【幕間2】故郷に、静かに眠る

 きっかけは十二の冬の初め。ラファエラの母が倒れたことだ。

 彼女は突如として島で流行り始めた病を患った。

 父は薬を求めたが、特効薬は未だない。解熱剤や、咳止めでさえなかなか手に入らず。本土から神子を呼ぶよう手配の手紙を送っているようだが、返事はなかった。

 数日後、母の病気が悪化した。未だ、手紙の返事はない。

 それから数日後、父も病で伏した。

 使用人も大半が病を患う。

 父の判断は早かった。病魔におかされていない使用人には幾ばくかの資金を与え、暇を出した。屋敷に残るのはヨナを含む、古株の使用人だけだ。

 ラファエラも残った使用人と一緒になって、両親を看病した。

 母は既に、言葉も話せない。父は朦朧とした意識のなか、「遠くに逃げなさい」と繰り返しラファエラに命じた。

 島から本土に渡る船はない。しばらく前に途絶えたのだ。本土は船の受け入れを拒絶している。

 数日後、母が命を引き取った。

 それから数日後、父も母を追うように、亡くなった。

 数週間後、妹クロエまでもがおぞましい病の毒牙にかかった。

 そして数か月が経ち――十三の春。

 長い冬が開ける。

 病に脅かされる者は、ついにいなくなった。


 ***


 若葉が芽吹き、神のつかいの白い小鳥たちが囀る。

 祈りの歌を紡ぐ乙女はいない。

 屋敷は死んだように、静まり返っている。

 当然だ。今屋敷にいるのは、ラファエラと病床に伏す末妹クロエ。そしてヨナ。きょうだいは皆、命を落とした。

 ラファエラとヨナは奇跡的にも病に感染することはなかった。

 ラファエラは私室で、お気に入りの椅子の上で膝を抱えて座っていた。


「お願い、ヨナ。あたしの傍に、来て……」


 ヨナはしずしずとラファエラの下へ歩み寄る。

 すっかりと年老いたヨナの様相はひどいものだ。

 白髪頭はぼさぼさで、顔からは血の気が失せている。目の下には濃い隈を作り、ここ数日の疲労や心労で、瘦せ衰えた躰はさらに薄くなったように思えた。

 けれどそれは、ラファエラも同じなのだろうか。

 座っていてもなお、躰がグラグラと揺れているように、感じる。

 悪夢を見ているのだと、冷たいベッドの中で、躰を抱きしめた。

 これは悪い夢。目覚めたらすべてが嘘だった――そう願っても、いつもと変わらない朝が来て、絶望する。


「ヨナ、手を出して」


 ヨナは枯れ枝のような指先をおずおずと差し出した。

 ラファエラは手持ちの金貨のすべてを彼の手のひらの上に乗せる。

 病が流行りだした頃から、商売は立ち行かなくなった。主人である父が不在で、こどもでしかないラファエラに家業を立て直す力はない。

 暇を出した使用人には多めに金を持たせた。そのために、財産と呼べるものはほとんど金に換えた。

 とはいえ、この島で金の価値なんて、今となってはほとんど、ないに等しいのだけれど。

 ヨナは不思議そうな顔でラファエラを見つめた。

 ラファエラはそんな彼から目を逸らして、早口でまくし立てる。


「あのね、島の有志のひとたちが、船を作っているの。小さな船だけど、海も渡れるわ。未だジニオカペラ本土は島の民の受け入れを拒否している。でも、外つ国なら……スエニフィラフとか、オネスドクなら受け入れてくれるんじゃないかって。暖かくなって、新しく病に患うひともいなくなっても、島にひどい爪痕を残した、だから」


 島には一万人以上の民が住んでいた。しかし、生き残ったのは、百にも満たない数だと、船を作っているおじさんのひとりから、ラファエラは情報を得た。


「ここではもう、生きていくことすら難しい。少ししたら、出航するわ。その船に乗って、どこにでもお行き」


 幼いクロエ。あと何日猶予が残されている?

 しかし、いずれ死んでしまう運命には逆らえない。

 もうどうやっても助からない。

 助けられないのだ。

 ラファエラはくちびるを噛みしめた。

 ラファエラも病気に罹って、彼らのいる場所へ向かう。

 それは儚い希望だった。だって病魔は春風とともに、消え去ったから。

 ただし、一度病におかされたものはいまもなお、後遺症に苦しんでいる。

 少しだけ、死にたくないと思ってしまった臆病な自分は、両親の元へ行けないのだろうと悲しくなった。


「お金、たくさんあげられなくて、ごめんなさい……。これじゃあ家も、買えない……。約束したのに、守れなくてごめんね……」


 視界が涙でぼやける。


「でも、お気に入りのストールは、ヨナにあげるわ……。春の夜は、まだ寒いもの……」


 椅子に座っていても、ヨナとはほとんど、視線の高さは変わらない。

 ヨナは美しい翡翠色の瞳を細めて、小さく微笑んだ。

 それはどこか覚悟を決めているようにも、思えた。

 ヨナはしわしわの手のひらでラファエラの両手を包み込む。それから、口を開いた。


「クロエお嬢様の絵を、描きましょう」


「え?」


 ヨナは金貨を一枚だけ残して、それ以外はすべて、ラファエラの手に押し返す。

 皺だらけの手は暖かい。ラファエラは知っている。その手で撫でられると、野犬の遠吠えが怖くて眠れない夜でも安心して眠れるのだ。


「ラファエラお嬢様は、〈星葬画〉を知っていますか?」


「せいそうが?」


「亡くなった人間を弔うものです。クロエお嬢様の幸福な旅路を祈ればこそ、描きましょう」


 ラファエラは金貨を握ったまま、右手の甲で涙をぐいっと拭った。

 クロエが幸福になれるのなら。それは必要なものだ。

 ヨナは「驚かないでくださいね」と前置きしてから、左目の眼帯を外した。

 ラファエラはまじまじと彼の瞳に見入ってしまう。

 ヨナの右目は深い翡翠色の瞳をしている。左目は鮮やかな瑠璃……いや、瑠璃そのものが埋め込まれていた。

 ヨナは左眼窩に躊躇いなく指を入れる。

 ラファエラは思わず目をぎゅっと瞑る。少しして、「ラファエラお嬢様」と名を呼ばれたので、恐る恐る、瞼を開いた。

 ヨナのちいさな手のひらの上には、青々とした美しい瑠璃がひとつ。

 ラファエラはヒュウと息を呑んだ。

 左目を失ったヨナの顔は、痛々しくて見ていられない。

 けれどそれは、彼の決意の表れなのだ。ラファエラはヨナから目を逸らさずにいた。


「ヨナはいつか、ヨナの國に帰りたいと願い続けていました。ヨナの生まれた、ヨナの大好きな國……。ニンゲンの国に迷い込んだ頃は、ずっと帰りたいと、ただそれだけを考えていました。しかし今は、ラファエラお嬢様が、ヨナの帰る場所となりました」


 ヨナは顔をくしゃくしゃにして笑う。

 ヨナの左目は空洞で、暗闇が広がっていた。まるでどこか、遠い世界につながっているように、ラファエラには思えた。

 暗闇に手を伸ばす。ラファエラの手を、ヨナが掴んだ。

 枯れ枝のような細い指に、黒ずんだ指輪が嵌っている。

 一瞬、彼の言葉に呼応するように淡く輝いたのは見間違いだろうか?


「あなたのために、『永遠』の國の、あわいの扉を開きましょう。ただし、ひとつお願いがあるのです」


「何でも言って、ヨナ。あたし、ヨナのためなら、何でもするわ」


「ヨナの可愛い妖精。それでは――」


 ***


 それから数日後、ヨナは一枚の絵を描き上げた。

 美しい情景は、彼の故郷なのだろうか?

 絵が完成して、翌日。クロエは息を引き取った。

 そしてヨナも、静かにその生を終えた。

 老人の死に顔は、とても穏やかなものだった。


 ***


 早朝の薄暗い時分から、ラファエラは土を掘っていた。

 収穫期にはたわわな黄色いレモンを実らせる木の一角は日当たりがよい。

 庭の柔らかい土は、もう堀慣れてしまった。それでも、ひとひとり埋める程度の穴を掘るには、時間がかかってしまう。

 ラファエラの父と、母の横。クロエとヨナのふたりぶん。

 ラファエラは汗を拭って一息ついた。ラファエラの愛したひとたちは、この名前のない島で眠る。

 ラファエラはこどもなので、クロエとヨナの骸を運ぶのには苦労した。

 台車を使って運んでも、穴にていねいに寝かせるのは難しい。だからといって、乱暴な真似はできない。時間をかけても丁重に、彼らの骸を地に横たえた。


「クロエ……ヨナ……」


 クロエの墓には、彼女が好きだった本を。ヨナの墓には一枚の金貨と、毛織物のストールを納めた。

 柔らかい土を彼らの骸に被せていく。その姿が完全に消えてしまったとき、ラファエラは嗚咽をこぼしていた。涙はとめどなく流れた。

 空は曇り、海は時化っていた。

 ぬるく湿った潮風が、ラファエラの髪を荒々しく攫う。着古したスカートの裾が揺らぎ、冷たい空気が地肌を舐めた。

 墓標も用意できない。ラファエラは彼らの骸の上に、庭で摘んだ小さな白い花を一輪、手向けた。


「おやすみ、父さん。母さん。クロエ。おやすみ、ヨナ。あたしの妖精」


 ひとり呟く。悲しい囁きを分かち合える友はいない。


 ***


 数日後、ジニオカペラ本土から教会の人間が寄越された。病にかかる者はおらず、安全の確認がとれたからだろう。

 ラファエラは大きな船に乗せられた。ジニオカペラに送られるのだという。有志の人間たちが作ったそれとは比べ物にならない、大きな船だ。

 ヨナが命懸けで描き上げた一枚の〈星葬画〉を胸に抱えながら、ラファエラは波の揺れを感じていた。

 十三の春。ラファエラはおとなに近づく。


 その隣に、ヨナはいない。

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