Yに棲む魔物
狭霧
第1話 三叉路
「加茂井、大牟田建設はどうなってる?」
チームリーダーの熊田から訊かれて加茂井隆介の胃がチクリと痛んだ。
「資材と車両を置くスペースが少なすぎるのと、工事車両の出入り口が二カ所しかないのもあって予定を外しそうだって言ってます」
サブリーダー・加茂井隆介はモニターを睨んで答えた。
「本体工事が優先なのは判ってることだろ?そのなかでやりくりするのが当たり前じゃ無いか!なに考えてんだ?それでお前、どう応えたんだ?」
隆介は熊田を見た。
「それは――」
「まさか、そうですよねなんて言ってないだろうな?舐められたら際限ないんだぞ?条件はこっちが出し、締め切りもこっちが決める。そこが崩れれば店は予定日にオープン出来るはずが無い。判ってるんだろ?全部ぶち壊しになるんだよ。資材スペースなんぞクソほどあるだろ?目の前は千台も並ぶことの出来る駐車場なんだぞ。車両出入りだって他のどの建設屋もそれでやってんだよ!甘ったれさせるな!」
隆介は無言で聞いていた。
「オープンまであと三ヶ月。商品搬入はその二週前から始まる。店内どころか、外だって搬入車両の陣取り合戦だ。戦争なんだよ!それまでにフジクロさん専用地上店舗は完成させるんだ!敷地内地上店舗は全部で四店。それはお前の責任だ!俺は本体工事の進捗で頭が痛いんだからな!」
言うだけ言うと熊田は事務秘書を連れ立って出て行った。オフィスは静まりかえった。見回せば残っているのは隆介だけだ。総勢二十五人居る開店準備室は激務で、地方店を担当する者は受け持てば半年は帰らない。全メンバーが顔を合わせることなど奇跡に近い。リーダーとサブリーダが十数分間一緒に居たことでさえ奇遇の一言だ。
隆介は大型ショッピングモール《ミルキーウェイ》を展開する《リーズン》の本社出店準備室に勤めている。入社後に配属され、出店業務一筋に励んで八年が過ぎていた。今年で三十歳になる隆介はサブリーダーの地位にいるが、そこまでになる間、開店に漕ぎ着けたショッピングモールは全国で十カ所ある。
その期間中で東京本社にいたのは最初の一年と、今回の半年だけだ。次期店舗は北関東なので、本社が拠点になっている。中央区にある本社社屋は地上二十二階建ての威容を誇り、社員数は千八百名にも及ぶが、見知った顔など一つも無い。社長の顔すら思い出せない。そこには様々なセクションがある。サブリーダーと呼ばれる者は各セクション合計で六十三名いる。その全員がリーダーになろうと励むが、叶う率は五割無い。五割はめでたくリーダーに上がれても、残る半分は二派に分かれる。そのままサブでずっと行く者たちと、退職する者たちだ。隆介の会社では新人よりも、このサブリーダ経験者の離職率の方が高い。それだけ激務だと言える。
隆介は大牟田建設に出向き、胃が痛む中で可能な限り穏やかに《説明とお願い》をした。相手は腕を組んで仏頂面だったが、最終的に不承不承という感じで頷いた。
訪問先を出て本社に戻った。数名が戻っていたので打ち合わせをし、適宜指示を出した。メンバーは全員が分業で仕事を抱えている。余計な仕事はお断りとばかりに打ち合わせ中も下を向く。一人話していた隆介も最後には言葉を無くした。これで余計な仕事はすべてサブリーダーのものだ。
会議室を出た社員たちはさすがに退社し始めた。時計を見ると、午後十一時だった。
「俺も帰るか…」
誰も聞いてなどいない呟きだ。誰も気にとめない吐息を零し、バッグを抱えてオフィスを出た。クルマの数も昼間ほどでは無い。長時間残業はデフォ。それを人はブラック企業と呼ぶが、隆介にしてもそこがそうだと認識して入ったわけでは無い。はじめは夢を持っていたのだ。その夢が何だったか、いまの隆介は思い出せない。ただ朝九時に出社して夜十一時に帰ることを繰り返す。その間も本社社屋にいることはあまりない。現場と出入り業者を往復し、たまに戻る程度だ。都市の夜は星が無いなどと言うものがいる。そもそも星など見上げているサラリーマンはこの時間にいない。もしもいたらそれは余裕があるということだ。余裕があるならばまだ働ける。まさに戦士だ。戦場で死んでいくことを知る立ち止まらない戦士だ。隆介も立ち止まって空など見上げない。その日を戦い、疲れ果てた戦士でも家に戻れるだけまだ良い。中には《その日戻れない戦士》もいるのだから。
不意に隆介は腹部を押さえた。違和感は随分前からあったが、それが痛みに変わったのは最近のことだ。
「いて……」
攣るような痛みだ。触ると腹部全体に力が入っている。顔を歪ませ、腹を押さえた隆介が入ったのは行きつけのバーだ。空いていた。カウンターに腰を下ろしてまず水をもらい、持ち歩いている胃薬を飲んだ。
「薬?お酒なんて飲んで平気なの?」
カウンターの中でママが笑う。隆介は答えず、苦い粉薬を飲み干した。
カウンターで誰とも話さずに飲むのが好きだった。新入社員の頃はそれでも《あるあるな》馬鹿騒ぎもした。自分を待ち受ける《過酷》の正体も知らない頃だ。
「あの頃は楽しかったんだ」
誰も聞いていない呟きを零し、テーブルに零れた滴を指でいたずらした。思い出すのは隆介が大学三年の、そろそろ就活に入らねばと思っていた頃のことだ。大学には学ぶために入ったと考えていたが、実態は就活の準備期間に過ぎなかった。
同じ境遇の仲間たちと飲んでいると、将来の話になった。一人は「金持ちになる」と言い、一人は「世界を股にかける男になる」と言った。どちらも具体策は無い。夢だけあって方法を知らないのが若さの特権だ!と笑い合ったのも覚えている。そこで隆介は自分の将来を問われた。
「おまえはどうしたいんだ?」
成績は良かった。学校に残る道もあった。それでも答えを出せずにいると、仲の良かったグループ唯一の女が言った。
「加茂井君って仕切るのも上手いし、ビジネスパースンとしてバリバリやるのが似合ってそう」
たったその一言で、今の会社を選んだ隆介だった。一人カウンターで酒を呷る時、いつも思い出す風景だ。女の髪の美しさは覚えているが、奇妙なほど顔を思い出せない。それでも、顔以外の想い出は鮮明だ。なまめかしい風景もなにもかもが。
隆介はグラスにおかわりをもらった。何杯飲んでも、あの日の楽しかった酒にはならないと知りながら。
「道を――」
間違えたのかなと言いそうになる。だがいつも最後までは言えない。
人は選択の連続の中にいる。どの選択にせよ誰にせよ、間違わない者などいないのも理屈では判る。それでも、もしも――と思わずにはいられない。
――もしもあのとき、この道を選んでいなければ……。
ぼんやりとした風景が頭に浮かんだ。見えているもの、それは道だ。歩いてきた道の先が二手に分かれている。まるでYの字だ。女のささやきが聞こえる。仲間たちの囃し立てる声も聞こえる。世の中もあおり立てた。足は、右を選んだ。すると左の道がかすんで消えた。引き返す道も消えている。仕方なく歩き出すと、道はまたYの字に分かれ――。
隆介は痛みが増していく胃を押さえて酒を飲んだ。それを選択する自分の行く先をおぼろに想像しながら。
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