【9】クロードの〈妖精画〉

 クロードは旅荷物を解き、絵を描く準備を整えていた。

 旅先だ。あくまで必要最低限の画材を揃えたというところか。鉛筆と、使い古したキャンバスと、イーゼル。

 彼は手際よく設置すると、気合を入れるよう、シャツの袖をまくり上げた。


「今から絵を描くんですか……?」


 予想と違ったので、ローザが思わず訊ねると、彼は首を傾げて問い返す。


「何か問題でも?」


「えっ、その、ないです……。てっきり絵を見せてもらえるのかな、って思ってたから……」


「だから、今から絵を描くところを見せるんだよ。旅先に絵を持ちこむ理由はないからね」


 彼の言葉はもっともである。

 長く逗留する予定ではいたが、定住するつもりはない。必要最低限の荷物で、嵩張る絵画を持ってくる理由は確かになかった。

 ローザが所在なく扉の前で棒立ちになっていると、クロードはローザの手を引いて、クキャンバスの横に置かれた椅子に座らせた。


(絵を描くところを見て、勉強しろってことなのかな……)


 クロードに師事して、一つの季節が廻った。

 一度だけクロードが絵を描くところを目にしたことはあるけれど、ちょっと盗み見た程度である。彼が正式にローザの目の前で絵を描くのは、これが初めてになるのだ。


(先生、基本的にはあたしのことほったらかしだったのに、やっと先生らしいこと、してくれるんだぁ……)


 ローザがだいぶ失礼なことを考えていると、クロードは艶のある布地のリボンで、髪を頭の上で一つに結いあげる。

 それからキャンバスの前に座り、鉛筆を滑らせた。

 その筆筋には、一切の迷いがない。

 クロードは真剣な眼差しで絵を描いている。


(……きれい)


 ローザの瞳は、絵ではなく、〈妖精の愛し子〉と呼ばれる男に吸い寄せられる。

 時折震えるように瞬く瞼。

 キュッと引き結ばれたくちびる。

 わずかに引いた顎のかたちも、穏やかな呼吸で上下する胸元も、絵を描くときはすっと伸びる姿勢も、それだけで絵になる美しさがあった。

 同じ人間とは思えないな、とローザはしみじみと感じ入る。美しい金色の瞳がキャンバスへと向けられ、骨ばった長い指先が、鉛筆をサラサラと動かす。

 まるで魔法のようだ。うっとりと眺めながらローザは思う。


(先生は、おばあちゃんに、似てる)


 見た目こそ違うが、絵を描く姿は、クロードとラファエラ、両者で通じるものがあった。

 ラファエラも絵を描くときにはしゃんとした姿勢を心がけていた。

 静かな空間だった。

 一言も、吐息さえこぼさないよう、ローザは厳重に注意を払った。

 クロードの瞳は、ただただ、キャンバスに向けられている。

 無音の空間に息苦しさはない。むしろなんて、心地が良いのだろう。

 ふと。おもむろに、彼の手が止まる。

 絵はほとんど完成に近づいていたのだが、どうしたというのか。

 ローザが疑問に思っていると、クロードはくちびるを開いた。


「僕の絵を、気に入ってくれるか?」


「……え?」


 ローザに問いかけているのだろうか。ローザが困惑している間にも、彼は続けた。


「〈妖精國〉の逸話。オグレイディの森と、それを守護するニッシュ兄弟。オグレイディの森は悪しき妖精たちの住処と隣接する領域で、武力に長けた彼らが妖精女王の命を受け、この地を長く守護しているという。兄弟の仲は堅く結ばれ、互いの無事を祈り、武器を交換し、その手入れをするそうだね」


 すらすらと淀みなく語りかける口調だが、ローザに向けているとは思わなかった。あまりにも一方的すぎるのだ。

 彼が描いているのは、大小のキノコが並び立つ、森の絵だ。キノコの椅子に座るのは、妖精の兄弟である。

 妖精の兄弟は武器の手入れをしている。

 木の昆のようなものと、錫杖のようなもの。

 クロードが口にした通り、互いの武器を交換し、手入れをしているのだろう。


「妖精も、知っているの?」


 クロードは何もない、虚空に問いかけた。

 そこには誰もいない。当然、妖精の姿もない。


「ねえ、妖精。ニッシュ兄弟に会ったことは、ある?」


(先生、変わり者なのは知ってるけど、頭がおかしくなっちゃったのかな……)


 ローザはだいぶ失礼なことを考えつつ、変わり者の師に、生ぬるい視線を送る。

 不思議なことに、問いかける彼に、必死な様子はなく。まるで友人と語らうような、楽しげな雰囲気さえあった。


「ニッシュ兄弟は強いから、悪者になんて負けないよ。ここは安全な場所だ」


 人間と妖精は言葉を交わせない。それはこの、魔性じみた美しさを持つクロードでさえ例外ではないのだ。

 なのに、彼は語り続ける。


「ここが、寄る辺のないおまえたちの、ひと時の安息の地であることを、僕は願うから」


 ローザはハッと息を呑んだ。


 ***


 クロードが滑稽にも、そこにいるかも分からない妖精に話しかけている間、弟子の少女は黙り込んでいた。

 当然だが、クロードは妖精と話せない。クロードは妖精とおしゃべりをするつもりなんてなかったのだ。

 実際のところ、語りかけていたのは、頑ななローザの心に対して、である。


(本来、絵を描くことは、楽しいことなんだよ)


 ローザには絵を描くことを禁じたが、彼女がコッソリと絵を描いているのを、クロードは知っていた。

 夜も更けて、いつもなら寝ているような時間に、わずかな灯の元でキャンバスに向かう小さな背中の、なんと心細いことか。

 悲しい顔で妖精に語り掛ける彼女は、『楽しい』という感情が抜け落ちてしまったように思えた。


(ローザには、笑顔でいてほしいな)


 クロードはローザの顔が好きだ。

 困ったように眉尻を下げる顔も、くちびるをへにゃへにゃにした情けない顔も、頬を膨らませた不機嫌そうな顔も、どれも可愛いと思うけれど。

 一番好きなのは、彼女のあどけない笑顔だ。妖精とああだこうだと相談しながら、楽しそうに絵を描く姿が、何よりも好きで、愛おしく思うのだ。

 絵を描くことは、楽しい。妖精と語らうのは、楽しい。

 その気持ちを、どうか思い出してほしかった。

 クロードはちらり、とローザを一瞥する。

 ローザはぼんやりと、夢見る少女のような顔つきで呟いた。


「あたしたちの、隣人は、ここにいるの?」


 彼女の声に答えるように、数人の妖精が姿を現す。

 ローザが小さな手を宙に浮かべると、手の甲に、ひとりの妖精が降りたった。


「先生の描いた絵は、とても素敵。あなたたちも、気に入った?」


 妖精は言葉を返さない。

 だが、クロードの描きかけの絵に溶け込むよう、キャンバスの中に飛び込んだ。それが答えだと言わんばかりに。


「良かったぁ」


 ローザははにかむと、ふと、表情を暗くする。


「あたしには、描けない」


 彼女の膝に座る妖精のひとりに向かって、ローザは力なく呟く。


「あなたたちの寄る辺となる、絵は、描けない」


「――描ける」


 クロードはすかさず言った。

 弾かれたように顔を上げたローザの瑠璃色の瞳は、不安に揺れている。

 彼女こそ、寄る辺のない、迷い込んでしまった妖精のように。


「ローザ。おまえには、描ける。妖精を愛するローザなら。死す者と、今を生きる者。人間の幸福を願い祈れる、ローザだからこそ、描けるんだよ」


 クロードの言葉に、ローザは小さく頷いた。

 その瞳から、迷いは失われている。


 ***


「――完成したよ」


 時間にして、描き始めて半刻が経つか経たないかの時分。

 途中で意識が飛んでいたらしい。クロードの声に、ローザは現実へと引き戻される。


「描き終わったよ。ローザ」


 椅子の背もたれに右半身を預けるよう座り直したクロードは、そこか呆れたように言う。


「ねえ、ローザ。ずっと絵じゃなくて、僕の方を見てたよね?」


 バレていた。ローザは顔を真っ赤にして、口元を両手で覆う。

 そんなにあからさまに見ていたつもりはなかったのだが、分かってしまうものらしい。


「ご、ごめんなさい、先生っ。あの、その……、絵を描いている先生が素敵で、つい」


「〈妖精國〉に連れ去ってしまいたい?」


 妖精をかどわかすような美貌の男は、楽しげな微笑みを浮かべて、冗談めいて言うので、ローザは「あう」と、どもるしかできない。


「それよりも、見て」


 着色されていない、鉛筆で描かれた絵には、妖精が宿っている。

 白いワンピースを纏った一際小柄な妖精は、クロードの描き上げた〈妖精画〉をいたくお気に召したようだ。絵の中で、すやすやと無防備な寝息を立てている。

 絵を描きあげた当人も、その出来には満足しているようで、唇をわずかにほころばせて頷いている。


「絵を描くのは、楽しいね」


「……はい」


 ローザは頷いた。彼は楽しそうに絵を描いていたと思う。

 その姿を思い出すと、ローザの胸がムズムズとし始めた。

 その気持ちの正体を、ローザは知っている。

 クロードは笑いを噛み殺しながら、穏やかな顔で、ローザに問いかけた。


「ローザも、絵を描いてみる?」


 描きたい。絵を、描きたい。

 クロードに問われるまでもない。

 この気持ちを阻むものは、もはや何一つ存在しないのだ。


「はいっ!」


 だからローザは、元気よく返事をした。

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