【2】師の判断

 わんわんと泣きじゃくるローザは、幼いこどもそのものだ。

 実際のところ、彼女の情緒は幼いこどもと大差ない。

 もっともジョヴァンニに言わせれば、クロードも似たようなものだし、その自覚はあるのだが。

 〈妖精國〉にいた一年で、どうやらクロードは心の一部を落としてきたらしい。

 だから、年を重ねたとて、同年代と変わらぬ振る舞いができているとは思えなかった。

 と言い訳しているけれど。クロードのそれは甘えに過ぎない。傍若無人なふるまいは、嫌なことをやり過ごす隠れ蓑に、ちょうどいいのだ。

 一向に泣き止まないローザをベッドに座らせて、クロードも傍らに寄り添う。

 ローザは瑠璃色の瞳から、止まらない涙を流しては、えずくような嗚咽をこぼしている。


(こういうとき、どうしたら、泣き止んでくれるのかな?)


 彼女をあやすのが一番上手なのは、やはり、祖母ラファエラを置いて他にいまい。

 クロードは話に聞いている、ラファエラの姿を想像する。

 ラファエラは、孫娘を溺愛していた。だから、もうこどもではないのだから、泣き止みなさい、と叱ることなく、当人が満足するだけ泣かせていただろう。

 優しく抱擁し、片手は髪を梳いて、もう一方の手で背中を撫でて。

 額にくちづけを落とし、「わたしはあなたの味方だ」と、耳元で囁いただろう。

 クロードが想像した通りに彼女をあやせば、ローザは次第に、落ち着きを取り戻した。

 ラファエラの模倣に成功したらしい。クロードだってやればできるのだ。

 どうやらクロードには、彼女の先生だけではなく、祖母の才能もあるらしい。

 幼児返りを恥じているのだろう。ローザは顔を真っ赤に染め上げて、もじもじと所在なく顔を俯けた。


「ねぇ、ローザ」


「……」


「『僕の妖精』」


「……」


「そろそろ、落ち着いた?」


「……ひゃ、ひゃ、ひゃい!」


 とてもではないが、完全に落ち着いたようには思えなかったが、ある程度、話が通じる状態にまでは回復したようだ。

 クロードはラファエラになりきって、問う。


「『僕の可愛い妖精』は、どうして泣いていたの?」


 するとローザは、どもりながら答えた。

 彼女の言い分はこうだった。

 いわく、今まで描いたすべての絵に、妖精が宿っていたのだと。

 なのに。以前から、〈妖精画〉が描けなくなってしまった。


「……なるほどね」


 クロードは神妙な顔で頷いたが、内心では天を仰ぐような気持ちだった。

 〈妖精画家〉のエリートである、ジョヴァンニとその弟子たちが耳にすれば、目をひん剥いて聞き返すだろう。

 その形相を思い浮かべて、クロードは少しだけ愉快な気持ちになった。

 〈妖精画家〉の描いた絵に必ずしも妖精が宿るわけではない。

 妖精たちはきまぐれな存在で、自由そのものだ。

 彼らの意志を、画家が縛ることはできない。

 クロードも描いた絵のうちの三枚に一度、宿る程度の確率だ。

 それも〈星葬画〉が多くを占めていた。これでも多く、〈妖精画〉を描けている方なのだ。

 世の中には、たったの一枚〈妖精画〉を描いただけで、〈妖精画家〉を名乗る厚顔な画家もいるくらいなのに。

 王都に出てから月日を重ねても、ローザは視野が狭く、未だ常識に疎い。描いた絵のすべてに妖精が宿ると、本気で信じ込んでいるようだった。

 しかしそれも、彼女が絵を描く姿を目にすればさもありなんと納得が行く。

 本人は否定しているけれど、ローザは妖精と話すことができるのだ。

 それは〈妖精國の宮廷画家〉と称された彼女の祖母ラファエラも同じだったのだろうか。それとも、ローザだけに許される特異な才能なのだろうか。

 『国一番の画家』と持て囃されるクロードは、自らが天才だと自負している。だが、彼女こそが真に特別な存在なのかもしれない、とも同時に思う。


(さて、どうするかな)


 この世の終わりのように告げた彼女の青白い顔を見れば、真実を伝えるのは憚られた。

 ローザはどこか、思い込みの激しい節がある。

 〈妖精画〉の現状を伝えたところで、慰めだと頑なに受け入れようとはしない姿が、ありありと想像できた。

 それに本当に、彼女が〈妖精画〉が描けなくなってしまったのかも、クロードは確認できていない。

 だからクロードは、かつて言ったように、一つの提案をする。


「それでは何が正しいか、確かめてみる?」


 ***


 クロードは自室に、イーゼルとキャンバスを設置した。

 イーゼルの前には、背もたれのない椅子を、ひとつ置く。

 イーゼルの傍に並び立ち、キャンバスの角を指先でとんとん、と叩いて訊ねた。


「描かないの?」


 真っ青な顔をしていたローザは、死地へ向かう戦士さながら、いざ覚悟を決めた表情で、椅子に座る。

 別にとって食うわけでもないのに……と思いながら、ちょこんと椅子に座る弟子の姿をまんじりと眺めた。

 ストロベリーブロンドの髪は、今日は前に垂らすよう、長い三つ編みにされている。

 ローザの髪は、師匠であるクロードが責任を持って、毎朝結っていた。

 ほとんど同じ髪型を使い回しているのに、ローザにはいまひとつ違いが判らないらしい。

 芸術的感性の欠落に、師匠としてはがっかりしながらも、「毎日新しい髪型で、先生は、すごいです……!」ときらきらした瞳で喜ばれたら、思わず苦笑するほかなかった。

 ローザはなかなか、描き始めようとはしない。

 クロードはローザを信じている。だから、辛抱強く待った。

 しばらくして、彼女はボソボソと呟く。


「……妖精の絵を、描こうと思うの」


 これがクロードに向けた言葉ではないと、知っている。

 彼女の小さな友人たち――どこからか現れた妖精たちは、ローザの編み込まれた髪や、華奢な肩、あるいはキャンバスの縁の上で、思い思いに寛いでいる。


「今日は……。『双子の妖精騎士』にしようかな。そう。テレスとテレア。気難しいけれど民を一番に思う兄と、ひとあたりがよく、自己犠牲を厭わない妹。剣の腕が立って、でも二人とも、その力は守るためにしか使わない。優しくて、強い妖精」


 涙の痕が残る目尻を緩ませて、ローザは柔らかな笑みを浮かべた。その筆先は力強く、どこまでも迷いがない。

 筆とともに、光の粒がこぼれる。奇跡のような情景に、クロードは息を呑み、ただただ見守ることしかできない。

 やがて、ローザが絵のほとんどを描き上げた頃、ひとりの妖精が待ちきれないように、絵の中に飛び込もうとする。


「……だめっ!」


 しかし、ローザが筆を持った右手で制止した。

 幼い顔はくしゃりと歪み、それから、弱弱しい声色で、呟く。


「また、燃やされる、から……」


 ローザの頬を、一筋の涙が伝う。


「だから、あなたたちの居場所は、ここじゃない……」


(なるほどね……)


 クロードは嫌でも理解した。

 彼女は本当に、〈妖精画〉が描けなくなってしまったのだ。

 誰にも縛られない、きまぐれで、自由な妖精たちは。

 ローザの、『女王』の命令には、唯一、従うのだから。


 そして、絵が、完成した。


 ***


 絵は、完成した。

 けれど、ローザが危惧していた通り、妖精は宿らなかった。


(どうして? 今までは、妖精たちが宿って、くれたのに……)


 ローザが正しい画家ではないから、見放されてしまったのだろうか。

 見放されてしまうのだろうか。

 ……ローザの先生からも。

 ローザは恐る恐る、クロードに視線を向けた。

 彼は美しい金色の眼差しで、ローザの絵を、じっと検分している。

 クロードは妖精を見ることができる。だからこれが、〈妖精画〉ではないとすぐに気づけただろう。

 〈妖精画〉が描けなくなってしまったローザは、彼の期待に添えられない。

 クロードは『特別な』〈妖精画〉を求めている。

 一夜にしてすべてを失った男の子は、空白の一年を取り戻すために、〈妖精國〉の扉を探し続けているのだ。

 ローザにはそれができると彼は断言したけれど、この調子ではとてもではないが、彼の望みを叶えることは難しいだろう。


(いやっ、泣いちゃ、だめっ……!)


 ローザはくちびるを噛みしめた。

 自信のない様子を、依頼人の前で見せてはいけない。

 そして、不安を抱かせてもいけない。

 ローザはクロードの画家であり、妖精なのだ。

 そう、宣言した。

 涙を懸命にこらえ、ローザはクロードの言葉を待つ。

 長い時間をかけて。クロードは溜息交じりに言った。


「――ローザ」


「……はい」


「しばらく、絵を描くことから、離れよう」


 ローザの中で、何かが瓦解してくような、音が聞こえた。

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