四章 玉瑠璃と、祖母の〈妖精画〉

【1】挫折(2回目)

 『お城』のお庭に忍び込んで、どうやって帰ったのか、ローザは覚えていない。

 気づけば自室のベッドの上にローザは寝かされていたのだ。

 窓から差し込む光の眩しさに、ローザはモゾモゾと、芋虫のように蠢きながら目を覚ます。

 もう昼も近い。

 つまり、寝坊だ。


(ど、どうしよう! 先生の朝ごはん、作り損ねた!)


 ローザはベッドから飛び起きると、慌ただしく身支度を整える。

 櫛で髪を手早く梳きながら、昨夜のあれは夢だったのではないか、と不意に思う。

 服も、ジョヴァンニが買い与えてくれたワンピースを身に着けたままだ。寝間着に着替えてはいない。どこからどこまでが夢か、分からなかった。

 けれど。

 ローザは櫛を机に置くと、右手を開いては握るを繰り返す。


(先生の、鼓動は、優しかったな……)


 胸の、手の熱は、確かだった。

 ――僕の妖精。

 あのとろけるような甘い囁きを思い返して、ローザは耳まで赤くなった。

 胸に手を当てると、不穏なほどにドキドキしている。こんな経験、生まれて初めてだ。

 おかしな病気にでも患ったのかと不安に思いながら、階段を降りて、居間に顔を出す。

 着古したシャツとズボンに身を包むクロードは、いつもと変わりがないように見える。

 けれど、新聞に目を通していたローザの先生は、バツの悪そうな弟子の姿に気づくと、柔らかな笑みを浮かべた。


「おはよう。ローザ」


 爽やかすぎる挨拶を耳にして、ローザは疑問に思った。

 おかしい。愛想が良すぎる。

 それに、おまえおまえと呼んでいた彼は、いつから名前を呼んでくれるようになったのだろう。


「おっ、おはようございます……」


 若干の気恥ずかしさを覚えながら、ローザはボソボソと挨拶を返す。

 クロードは新聞を丁寧に折りたたみ、机の上に載せると席を立つ。


「昨日は遅かったから、まだ眠っていればよかったのに」


「……あたし、夢を見ていたのかと、思いました」


「夢?」


「先生と、約束したこと……」


 まだ頭がぼんやりとしていて、考えがうまくまとまらない。

 クロードはローザに近寄ると、おもむろに跪いた。


「えっ、せせせっ、先生!?」


 ぎょっとして身を引いたローザの手首を、クロードは優しく手に取る。

 ローザを惹きつけてやまない、この瞳の美しいひとは、ついに物理的に拘束し始めたのだ。

 彼の満月のような、黄金色の瞳は、どこか寂しげに揺れている。


「まだ、寝ぼけているの? 僕との約束を忘れてしまった?」


 ――あ、あたしがあなたの、妖精になりますっ!


 ――だったら、依頼をしてください、あたしに! 『僕を〈妖精の國〉へ連れて行って』って……! あたしが必ず、先生を連れ去ってみせる、から!


 ――このおまえの手で。僕のために〈星葬画〉を描いて、ほしい。


 あの胸の高まりを、今でも覚えている。

 あれが夢であったとは、思えない。

 ローザは訥々と呟いた。


「やく、そく……。……先生の〈星葬画〉を描くこと?」


「そう。僕を〈妖精の國〉に誘ってくれる?」


「はい……」


 夢見心地に頷くローザの手を頬に寄せて、クロードは囁くように口にした。


「ローザは、僕の、僕だけの、妖精だからね?」


 クロードは瞳を眇め、そして堪え切れないように、破顔する。

 彼を年相応の青年に見せる微笑みは、実に人間らしく思わせた。


 ***


「ジョヴァンニのところに顔を出してくる。すぐに帰るよ」


 遅い朝食兼昼食を摂るローザに、クロードは簡潔に予定を伝えた。出かける準備を整えたらしい彼は、ローザが自室に戻ったあとに、家を出た。

 クロードがどういった用向きでジョヴァンニを訪れるかは、想像にたやすい。

 アデルの〈星葬画〉について、彼はジョヴァンニと話をするのだろう。

 もしかしたら……いや、確実にローザについても。

 〈星葬画〉が描けなかった場合、画家を辞めると、ジョヴァンニに宣告した。

 アデルの〈星葬画〉は無事に完成した。妖精が宿った〈星葬画〉は、しかし、チェスターの手によって廃された。

 描けたことに変わりない。しかしそれは、チェスターの求めるものではなかった。

 それなら、ローザは約束を果たせなかったのだろうか。

 ジョヴァンニはどのように、判断を下すのだろう。

 想像すれば、ローザの胸は息苦しさでいっぱいになる。

 画家を、諦めたくない。何より、クロードとの約束を反故にはしたくない。

 大きな出窓に手をついて、憂鬱な気持ちでクロードの後姿を眺めていると、ふいに振り返った彼と目があった。

 ローザは驚いて隠れようとしたのに、クロードはヒラヒラと手を振るものだから、無視するわけにもいかない。

 半分躰を隠したまま、控えめに左手を振り返すと、彼は何やら、口をパクパクと動かしている。


(何か、言ってるのかな……?)


 厚い窓硝子に阻まれて、彼の言葉は聞き取れない。

 言い残したことや、忘れ物でもあるのだろうか。

 ローザが窓を開け放つと、彼は口元を緩めて、声を張り上げた。


「そんなに心配そうな顔をしないで! 僕はおまえを置いて、〈妖精の國〉には行かないから!」


 ローザの悩み事とは、まるで見当のちがう彼の言葉は、しかし、ローザの胸を打った。

 ローザは思わず、両手で口元を隠す。だって、くちびるが、ムズムズとするのだ。

 じわじわと頬が赤くなるのを感じた。鼓動がトクトクと高まる。

 そして何故か。理由もなく、叫びだしたくなった。

 優しく善良な人間は、本人にその意識がなくとも、『悪い妖精』を誑かす。

 甘い冗談で慰められたら、ローザは本当に『悪い妖精』になってしまいそうなのに、当の本人にはその自覚がまるでないのだから、手に負えない。

 彼は最後に、少しだけ名残惜しそうな顔を見せて、足早に商業地区へと姿を消した。

 銀色の頭が見えなくなるのを確認して、ローザはへなへな、と床に腰を下ろす。


(先生は、意外と歩くのが、早いんだ……)


 ローザと歩くときは、ローザよりも少し、遅いくらいなのに。

 ローザにあわせてくれている、と考えるのは烏滸がましいことなのだろうか。

 けれど、そんな風に考えて、幸せに浸っていたいとも思う。


(ジョヴァンニさまは、良い子って褒めてくれるけど、あたしは悪い子だ)


 出窓には掌ほどの大きさの、可愛らしい妖精の少女が腰を下ろしている。

 細い指先で、薄い金色の髪を梳いていた。その一本一本が、金糸のように艶めく。

 そのきらめきを目で追いかけながら、先生の瞳の色と同じだ、とローザは思う。

 ローザは小さな隣人に問いかけた。


「ねえ。あなたもあの美しいひとを、〈妖精の國〉に連れ去ってしまいたい?」


 妖精は何も言わない。

 当然だ。彼女たちは人間の言葉がわからない。

 だが妖精の少女は、ローザの問いかけに、「どうかしら?」とでも言いたげで。意味ありげに、微笑んでいるようにも思えた。

 

 ***


 『あの夜』から十日ほどが過ぎた。

 頼まれていた仕事も片付いたので、クロードは自室の椅子に座り、本を読んでいた。

 妖精について記されたそれは、もう何度なく読み返している。中身を暗記するほどに。

 それでもこうして手に取ってしまうのは、クロードが純粋に本を読む行為自体を好んでいるからだ。

 今を生きる人間のために、あるいは未来を生きる人間のために、言葉を残す。その手段のひとつとして書物が存在する。それは、クロードが愛する絵画にも共通することだ。

 だからこうして触れたくなる。クロードが感慨深げに閉じた本の背表紙を撫でていると、階段をドタバタと駆ける音がする。

 随分と慌てているので、クロードは苦笑しつつも、少々心配に思う。クロードの弟子は、普段は静かに階段を歩く娘なのだ。


「せん、せいっ!」


 彼女はよほど急いでいたらしい。

 息を切らしてクロードの私室に飛び込むと、悲痛な声で叫んだ。

 瑠璃色の瞳からは、今にも涙が零れ落ちそうだ。


「どうしよう、どうしよう……!」


 その見るからに尋常ではない様子に、クロードはぎょっとしつつも、傍に寄る。


「ローザ、どうかしたの?」


 理由はわからないが、弟子が錯乱するほど、困っている。

 こんなときこそ、師匠は落ち着いているべきだ。頼れるカッコイイ師匠は、いかなる時であっても、常に冷静であるべきだと、クロードは考えている。

 だから、クロードはつとめて平静な口調で訊ねた。

 ローザは色を失ったくちびるをわななかせて、言う。


「あたし、はじめて、〈妖精画〉が、描けなくなっちゃった!」


 クロードは思わず、真顔になった。

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