【10】夜に駆ける
「せ、先生っ、痛いです……!」
強く握られた手首は焼けつくように、熱く痛みを感じた。
クロードは華奢で頼りない体躯をしている。それなのに、どこからこんな力が出せるのだろう。
ギレッド家の屋敷から飛び出したのち、しばらくのあいだ、ローザとクロードは歩き詰めていた。
夜の気配に空はほの暗い。大地はゆっくりと時間をかけて翳りを帯びていく。
通りにぽつねんと立つ街灯が照らす道を、ローザとクロードは言葉もなく辿っていく。
土地勘のないローザにはそれが帰路であるかもわからない。どこに続く道なのだろうと、ただぼんやりと考えながら、歩を進めていた。
豊かな白銀の髪に、どこか寂しげな金色の瞳。剣を取るにしては頼りない体躯。背中に翅は生えていないけれど、憧れていた、『妖精の騎士』さまみたいなローザの先生。
眩しい太陽の下で陽気に歌いながら踊るよりも、さめざめとした月明かりの下で静かに佇む姿のほうが、ずっとずっと絵になるだろう。
背が高いのに猫背気味だから、ローザと話すときは目線が少しだけ近くなる。昔は苦手だったそれも、最近では嬉しく感じている。あまり笑わないから、いつも不機嫌そうに見える。けれど、内心はとても感情が豊かで、繊細で、優しいひとだ。
寡黙で、絵や仕事に関すること以外にはどうにも言葉が乏しい。しかし、ひとたび彼の好きなことを語らせれば、その瞳はきらきらと輝きだす。
彼のひととなりを知れば知るほど、彼の弟子を名乗るには、不相応だと、ローザは思う。
「先生……」
弱弱しい声で再び彼を呼ぶと、クロードはようやく今気がついたようで、ぱっと手を離した。
「ごめん。考えごとに夢中になっていた。……悪かった」
彼は足を止めると、今度はローザの少しばかり赤くなった手首を心配そうに撫ではじめた。
クロードの指先はかさかさに乾いていて、荒れていた。ほのかにあたたかい。あの夜、ローザを連れ出そうとした時のように。
「絵に、手を伸ばしていたけれど。火傷はしていない?」
「先生が止めてくれたから、怪我は、ないです……。その、ありがとう、ございます……」
頭を下げるローザの声は固い。
嫌味らしく聞こえただろうか。そんなつもりはなかった。彼はローザが怪我をしないように守ってくれたのだ。だから彼は恩人だし、感謝している。
顔をあげてそっと彼の表情を窺う。
クロードは唇をきゅっと引き結んでいる。ローザは戸惑った。痛みを懸命に堪えているような、なんだか今にも泣きだしそうにも見えるのだ。
「……でも。必要とされなくなったら。使い物にならなくても、何も問題は、ありません……」
卑屈になりながら、ローザは言った。
『異端』と呼ばれる絵を描いた。とんでもない罪を犯したのだと、批難された。結果として絵は廃棄された。
それは仕方のないことだとローザは思う。自分でも納得の上だ。
けれど、心をこめて描いた『異端』ではない〈星葬画〉であっても。その絵が受け入れられることはなかった。
確かめる機会をクロードは作ってくれた。けれど、ローザの疑心は、チェスターには見透かされていた。『正しい画家』ではないと認めてもらえなかったからだ。
チェスターのように、ローザの絵を否定し拒絶するひとたちばかりであれば。この右手が使い物にならなくなっても、何の不便はないだろうと思った。
それなのに。ローザの言葉を受けて、クロードはわずかに眉をひそめた。
「なぜ、そのようなことを言うの?」
「……え?」
「必要だ。必要に決まっている。どうしてそれほど、愚かであるの。僕の弟子は。それ以上に奴らは愚かなのに……」
沸々と怒りをこぼすクロードを、ローザはぽかんとして見上げた。
これでは当事者であるローザよりも怒っているように見えるではないか。
あのクロードが、だ。
「あれらが不要と切り捨てたところで、僕が求めている。だっておまえは……僕の〈星葬画〉を描くのだから」
意外な言葉に、ローザは目を丸くする。
「先生の、〈星葬画〉を……あたしが、ですか?」
「うん」
クロードはローザの右手を優しく両手で握ると、自らの胸の上に導いた。
シャツを通して、薄い胸板から穏やかな心拍音が感じとれる。
「ひゃぁ!?」
ローザは何だかいけないことをしているような気持ちになって、思わず声が上擦った。
どうしてこのひとは、こうも無自覚で、ひどく無防備なのだろう! 無垢で可愛らしい『王女様』のように。クロードはきっと、母親に似たのだろう。
ローザがどきどきしたり、腹を立てたり、顔を真っ赤にしたり、泣きたくなったり、心配になったりする一方で、クロードはそっと目を閉じていた。
額にかかった髪はつややかで、肌は陶磁のようになめらかだ。ぞっとするほどにつくりものめいた美貌でも、凍るような冷たさはなくて、こうして触れてみるとほのかにあたたかい。一定に刻まれる鼓動はひどく心地がよかった。
「僕の、魂が見える?」
「……見えません。あたしは、真っ当な画家ではないから」
半端者のローザには見えない。
彼も知っているだろうに。告げる口は重い。
ローザは画家として、必要な才能が欠けている。
クロードは瞼をひらくと、首を横に振る。
「おまえの言葉を借りれば、すべての画家は真っ当ではなくなってしまうよ」
彼はわずかに口角をあげた。
「おまえだけではないよ。師トラヴィスも。ジョヴァンニも。誰も彼も、僕の魂に触れることはできないのだから」
ローザは驚いて訊ねた。
「ジョヴァンニさまも、ですか?」
クロードは小さく頷くと、ローザの手を離した。
「ここからまた少し歩く。かまわない?」
「はい……」
ローザが頷くのを見て、クロードは再び歩み始める。ローザは彼の少し後ろを続いた。
ゆるやかな歩調は、ローザと歩幅を合わせてくれている。そういうささやかな優しさに触れるたびに、ローザは彼を好ましく思うのだ。
クロードの足取りには、やはり迷いがなかった。
歩いた距離はそう長くはない。ギレッド家の屋敷一帯は、きらびやかな豪邸が建ち並んでいる。通りを抜けて歩くと、次第に落ち着いた景観へと変わっていく。
細い小路の奥まった場所が彼の目指す目的地のようだった。
黒い門の前で、クロードはぴたりと足を止める。
もとは立派なお屋敷だったのだろう。長らく人の手が入っていないのか、そこは廃墟と化していた。ところどころに錆びが見られる門は、鎖で堅固に縛られている。
クロードは門を、その奥に見えるお屋敷を見やったのち、煉瓦の積み重ねられた壁づたいに歩き始めた。
彼がふたたび足を止めたとき、壁にはおとなひとりが通れるほどの大きな穴が開いていた。
クロードは軽く上半身をかがめると、躊躇うことなく穴を通り抜ける。
これは、不法侵入ではないか。心配になるローザとは裏腹に、クロードはいたって堂々とした様子だった。
迷っている間にも、クロードの背中はどんどん小さくなっていく。
「お、お邪魔します……」
誰にともなく小さな声で言うと、ローザは穴を潜り抜ける。
ローザはきょろきょろとあたりを窺った。
広い庭もずいぶんと荒れ果てていた。水の枯れた噴水。砂埃の溜まった石畳の小径。枯れた草木はぼうぼうに伸び、芝は剥がれ、土がむき出しになっている。野ざらしになった馬車。砂の詰まった鉄製のじょうろ。腐食した木のお椀……。
かつて人間が住んでいたであろう形跡を残しながら、どれほどの長い間放置されていたのかは不明だ。
先を行くクロードはお屋敷の玄関の扉を開こうと試みていた。しかし、鍵がかかっているのか、扉はぴくりとも動かない。
「……開かないね」
とくに落胆めいた声色でもないのは、もとより期待は捨て去っていたからか。
クロードは大きな扉の前に座り込む。それから彼は上衣を脱ぐと、すぐ隣に敷いた。
「ここに座って。お姫様みたいな格好が汚れないように。せっかく、髪型も可愛くしたんだから。おまえのデビューは華々しいものにすると、決めていたからね。僕はおまえの先生だから」
彼の上衣も汚れてしまう、とローザは躊躇ったが、クロードに手首を引かれ、ローザは腰を下ろす。
「ここ、どこだと思う?」
ローザにはひとつだけ心あたりがあった。
『お姫様』の住んでいた新しい『お城』――クロードの実家だ。
しかしそれを口にする前に、クロードは答えを告げる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます