【幕間1】祝福の地を脅かす悪夢

 ジニオカペラ神王国は、世界で最も明るい陽光が降り注ぐ、祝福の地と呼ばれている。

 若き日のラファエラ・モッロは敬虔な信者で、そのように信仰していた。

 彼女が十二の冬。

 ラファエラの故郷を〈悪しき獣〉がもたらした、黒い病が侵すその時までは。


 ***


 ラファエラ・モッロは、ジニオカペラ神王国本土から離れた島で、生を受けた。

 故郷の島に名前はない。

 かつては長い歴史を紡いでいた島の王朝も、戦に負け、ジニオカペラ神王国支配下に置かれた。

 その際に王族は赤子でさえ徹底的に処刑され、国の名前をも奪われたという。血なまぐさい歴史は、ラファエラが生まれる、ずっと前の昔の話だ。

 島の名前は『ジニオカペラの島』で通る。生活に不便も支障もない。

 家の係累を調べたことはないが、島の原住民と、ジニオカペラ本土からの移民の血が、ラファエラには流れているはずだ。

 ラファエラはとある商家の嫡子だった。

 広い屋敷に住み、幼い頃より多くの使用人に傅かれる。さながら、小国のお姫様のように扱われていた。

 ラファエラの両親は気のよい人たちで、使用人への待遇も悪くない。賃金や衣食住、教育に金を惜しむような、けちな真似はしない。教会や孤児院への寄進にも積極的な姿勢を見せていた。

 金銭にゆとりがあれば、ひとの心は豊かになる。

 ラファエラは生まれながらのお嬢様として、多くの領民から愛され、のびのびと健やかに成長した。

 ジニオカペラでは十七歳で成人とみなされる。

 ラファエラは春の生まれだ。若葉が芽吹き、神のつかいの白い小鳥たちが囀り、乙女は祈りの歌を紡ぐ。

 十二の春に、ラファエラはうすぼんやりと、成人後の、未来について考えていた。


「ねえ、ヨナ」


 お気に入りの椅子で足をぶらぶらさせながら、ラファエラは口を開く。

 春の夜は肌寒い。だから、寝間着に上質な毛織物のストールを巻き付けていた。

 本土より特別に買い寄せたストールは暖かく、うっかり眠気を誘ってしまう――島一番の技師に作らせた椅子と同じくらい、ラファエラは気に入っていた。

 ヨナは厚手の絨毯の上に、腰を下ろしている。

 ヨナは隻眼の老人だ。

 ラファエラに祖父母はいないが、おそらく同じくらいの年齢だろうか。左目を眼帯で覆っている。

 ヨナはラファエラが生まれたときから面倒を見てくれている、かつては奴隷だった、使用人のひとりだ。

 ラファエラが一番に心を許す存在と言っても、過言ではない。だからラファエラとふたりきりの時は、主の前でもこうして座ることを許している。

 ヨナは奴隷がゆえに、過酷な人生を送ったと聞いている。若い頃に右足を怪我して、引きずるようにして歩いているし、左手指の何本かは動かない。骨ばった老体は、長く立っているのも辛そうだ。

 本当は、椅子に座って目線をあわせて語らいあいたいのだ。

 けれど、そんなわがままを言うと彼にも、父母にも困った顔をされるから、仕方なく床に座るように命じている。

 背丈はさほど高くはない彼が座ると、なおさらこどものように小さく見えた。

 ヨナは微笑んだ。ラファエラはしわくちゃの彼が笑った顔を見るのが好きだった。

 それが愛想笑いでなければもっといいのに、と内心思いながら、言葉を継ぐ。


「あたしは五年後の春、何をしているのかしら。五年も経てば、十七歳になるわ。オトナになってしまうのよ!」


 五年なんて、ずいぶんと先の話だ。想像もつかない未来に懸念するラファエラを、しかしヨナは鼻で笑う真似なんてしない。

 ラファエラの両親は少し呆れたように笑って見せるのに。

 ヨナはさらに深く微笑みを浮かべた。


「あたしが十七歳になっても、ヨナと、おしゃべりができるのかしら?」


 ラファエラの問いかけに、ヨナはほんの少し、顔を曇らせる。

 それからモゴモゴと、皺だらけの口元を動かした。


「……ヨナは、長く生きました。この先、いつまで生きられるか、分かりません」


「もう」


 ラファエラは足を止めて、くちびるを尖らせた。


「どうしてそう、後ろ向きなの?」


(あたしと一緒にいるのが嫌なら、嫌って言ってくれたらいいのに……)


 ラファエラとヨナは対等な立場にはいない。

 それでも、ラファエラは一方的に彼を友人のようなものだと認めている。祖父と孫ほど年の離れた彼には、不思議な魅力があり、おしゃべりも上手だ。

 彼は長い時を生きて、そのほとんどを他人に尽くすために使っている。ジニオカペラにとどまらず、多くの地を流離ったという。

 夜眠れないと駄々をこねるラファエラを、遠い国のお伽噺で寝かしつけるのはヨナの役割だった。さすがに十を過ぎたら、それは淑女のふるまいではない。

 お伽噺はラファエラが退屈な勉強に飽きてしまったとき、長い雨季に憂鬱なとき、ごくたまに、不安に襲われて目が冴える夜だけに、お願いをするに留めている。

 ラファエラは故郷の話をするヨナの顔が好きだ。

 皺だらけの顔をさらに皺を深くして、微笑むヨナを見ると、ラファエラも孫が生まれたら、こうしてお話を聞かせてあげたいな、と少なくとも五年以上ずっと先の未来に想いを馳せるのだ。


「お願いよ、ヨナ。あたしがこどもを産むまで、どうか、生きていてね」


 ヨナは小さく唸る。


「ああ、ご無体なラファエラお嬢様……。年老いたヨナに、ラファエラお嬢様の、お坊ちゃまかお嬢様の面倒を見させるおつもりですか?」


「あたし、そんなにひどいご主人さまじゃないわ! ねっ、本当は、その日が来るまで内緒にしておこうと考えていたのだけれど……お父様に、お願いしているの。ヨナが働くのが辛くなったら、退職金をたくさん渡して、小さくてもいいから家を買ってあげてって」


 そのときまでに、ラファエラとお揃いのストールを買い与えるのだ。

 きょとんとした顔のヨナを見つめて、ラファエラはにんまりと笑う。


「あたし、ヨナのことが大好き! お父様よりも、お母様よりも、ずっとずっと、特別に大好きなのよ!」


「ヨナお嬢様……」


「聞いて、ヨナ。あたしは五年後、ジニオカペラ神王国のいけ好かない貴族のお坊ちゃんに嫁いでいるかもしれない。性根の腐った神子サマと〈契約〉を結んでいるかもしれない。望みは薄いけれど、島に残って、お父様のお仕事を継いでいるかもしれない。……ねえ、ヨナはどう思う?」


 ヨナは少し、考え込んで言う。


「わかりません。……しかし」


「しかし?」


「ヨナにとって、ラファエラお嬢様はラファエラお嬢様に、変わりはありません。妖精のように気ままで自由で、そして誠実な、お嬢様……」


「そう」


 ラファエラは椅子から軽やかに飛び降りると、ヨナの向かいに膝を抱えて座る。

 無作法に非難するような視線を向けるヨナへ、ラファエラは秘密話を打ち明けるように、口を開く。


「あたしね、予感が、するの」


「……予感、ですか」


 ヨナは眉をひそめた。


「あたしは、そのいずれにもならないって」


「では、どうなると?」


「お嬢様じゃなくなって、外つ国をめぐって、今とは全然違う生活を送っているかも!」


「それはそれは……」


 ヨナは口ごもる。


「予感ではなく、ラファエラお嬢様の願望では、ありませんか?」


 そうかもしれない。

 だがその予感か願望か。ラファエラの思わぬ形で叶えられるとは、そのときは想像もしなかったのだ。


 ***


 十二の秋が終わる。

 赤く色づく葉は落ち、細い枝にとまる大鴉が冬の始まりを告げた。

 農夫や猟師は冬に備えて蓄えた薪木を数え、老婆は〈悪しき獣〉が家を訪れないよう、木の実と藁で魔除けの飾りを編み始めた頃。

 ジニオカペラ神王国。

 最も明るい陽光が降り注ぐ、祝福の地と呼ばれた小さな島国で、悪質な病が流行りだす。一見風邪に似た感染症だが、感染力、致死率は著しく高い。

 一度病にかかればば命の保証はなく。

 早ければ数日、長くても数週間で人を死に至らしめた。

 有効となる医薬品は存在しない。

 それは後世、『悪しき獣の呪い』――そう、呼ばれた。

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