【11】僕の妖精
「〈妖精國〉の、入口」
それは、ローザが思い浮かべたものとは異なる。
ローザは困惑気味に、クロードの顔を見あげた。
金色の瞳はどこか遠くを見ている。見えない何かを、必死で探しているようにも思えた。
「おまえも、〈妖精國〉に行きたい?」
ローザはすぐに返答することはできなかった。
妖精の國。不思議で奇妙な妖精たち。ラファエラが話した、美しい物語の数々。
心を馳せて、憧憬していた。けれど、その地へ赴くことを空想したことは、不思議と一度としてなかった。
クロードは片膝を立てて座っていた。人外じみた美貌の青年は、耳が尖っていて、薄絹のようになめらかな翅が生えてさえいれば、妖精そのものだ。人間を魅了してやまない、魔性の妖精にいざなわれているようだった。
その色香にあてられたかのように、ローザの胸は不穏に鼓動が早くなる。
生唾をごくりと飲み込み、ローザは答えた。
「……行ってみたい、です……。でも……。こわい、です……」
「こわい?」
クロードは唇を歪めた。しかし、不快そうではなく、面白がっているように見える。
「何を恐れることがある? おまえは妖精の國が好きなのだろう? 夢のような永遠の國。何も恐れることはない」
「そうですけど、ひとりで行くのは……。あたしひとりでは、妖精たちとお話ができる自信がありません、から……」
ローザは口にしながらも、情けなく感じた。
(クロード先生が付き添ってくれるなら、心強いと言ったら……。ひどく呆れられてしまうだろうな)
それに――『妖精の愛し子』。
ランドルの言葉が、ローザの脳裏を掠めた。
廃屋、妖精の國の入口に、美貌の男の魅惑的な誘い――。
夢かうつつか、非日常的な雰囲気に飲まれて、言わなくていいことまで口にしてしまいそうだった。ローザはぎゅっと膝を抱える。
クロードは立てた膝の上に腕を乗せて、頭を寝かせた。首を傾いだまま、ローザを見つめている。
ジョヴァンニとは違って、クロードの所作は妙に幼い。銀の髪がさらさらとこぼれる。緩めた襟と、白い首の周りで、柔らかな毛先がたゆたう。
肌に触れれば、温かいことを知っている。
でも、髪は? 触れたら雪のように冷たいのだろうか。あるいは、羽毛のように柔らかいのだろうか。
捕まえてしまいたい気持ちを、ローザはぐっと堪える。
「――むかしばなしを、聞かないか?」
「え?」
クロードは微笑みを浮かべた。少しだけ、無理をして笑っているようにも見えた。
「目が冴える夜には、奇妙な物語が相応しい。ああ、安心して。ここで一夜は明かさない。けれど、このまま家に帰っても、おまえは眠れないだろう? ちょっとだけ、つまらない話でもすれば、眠くなるだろうから」
「……先生の話は、つまらなくなんて、ないですっ」
「そうだといいけれど」
反論するローザに、彼は小さく笑ってみせる。
それから、ぽつり、ぽつりと話し始めた。
「この古ぼけて、風化して、〈悪しき獣〉でも棲みついていそうなお屋敷は……かつては、『お姫様』が住んでいた小さな『お城』だ」
以前、彼が口にした、母親のことだと、ローザはすぐに思いあたる。
「『お姫様』は『王子様』と幸せに暮らした。彼らの間には、ひとりの男の子が生まれた。母親譲りの、陽のような金髪と。父親譲りの、夜を閉じ込めた黒い瞳を持った、やんちゃで、好奇心旺盛で、手のかかる、そんな男の子だったらしい」
「陽のような金髪に、夜を閉じ込めた黒い瞳……」
ローザは反芻しながら、クロードの顔をまじまじと眺めた。
金色の瞳は翳りを帯びながら、夜闇に怪しく光る。月と星の明かりに、銀糸は淡く輝いているように見えた。
ローザの戸惑いを置いてけぼりに、彼は続けた。
「『お姫様』が愛されたのと同じく、男の子は愛されたらしい」
「先生、それは……」
クロードの記憶は殆どが失われていると、彼は以前語っている。
クロードは首を振る。
「夢のように不確かな記憶の中で、おぼろげに愛されていた。そのように、僕には見えるけれど。今では遠い想い出に、確信は持てない」
「…………」
「『お城』には一枚の絵があった。入手経路は定かではないが、『お姫様』が『お城』に来ると同時に飾られた。妖精の祝福を受けた一枚の〈星葬画〉だ。当時、男の子はそれに宿る妖精が見えなかったし、それが世間一般に呼ばれる、〈妖精画〉と呼ばれる類のものであることが、分からなかった。ただ――その絵を無性に好いていた。雨が降って、庭で遊べない退屈で憂鬱な日は、一日絵を眺めていても、飽きないくらいに」
「その〈妖精画〉は、どんな絵だったんですか?」
「美しい湖畔だ。瑠璃色の。ちょうどおまえが描いた〈星葬画〉と同じように。妖精の國の湖ではあるが、そもそも男の子は湖どころか、海や河ですら目にしたことがなかった。今思えば、見たことのない景色に、憧れていたんだろうね」
空想の湖を想像して、目を輝かせる男の子は、さぞ愛くるしいことだろう。
ローザの頭の中では、〈妖精画〉を前にして太陽のように輝く笑顔を浮かべる、小さな男の子の姿が像を結ぶ。
「男の子が七つのとき。事件が起こった」
クロードの声が固くなる。美しい顔に、わずかに陰鬱な色が滲む。
「お城に物盗り……『悪しき獣』が押し入った。『お姫様』と『王子様』、その家族や使用人たちは殺された。その日は祭日だった。使用人の大半は『お城』から離れていた。被害が最小限に食い止められたのは、不幸中の幸いだろう」
凄惨な事件に、幸いもないだろうと、ローザは思った。
だが、それよりも。ローザには気になることがあった。
「……お、男の子は、どうなったんですか……?」
ローザはクロードに手を伸ばしかける。彼が幻ではないか、と一瞬疑ったが、冷たくかさついた手を、ローザは覚えている。
それでも、目の前に座る彼は、指先でも触れたら消えてしまいそうで、ひどく不安に思うのだ。
クロードはローザの手を取った。その手はやはり、温かい。
「事件が起きた日、男の子も『お城』にいた。しかし、彼だけは一夜にして行方知れず。当時はだいぶ騒がれたらしいよ。人の不幸は同情を誘い、悪行は正義感を呼び起こし、誰にも解けない謎を前に、感興を覚える……」
彼自身はつまらなそうに、言葉を紡ぐ。
「しかし、鮮度のない話題は次第に飽きられる。一年後、事件のことなんて誰もが忘れた頃になって男の子は再び現れた。燃え上がる〈星葬画〉――かつて、男の子が愛した〈星葬画〉の下に、以前とは異なる容姿を以って」
金色の瞳は月の光を帯びて、冷ややかだ。
「母親譲りの陽のような金髪は、初雪のような銀髪に。父親譲りの夜を閉じ込めた黒い瞳は、夜の魔物じみた金色の瞳へと変貌していた。事件の夜を含め、向こう一年の記憶を喪失し現れた男の子は、失うものばかりだ。引き換えに、とても美しく、尊い、称号を授けられることになった」
クロードは一度、口を閉じてから。重く口をひらいた。
「『妖精の愛し子』と」
ローザの胸がどきんと跳ねた。
「妖精に愛される容姿にすげ変わり、一年の空白期間をもって、この人の世に再び帰ってきたんだ。その言葉には純粋な好意以外の意味が含まれている。男の子はすぐに、込められた悪意に気づいた」
クロードは寂しげに、口元を緩めた。
「妖精。ひとではない、とつまはじき者にされているようだ。男の子には両親や祖父母はいない。帰る『お城』もない。おまえの居場所はここにはない、と言われているようだった」
ローザはぎゅっと、スカートの裾を握った。
今すぐ、このひとを抱きしめたい、と強く思った。
けれど、いつか彼を『妖精の騎士』と呼んだローザには、その資格はない。どうして、あんなことを、口走ったのか。ローザはひどく後悔した。
「ともあれ、何らかの妖精の干渉を受けたのは確かだろう。戻ってきた男の子は姿見が以前と変わっていたし、見えなかった妖精の姿がいつの間にか見えるようになっていた。だが、ひとつだけ……人とは変わった特徴を持っていた」
クロードはスカートの裾を握りしめるローザの手をそっとほどくと、再度、胸元に引き寄せた。
「おまえも、僕の心に触れられない」
ローザは喉が詰まった。
「できないだろう?」とでもいうように、彼は微笑んでいる。
触りたくても触れないのだ。ローザはクロードをじっと見つめた。
「男の子の魂に触れることは、誰しもが叶わない。『悪しき獣』も、事件の現場には足跡を残さず、未だ事件は解明されていない。その鍵が男の子にあると睨んで、多くの画家が男の子の魂に手を伸ばした。結果、触れたのは、夜の闇より深い、塗りつぶされた一面の黒だ」
「ジョヴァンニさまでも見えないと言ったのは……」
クロードはローザの手を戻すと嘆息する。
「男の子は、その才覚を見込まれて、画家トラヴィスに引き取られた。成長した男の子は〈妖精画家〉、そして〈星葬画家〉となった。男の子が……つまり僕が〈妖精画〉を描き続ける理由は、以前、おまえに話したね」
「絵を、描きたいから……」
「そう。あのとき僕は、ひとつの嘘をついた。僕はただ、憧れていた。求めていたんだ。その景色をかたちにすることで、扉がつくられると、信じていた。不純な動機さ」
クロードは長いまつげを震わせた。かたちのよい唇が微笑みをつくっていた。
「そうだよ。僕は再び、〈妖精の國〉に、行きたい」
クロードは虚空に手を伸ばし、ぎゅっとこぶしを握る。
「〈妖精の國〉に行けば、男の子は再び、人間の子に戻る方法を見つけられると思った。心を覆う暗闇が晴れると望んだ。置き去りにしてしまった、多くを取り返すことができると願い信じた。この十数年のあいだ、男の子はありとあらゆる文献を読み漁り、多くの〈妖精画〉に触れた。いずれも〈妖精の國〉の扉が開くことはなかった。それでも、諦めきれなかった。そんなときに出会ったのが――」
クロードの瞳がローザを見据えた。
「――ローザ。おまえだった」
ローザはうろたえた。
彼の切なげな声音には、わずかな希望が宿っているようだった。まるでローザが、彼の期待に答えられるとでも言いたげな口ぶりで言われても、ローザには思いあたる節がない。
だからローザは消え入りそうな声で、呟く。
「……あたしには、そんなこと」
「古き魔法使いは『永遠』の魔法を描く。とこしえの楽園、〈妖精國〉に通じる〈妖精画〉を描ける者こそが、真の〈妖精画家〉と呼ばれる。そして……」
彼は歌うように諳んじて、途中で口をとざす。
「先生?」
「確証はない。でも、可能性は高い。僕はそれに、賭けたい」
金色の瞳はどうして、ローザの心を惹きつけてやまないのだろう。濡れて、戸惑いがちな瞳にひとたび捉えられれば、ローザはたちまち視線が離せなくなる。
「あの日失ったものを、奪われたものをすべて取り戻すことはできなくとも。それでも僕は真実が知りたい。それは〈妖精國〉に行くことで、解決するとは限らない。それでも、それでも、僕は……」
彼の瞳から、涙が零れ落ちそうになったその時。
ローザは声を張り上げた。
「あ、あたしがあなたの、妖精になりますっ!」
(もし、先生が〈妖精の愛し子〉であれば……。あたしは、先生の妖精になりたい)
自分でもひどく愚かだと思った。
ローザは人間だし、彼の言うような特別なちからはない。〈妖精画〉が描けるのは彼と同じだ。
クロードの両手が、ローザの手首を掴む。大きな手のひらは泣いてすがる、こどものように頼りない。
だから、失ってばかりの男の子に、美しいものを授けたい、とローザは願う。
希望を与えたい、と願う。
きれいでその場しのぎな、都合のいい言葉は彼を傷つける。
誠意ある約束を誓いたい、とローザは思うから。
きょとんとしてクロードは聞き返す。
「おまえが僕の、妖精に?」
いつか彼に事実を明らかにしてあげたい。
「はい、だからっ、そのっ……。クロード先生。あたしいつか、あなたを、攫いたい。〈妖精の國〉へ連れ去っても……か、かまいませんか……?」
決意こそあっても、声は震えて、最後は尻すぼみになってしまう。
しかし、クロードはそんなローザを笑ったりはしなかった。
ひどく真面目な顔で問いただす。
「おまえに、そんなことが、できるというの……?」
その声色はひどく不安に満ちていて。
だから、ローザは精一杯はにかんだ。
大切なことは、彼が教えてくれた。
「じ、自信のない様子を依頼人の前で見せてはいけない、ですっ。そして、不安を抱かせてもいけません……! だって、あたしは、あなたの、画家、なんですから……!」
クロードはくちびるをきゅっと引き結ぶ。
今にも暴れ出しそうな何かを、堪えるかのように。
それから、ちょっと困ったような顔で口にする。
「……依頼人、ね。まだ僕、依頼もしていないのに?」
「そうでした! だったら、依頼をしてください、あたしに! 『僕を〈妖精の國〉へ連れて行って』って……! あたしが必ず、先生を連れ去ってみせる、から!」
胸をはり堂々と言い放つと、彼はぽかんとした顔をする。ローザも同じく不思議そうな顔をして見つめ返すと、やがて腹を抱えて、大声で笑いだす。
こんなふうに、年相応に笑うクロードを見るのは初めてだった。
(な、なんで、先生笑うの? じょ、冗談だと思われたのかな? あたし、けっこうまじめに言ったつもりなのに!)
「せ、先生? クロード、先生?」
情けない声で名前を呼べば、満足したのか、笑いを引っ込めたクロードは目元を拭う。反対側の彼の目元には、朝露のような透明な涙が浮かんでいた。
「誘拐予告だなんて、僕の弟子は大胆不敵だね」
「えっ、その、悪意とか、邪念は、一切、ないです……?」
ローザは慌てて両手を振る。
クロードはその手を優しく掴み取ると、頬を摺り寄せた。
「このおまえの手で。僕のために〈星葬画〉を描いて、ほしい」
「……はい」
震える声で名前を呼ばれて、断れるものか。ローザは力強く頷いた。
「そして、ローザ。僕の妖精。僕を、〈妖精の國〉へ誘って」
「はいっ!」
彼は顔をほころばせた。
彼が本当に、心の底から笑える日が来るとしたら。
その隣に立っていたいと、ローザは強く、願った。
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