【10】おやすみ、僕の妖精
「〈妖精画〉、描けた……!」
ローザが描き上げたばかりの絵には、妖精が宿っていた。
長らく描けなかった〈妖精画〉が、ついに描けるようになったのだ。
「クロード先生、見て、見て! 〈妖精画〉描けるように、なりました!」
ローザがワアワアとはしゃぎながらクロードに報告すると、彼は微笑んで言う。
「絵を描いているときのローザ、ずっと笑顔だったよ。楽しかった?」
「はいっ!」
ローザは元気よく返事した。久しぶりの高揚は、楽しさの証明である。
「そう。絵を描くローザ、可愛かったな。僕、やっぱりローザが笑いながら絵を描くのが、一番好きだよ」
「そっ、そう、ですか……?」
「うん。困った顔も、可愛くて好きだけどね」
口にしながら、クロードはローザの顔へ手を伸ばす。
ローザの顔かたちを確かめるように、フニフニと優しく揉まれながら、ローザは内心悲鳴をあげる。
クロードが「ローザの顔が好き」と公言してから、彼は言葉にするだけではなく、何かとローザの顔を触るようになっていた。
丁重に労わるような手つきは、ローザを苦しめるつもりはないのだろうが、恥ずかしくてしかたがない。
一度、彼に顔を触るのは遠慮してほしいと懇願したけれど、「どうして?」「嫌なの?」と悲しそうな顔で問われたのだ。
そのひどく傷ついたような表情を前にして、羞恥心を理由に止めさせるのは躊躇われた。
以来、ローザはクロードの好きなようにさせている。
ラファエラも「ローザは可愛いね」と頬を撫でて、ローザもまんざらでもなかった。懐かしい想い出だ。
けれど、クロードが顔を触るのは、それとはもはや別物であると思う。
(せ、先生の顔が近い……。あっ、そ、そんなところ、触らないでっ……!?)
「可愛いよ、ローザ。僕の妖精」
金色の瞳を細め、囁く顔が迫る。
もう限界だった。
ローザは飛びかけた意識を必死に掴んで、カタカタと震えながら口にする。
「せせせっせせせ、先生っ、えっ、えっ、えの、絵の話がっ、したいん、ですけどっ」
「うん」
クロードはあっさりと手を離した。
それにホッとしたような、わずかな物惜しみを覚えながら、ローザは続けた。
「先生は、〈妖精國〉の知識が深いです。どうやって、学んだんですか?」
「本を読んだ。〈妖精國〉の逸話は、多くの書物で残されているからね」
なるほど確かに、彼の部屋は本でいっぱいだった。そのほとんどが、〈妖精國〉について記したそれなのだろう。
(いいなぁ……)
ローザは文字が読めない。最近少しずつ、勉強をし始めたところだけど、一冊の本を読めるようになるまで、どれほど時間がかかるだろう。
(あたしも〈妖精國〉のことたくさん知って、たくさん絵を描きたいなぁ……)
そんなローザの心情を読み取ったかのように、クロードが提案する。
「良かったら、本を読み聞かせてあげようか?」
「ふぇっ?」
「ローザは本がまだ読めないよね? だから、僕が本の中身を、読んであげるけど」
魅力的な提案である。
ローザに断る理由はなく、一も二もなく飛びついた。
後にしてそれは、浅慮な判断だったことに気づく。
しかし、その時のローザには、これから待ち受ける試練を知る由もなかったのである。
***
宿の部屋はクロードとローザ、二人分を別に取っていた。
しかし何故か、クロードとローザは同じベッドの上で、躰を横に向かいあっていた。
一人分の寝台は狭く、必然的に躰が寄ることになる。
「それじゃあ、今夜はナッシュ兄弟の話をするね。彼らは――」
当然、声も近い。内緒ばなしをするように、小声で、わずかに掠れた声色は彼を一段と大人びて見せる。
彼が身じろぐと、ベッドがギシリ、と音を立てて軋む。
混乱するローザの頭に、内容は殆ど頭に入らない。
どうしてこうなってしまったのだろう。
ローザは深い後悔とともに、思い返していた。
***
「ラファエラ・モッロも〈妖精國〉の話を聞かせてくれたんでしょ? どういう風に教えてくれたの?」
「えっと、眠れない夜に、おばあちゃんは一緒に寝てくれて。ベッドの上で、お話してくれました」
ローザは深く考えずに答えた。
口にし終わって、嫌な予感がする。
ふうん、と頷いて、クロードは軽い調子で言った。
「わかった。先人に倣って、そうしようか」
「えっ!?」
「ほら、おいで。ローザ」
ベッドに腰かけたクロードが、ローザを手招く。
まさか、まさか。ローザは顔を引き攣らせながら、訊ねた。
「先生? あたしたち、一緒に、寝るんですかぁ……?」
「うん」
頷くクロードは当然とばかりで、恥じらう様子はない。
「今っ、今晩から、ですか……?」
「うん」
急すぎる。ローザは口籠りながら、反抗を試みた。
「そのぉ、い、嫌かなぁ……とか?」
「何で?」
クロードはムッとした顔で問う。
クロードは間違いなく『箱入り息子』だ。
ローザよりはるかに男女の関係には相当疎いと見た。師トラヴィスとジョヴァンニの過保護な教育の賜物だろう。
だから、ローザの顔をペットのようにこねくり回し、好きだの可愛いだのと平然と口にするのだ。
一緒に寝ようと提案する彼に、よこしまな感情はないだろう。もちろん、ローザにだってない。断じてない。
ただ、ローザが諸々の説明をするのは恥ずかしいし、ローザがクロードを異性として意識していると知られるのも、今後、師弟関係に影響を及ぼすことになるだろう。
ローザは葛藤した。
どうにかして、せめて、先延ばしできないものか。
「ええと、その、先生は、寝る前に、着替えないん、ですか……?」
「着替えないけど」
そう言いつつも、クロードは自らの姿を見下ろした。
今日の彼はオークウッド侯と面会するため、特別にお洒落をしている。
派手なドレスシャツは寝るのに適していないと考えたのだろう。彼はおもむろにシャツのボタンをプチプチと外し始めた。
「せせせ、先生ぇ!? なんで、なんでぇ!?」
ローザは声を裏返しながら、バッと顔を背けた。
一瞬見えた、クロードの白い胸元は目に焼け付いて、離れない。不可抗力である。
「何でって。普段着に、着替えたほうがいいかと思って」
そうじゃない。普通は人前で、特に異性の前では着替えないのである。
サラサラとした衣擦れの音が、やけになまめかしい。
トラヴィスもジョヴァンニも甘やかしがすぎる。適度に常識を叩き込んで欲しかった。
ローザが恨めしく思っているうちに、どうやら着替えが終わったらしい。
「ローザも着替えるよね?」
いつものシャツとズボンに身を包んではいるが、いつもと違うような気がする。
変に意識をしてしまい、ローザはすぐに返事ができなかった。
挙動不審なローザに、クロードは何かに納得したように頷いて言う。
「ああ、着替え手伝ってあげようか? 今日のワンピースは、脱ぐのが大変そうだし」
「ひぃ! 大丈夫、ですっ! ひとりでできます!」
それだけ叫ぶと、バタバタと逃げ出すようにローザは部屋を出た。
ゆっくりと、いつも以上に時間をかけて着替えたのは、よそゆきの服を着ていただけが理由ではない。
いっそ知らんぷりして眠ってしまおうか……。そう考えていると、ドアを叩かれた。
「ねぇ。ローザ、まだかかりそう?」
どうやらせっかちな師匠がしびれを切らしたらしい。
(開けたくない、開けたくないよぉ……)
心はそう思ったが、開けないわけにはいかない。
そうして、彼に連行され、ベッドに横たわり、読み聞かせされる羽目になったのだった。
眠れない夜の、読み聞かせ。
けれど、今夜は眠れそうにないだろう。
囁く声は耳に入らず、ローザは内心頭を抱えていた。
***
話の途中で、どうやらローザは眠ってしまったらしい。
穏やかな寝息が聞こえて、クロードは口を閉じる。
話を聞きたいと強請りながら、眠ってしまうとは、幼いこどものようだ。
呆れながらも、しかたがないと思う。
ルイ・ハスケルとの顔合わせにひどく緊張していたようだし、絵を描いて、今日は一日疲れただろう。
それにずいぶんと夜も更けていて、本来ならもう寝ている時間である。
ローザの小柄な躰にクロードは腕を回し、そっと抱き寄せた。
(あったかくて、柔らかいな……)
相変わらず痩せてはいるが、ベティがまめまめしく、親鳥が子に餌を分け与えるみたいに食べさせた成果もあり、ローザの躰は年頃の少女特有の肉がつきはじめた。
出会った当初は羽のように軽く、抱き上げることもできたが、非力なクロードでは、今ではちょっと難しいかもしれない。
安心しきった顔で、スピスピと寝息を立てるローザは、可愛くて、愛おしい。
クロードがローザの寝顔を見るのは、これが初めてではなかった。
ローザが初めてクロードの家に来てから毎晩のように、クロードは彼女が寝静まってしばらくした頃合いに、部屋を訪れていた。
何せ、この可愛い顔で寝ている弟子は、寝相の悪さは可愛くないのである。
寝間着をあられもなく着崩して、枕やシーツを大胆に蹴飛ばす。ときにはベッドから落ちていることさえあった。
一度眠りについたら目覚めないのか、固い床の上で眠りこける弟子を見たとき、クロードは呆れて声も出なかった。
何であれ、弟子の健やかな睡眠を守ることは、甲斐甲斐しい師匠の役目なのである。
手の焼ける弟子の寝間着やシーツを一通り整えたあとは、眠る彼女に子守唄を歌う。
悪夢を見ないことを、祈りながら。
「温かいミルクに、蜂蜜を一匙。あなたのこころがあたたかくなったら、おやすみ、妖精。わたしの、妖精……」
いつものように、クロードは口ずさむ。起こしてしまわないよう、声を潜めて。
それから額にくちづけを落とす。かつてのラファエラが、そうしたように。
両の頬に、鼻の頭に。
そして、彼女の小さなくちびるに。
「……ローザは、寝相が悪いからね」
誰に向けた言い訳だろうか。クロードはボソリと呟いて、ローザを胸の中に、強く抱きしめた。
だって、可愛い弟子がベッドから落ちたら、可哀想だもの。
「おやすみ、ローザ。僕の妖精」
静かに瞼を閉じる。
穏やかな寝息を耳にしながら、今日はぐっすりと眠りにつけそうだった。
***
その翌日、深い眠りについていたクロードは、宿中に響き渡るような悲鳴で目を覚ますことになる。
悲鳴をあげたのは、クロードの腕の中で眠る、弟子の少女だった。
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