の情報の話をしていた》ってな」

「そんな!嘘です!そんなことは」

「あれは我が社の社運をかけた薬だ。嘘だろうが噂だろうが一切の疑いがあってはならない。つまりキミは解雇だ。いや、労基でもどこでも訴えるのは勝手だが、交際が真実なのはもう調べて把握している。状況的に、キミは不利だと思うが?それともそんな話はしていなかった――という証明でも出来るのかね?録音でもしていたか?飲み屋でも、何ならベッドでも!」


 部長は机を叩き、椅子を回して背を向けた。


「今後だが、アミーナにおかしな動きがあるようならば即警察に訴える。その場合の最も疑わしい人物にキミの名が上がる事は覚悟しておくと良い。手続きは今日中に終わらせたまえ。社の如何なる情報も、キミのアクセス権は剥奪してあるから、パソコンに触れても大した収穫はないぞ。加えて、こういう話は業界ですぐに広まる。同業他社への再就職もおそらくは困難だろうな。よくわからんが」


 笑い、肩が一つ震えるのが見えた。あとはなにも言わず、部長は肩越しに《あっちへ行け》と手を振った。



「水面さん、倉庫の方においておきました」

「ありがとう!悪いけど少し代わってくれますか?」

「はい!ゆっくり休憩してください!お昼も取らないで動いてるんだもの、こっちが恐縮しちゃいますよ」


 従業員は笑ってそう言った。

 表は気分の良い昼下がりだ。店舗傍の公園でオープンキッチンのサンドイッチを買い、水面はベンチに腰を下ろした。目の前を行き過ぎる二人は大学生だろうか。仲良く手をつなぎ、笑い合っている。


「裏切っちゃダメよ。その手を放さないでね。人を裏切る自分になるのは、自分を裏切るのと同じ。裏切らない事が幸福への鍵なんだから」


 水面は木の枝を拾い、足下にYの字を書いた。上に乗るVを消して呟いた。


「一人だけ、Iが――自分が残った」


 笑顔はない。恋で勝利だのを得たかった覚えのない水面に、二人の笑いは理解出来ない。


「可哀想」


 ぽつりとつぶやき、サンドイッチを口に入れた。

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