【3】手紙

「明日の昼、ジョヴァンニが顔を見せに来る」


「……ふぇ?」


 晩御飯を食べ終えて、葡萄酒を口にしていたクロードが、ふと思い出したかのように言う。

 クロードの予告は、いつもギリギリになってからだ。

 例にたがわず、今しがた思い出したのだろう。

 クロードは何でもないように言うが、ローザはパンを齧ったまま、ひどく動揺していた。


(どっ、どどど、どうしよう……? あたし、まだ、〈妖精画〉が描けないのに……!)


 しばらく絵を描くことから離れよう、とクロードに提案されて、しかしそれは命令ではないと、ローザは人目を忍んで、コソコソと絵を描き続けていた。

 クロードの前で絵を描いてから数日が経ってなお、ローザは〈妖精画〉が描けずにいる。

 画家協会〈ミュトス〉に向かったクロードが、ジョヴァンニと何を話したか、ローザは未だ聞けずにいた。

 失望されたくない。

 だからローザは、明日が来なければいいと願った。

 それでも、無慈悲に時は針を進めるのだ。


 ***


 翌日。家を訪れたジョヴァンニは、開口一番に言う。


「久しぶりですね、ローザ。調子はいかがです?」


「……えっと、あたし、その……」


 ローザのくちびるは震えて、頼りなく聞こえただろう。

 まともに受け答えもできないローザに呆れてしまっただろうか。

 隣に座る、クロードに躰を寄せながら、ローザは口籠る。

 それでもジョバンニは、柔らかく微笑んで返した。


「挨拶が遅れてすみません。本当は、早いうちに顔を出したかったのですが……。ここのところ、仕事が立て込んでおりまして」


 忙しいだろうに顔を出したジョヴァンニは、今日も上品な衣装に身を包み、長い金髪は一寸の乱れなく黒いリボンで結ばれている。

 彼はフゥと悩ましげに、溜息を吐いた。


「現在〈ミュトス〉は、王家から大量の〈星葬画〉を押しつけられ……いえ失礼、間違えました。修繕の物量攻めで、いっぱいいっぱいで」


「修繕ね。それって、例の?」


「ええ」


 クロードは事前に聞き及んでいるらしい。


「おかげでのんびりと茶を飲む時間もありませんでしたよ。ようやく今、一段落したところです」


 ジョヴァンニは優雅に茶をすすりながらぼやいた。


(〈星葬画〉を描くんじゃなくて、修繕……?)


 〈ミュトス〉に顔を出していないローザにとっては初耳だ。

 首を傾げると、ジョヴァンニはカップをソーサーに戻して、説明してくれる。


「王家が所有する、とある〈星葬画〉の修繕の依頼を請けたのですよ。王家が所有するのですから、すなわち国宝でもあります。ですから、私たちは丁重に対応せざるを得ない」


 王家が所有する〈星葬画〉ということは、歴代の王や女王、その係累を描いたものなのだろう。


「私は画家組合〈ミュトス〉の親方ですから、ひと一倍神経を尖らせて、仕事に向き合っていました。君たちへの対応が疎かになっていたことには、素直に、謝罪させてください」


 ジョヴァンニは深く深く、頭を下げた。

 ローザはパパっと両手を振って答えた。


「そ、そんな! ジョヴァンニさまが謝ることなんて……何一つとして、ないです」


「そう言っていただけると、私も救われます。……ローザ。できれば、君に早く手渡したかったのですが」


 渋面を作る彼は、ひどく思い悩んだのだろう。


「仕事の忙しさを理由にして、私は逃げ続けていたのでしょうね」


 ジョヴァンニは躊躇しながら、一つの封筒を差し出した。

 ローザは、文字が読めない。

 それを知っているからだろう。クロードは素早く手紙を手に取ると、便せんに書かれた文字を読み上げた。

 かつて、己の母を語ったように、単調な声色で。

 便せんを覗き込めば、細く流麗な筆跡だった。

 そこには深い、後悔が連ねられている。

 ひどい癇癪を起こした。それは、死への覚悟ができていなかった、己の過ちだ。

 最後に、そこに妖精の加護が宿らずとも、残される夫と子供のために、〈星葬画〉を描いてほしいと、そう締められていた、らしい。

 読み上げたクロードは、だが差出人の名前を語らない。

 それでもローザは、手紙がアデル・ギレッドから差し出されたものであることを理解した。

 クロードは手紙を読み終えると、ぐしゃぐしゃに丸めて潰す。

 彼の怒りのまま、ぶつけられたのだろう。手紙だった塊は、ジョヴァンニの胸に、ポスンと音もなく当たる。

 ジョヴァンニは眉をしかめたものの、クロードの横暴な所業を、咎めることはなかった。


「クロード。君ではなく、ローザに宛てられた、手紙ですよ」


 ジョヴァンニの口調は、平常の快活さがなく、どこか沈んでいるようにも思えた。

 クロードはくちびるをへの字に曲げて、吐き捨てるように言った。


「そんなこと、関係ない。……腹が立つ。彼奴らは、すべての画家を敵に回したね」


「そうですね」


 ジョヴァンニは悲愴な表情で頷く。


「……すみませんでした、ローザ」


 ジョヴァンニはローザに向き合うと、深く頭を足れた。


「私はただ、君に事実を知っていただきたかったのです。必ずしも、伝える必要はありませんでした。しかし私は、こうして手紙を、君に渡す選択を選んだ」


「あ、頭をあげて、くださいっ。あたしは、全然っ……」


「気にしていないとか、傷ついていないとか、嘘をつくつもり?」


 ローザの言葉を遮り、クロードが指摘する。

 その通りだった。ローザは、次に口にすべき言葉をうまく表せず、飲み込んだ。

 クロードも、ジョヴァンニも。誠実な人たちだ。

 アデルの謝罪を、なかったことにできた。

 ローザは何も知らずに、彼らが身勝手な人間だと一方的に思い込むことも、できたのだ。

 そうならなかったのは、ジョヴァンニの優しさと、厳しさ故にだろう。

 クロードも、ローザが傷つかないように、導いてくれている。

 彼らの誠実さに答えるなら。嘘をつくべきではない。


「……あたし、本当は……」


 ローザはぎゅっとくちびるを噛みしめる。


「すごく、悔しい、です……! だってアデルさまの〈星葬画〉、うまく描けた! 自信があった! それでも……。アデルさまの、チェスターさまの、期待に沿えるものを、描くことができなかった……!」


 与えられた仕事を一人前に果たせなかったローザにも、責任がある。

 期待に答えることができなかったことも、もちろん、辛い。

 それ以上に。


「あたしの祈りを否定されたのが、とても辛くて、堪らなかった……!」


 アデルと、チェスターと、コリンと。

 残す人間。残される人間を想いながら、ローザは絵を描き上げた。

 技術は未熟だろう、それでもアデルのために、最高の一枚を描き切った自負がある。

 ただ、幸せになってほしかったのだ。

 誰もが、前を向いて歩けるように、願ったのだ。

 けれど、ローザの祈りが、目の前で燃やされたら。

 ラファエラの〈星葬画〉は、正式な手順に則って処分されたと聞いている。ローザの預かり知らぬところで終わった話だから、まだ傷は浅く済んだ。

 それでも、寂寥感のようなものは、わずかに感じているけれど。


「それにあたしは、彼らの幸福を願う、妖精たちまでも危険に晒した……!」


 燃え上がる火の手から逃れるように、妖精たちは悲鳴をあげて、ひとり、またひとりと、消えていく。

 妖精たちは人間の国に家を持たない。〈妖精國〉の迷い子だ。唯一、止まり木となれる場所を、長く探し求めていた。

 そして末永く、人間の友であろうとする。

 彼らがようやく見つけた安息の地に、熱き火柱が立った。

 彼らの想いも裏切られた。ローザたち人間が、断ち切ったのだ。


「アデルさまのせいではないとわかっていても……。それでも、あたしは……。依頼を受けるのは……難しい、です」

 それに、と言いかけて。ローザは苦々しい気持ちで、言い淀む。

 〈妖精画〉が描けなくなってしまったことを、ローザの口から伝えるべきだ。

 だが、いざ口に出そうとすると、躰はブルブルと震えて、不安に支配される。

 ジョヴァンニはほろ苦い表情をしつつも、どこか安心した顔で頷くと言った。


「……それでいいのです。私も、腹が立ちましたから」


「え?」


「君たちが請けると言っても、親方命令で断るつもりでしたよ。親方には、組合に属する画家を守る義務がありますから」


 ジョヴァンニは頼りがいのある親方の顔をして、胸を張って言う。

 ジョヴァンニは、業界の顔役だ。彼が握り潰せば――アデルの祈りは潰える。

 しかしそれは果たして、正しいことなのだろうか。

 ローザの口から、自然と疑問が滑り落ちた。


「その、アデルさまの〈星葬画〉は……。誰も、描かれないのですか?」


「本来画家は、依頼人と節度ある距離を保つべきです。しかし、君は初めてですから。アデル・ギレッドに、強い思い入れを抱いていたようですね?」


 ローザは小さく頷いた。ジョヴァンニは困り顔で嘆息する。


「私だって、その気持ちはわからなくもありませんよ。ですが、画家が強い思いを以って描き上げた、一世一代の作品を台無しにするような連中です。彼女の〈星葬画〉を残したいという画家は、まず存在しない」


「そんな……!」


 思わず立ち上がろうとするローザの袖を、クロードが引いて続ける。


「〈ミュトス〉以外にも、王都には多くの画家組合が存在する。いずれの組合にも所属しない画家も、当然存在する。慣れあいを好まない彼らにも、仔細は広まるだろうね。チェスター・ギレッドの、悪しき所業が」


 クロードはそれが当然のことだと言うように、口にする。

 チェスターの行いは、妻を失うことを恐れた、一時の感情に流された過ちだと、ローザは思う。

 彼にとって、愛する妻を失うことは、それほど耐え難いことだったのだろう。

 けれど、それでも。

 また、作品を壊されたら?

 ローザは未だに、絵を描けない。

 挫折を味わって、再びそれに立ち向かえるほど、ローザの心は強かではない。

 それでも。これでは――誰も救われないではないか。

 助けになりたい。でも、傷つきたくはない。

 ローザは相反する二つの感情に、翻弄されている。

 ローザが密かに頭を悩ませていると、ジョヴァンニは柔らかく微笑んだ。


「ローザ。君はとても、頑張りましたよ。私たちの期待に、十分応えた」


「そうで、しょうか……」


 今だって、〈妖精画〉が描けなくなってしまっているのに。

 ローザはちらり、とクロードに視線を向ける。彼は何も言わない。


「しばらくは、悪い噂が落ち着くまで、絵の勉強に励んでください。いいですね?」


 ジョヴァンニに訊ねられ、ローザは後ろめたい気持ちを抱えながらも、頷くしかできなかった。


「ローザは聞き分けが良くて、本当に助かります」


 おそらく聞き分けが悪い方に躰を向けて、ジョヴァンニは続けた。


「本日の用事は二つありまして。一つは済みましたから、残りもう一つ」


 クロードに向けて、ニコリと凄みのある微笑みを浮かべた。


「今度こそは、クロードに対応していただきたい依頼があるのです」


「それって、『国一番の画家』が対応しないと、ダメなの?」


「いえ、指定はありませんが」


「だったら僕じゃなくても、いいんじゃないかな」


 クロードはいまいち気乗りしないのか、銀髪を指に巻きつけながら、そっぽを向いている。

 絵のことになると、寝食も忘れてのめり込んでしまう性格なのに、珍しい。


「僕はほとぼりが冷めるまで、ローザと引き籠もりたい。ローザもそう思うよね?」


(ど、同意を求められても、困る……)


 たしかにローザは、しばらく表舞台に立ちたくないけれど。

 今、最も名が知れているだろうクロードは、そうもいかないだろう。

 すがるような視線をジョヴァンニに向けると、彼は爽やかな笑みを浮かべて言う。


「私だって、せっかく弟弟子とその弟子がうまくやってるんです。親交を深め、初々しい感情を育むお邪魔はしたくありません。パパですからね」


「……パパ?」


 ローザは思わず首を傾げた。確かに彼は、父親のような立場ではあるのだが。


「パパ。それなら帰れば?」


 反抗期さながら父親を嫌って追い払おうとするクロードの冷たい声を無視して、ジョヴァンニはもったいぶって言う。


「何も、君でなければいけない、とまでは言いませんよ。先方からの指定もありませんでしたし? しかし、君は是非にでも引き受けたいと、考えるのではと思いまして」


 そっぽを向いていたクロードは、わずかに興味を示したようだった。


「〈星葬画〉を描くのではありません。かの美しき湖の〈星葬画〉の、修繕の依頼です」

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