【8】素直になれない男たち

 ロジャーは、ベティに恋をしている。

 初恋である。

 ベティは美人だ。笑顔が可愛い。それに、世話焼きの彼女は、年上のロジャーが頼りなく思えるのか、『姉』のように接してくれる。

 今まで異性に優しくされたことのないロジャーが、コロリと恋に落ちてしまうのは、至極当然の成り行きだった。

 その恋心を知っているであるランドルがなかなか声をかけないことに、ロジャーは内心、やきもきとしていた。


(ラファエラ・モッロの孫娘に興味はありませんが、ベティと近づける、この上ないチャンスです……!)


 ベティが着飾った格好を、ロジャーは一度も見たことがない。

 不憫にも、彼女の家は生活に余裕がないので、暮らしに見合った慎ましい身なりをしているのだ。

 ランドルに言わせれば「若いのに所帯じみて、まさに母ちゃんって感じだよなぁ~」とのことだが、ロジャーは否定したい。

 ベティはまだ見習いの身で、〈星葬画〉を一枚も描いていなかった。

 できることならロジャーがパトロンになりたいのだが、実績のない彼女を庇護する理由には、いささか弱い。

 聞けば、ジョヴァンニからの援助も断っているそうだ。

 その謙虚かつ高潔な姿勢は、尊敬に値する。

 裕福な商家でのお披露目の機会だから、普段は質素倹約なベティも、気合を入れた格好で挑むだろう。


(見たいなぁ、ベティがドレスを着た姿……。彼女に似合うのは、派手な赤いドレス……いやいや、落ち着いた青のドレスも捨てがたい……。露出は多めで、恥じらう彼女をエスコートするのは、この僕……)


 グフグフとロジャーが幸せな妄想に耽っていると、無情にも、ジョヴァンニが言った。


「他に行きたい人がいないのであれば……。ベティ、ランドル。連れて行くのは、二名としましょうか」


(えっ!? ちょちょちょっ、待ってくださいぃぃぃ……!)


 ジョヴァンニが手首の時計を見て、早々に打ち切ろうとしている。ミーティングの予定時間を超過していた。仕事も押している彼は、これ以上時間を割けないと判断したのだろう。

 ベティは心底嫌そうな顔をしていたが、しかし他に手を挙げる者はいない。

 行きたい。行きたい。三人目の枠に、是非とも入りたい。

 それでも、ロジャーは素直に手を挙げられない。

 ロジャーはローザとの接点がない。それどころか、ローザを快く思っていない一派と思われている。それが理由であった。

 ロジャーはちらり、とマークの顔を窺う。

 伯爵家嫡男で、時期当主の座が決まっているマークは王家への傾慕が強い。

 ある意味王家に喧嘩を売ったに等しい、浅慮な小娘ローザに対して、以前から嫌悪感を露わにしていた。

 家ぐるみで友好な関係を築き、個人的にも同僚で親しくしているマークやランドルだが、しかし立場上は対等ではない。

 ジョヴァンニは〈ミュトス〉にいる以上、貴族も平民も垣根はないと言い渡しているが、ロジャーは子爵家の出。今後の付き合いを思えば、彼らに強くは出られまい。

 ランドルも頭の悪い振る舞いをしているが、あれでも一応は伯爵家の子息。

 マークとは対等に渡り合う彼はとんでもない気分屋だ。気まぐれにローザの絵を見たいと言い出したランドルを不快に思っても、咎めることはないだろう。

 ここで手を挙げるのは、マークに対する反意と同義だ。

 だから、ロジャーは躊躇い、なかなか手を挙げられずにいたのである。


(ランドル、ランドル! 心の友! お願いですから、僕にも声をかけてください……!)


 必死の形相でランドルを見つめていると、頬杖をついた彼は視線に気づいたようだ。

 バチン、バチンと、慣れないウインクをして合図を送ると、ランドルは意地の悪い笑顔を浮かべてみせた。

 そのネチョっとした笑みは、嫌な予感しかしない。


「ね~ジョヴァンニせんせ。ちょっと待ってくんない?」


「どうしました、ランドル?」


「三人目だけど、連れてくのはマークにしない?」


(どうしてそこでマークを押すんですぅぅぅぅぅぅぅ!?)


 この男、正気かと、この場にいる誰もが思ったに違いない。

 弟子の意志を尊重するジョヴァンニも、流石にこの発言には疑ったようだ。

 だが、否定はせず、真面目な顔つきでランドルに問いかけた。


「なぜ、マークの名を上げたのです?」


 ***


 先代トラヴィス・ブルーは予兆もなく倒れ、この世を去った。


「年老いた彼が心臓の発作を起こすのはそう珍しいことではない。ま、寿命ですな」

 と、彼の死体検分を行った医師は言ったらしい。その言葉に疑う余地はないだろう。

 ともあれ、彼の死は〈ミュトス〉に大きな混乱を与えた。彼は明確に後継者を定めていなかったからだ。

 トラヴィスの死後、〈ミュトス〉は大きく二つの派閥に別れた。

 一つ目はトラヴィスと歳が近く、〈ミュトス〉の創立に携わった一員ブライアン・ルースを親方に推挙する派閥、『実業重視派』。

 二つ目はトラヴィスの一番弟子であり、若くして才気溢れるジョヴァンニ・モローを親方に推挙する派閥、『育成重視派』。

 前者に属するのは、比較的年嵩の画家で、反して後者に属するのは、ジョヴァンニの弟子たちだ。

 『実業重視派』の思想は、トラヴィスという柱を失った今、元より利潤の薄い〈ミュトス〉の建て直しを図るためにも、画家の育成より、利益を一番に追求した運営を重視する――年若き画家の成長を推進する〈ミュトス〉の理念とは、あまりのもかけ離れたそれである。

 『育成重視派』は対して、〈ミュトス〉の理念を重視した。

 〈ミュトス〉の代替わりにおけるお家騒動は、画家業界中の注目を集めた。それは〈ミュトス〉を重用する王家も同様である。

 なかなか決まらない、その調停役を買って出たのは、当時まだ幼い、第三王女アンジェリカ・ミル・オネドスクだった。

 二人を王城に呼びつけたアンジェリカは、双方の意見を耳にして、それぞれに問いかけた。


「ブライアン・ルース。そなたは利益の出せぬ、若い画家は切り捨てるのか?」


 忌憚なく切り込んだ質問に、ブライアンは怯まなかった。


「結果的には、そう取られても仕方があるまい。〈ミュトス〉では力不足だった、それだけの話です」


 ブライアンは微笑み、幼い王女殿下に言い諭すように口にする。


「若い画家の育成に意欲的な組合もございましょう。時が来るまで、その役目は他所に任せるまでのこと」


(まるで、他人事のようだ)


 ジョヴァンニは内心、腹を立てていた。こんな狸ジジイが、〈ミュトス〉の親方になるなんて、絶対にあってはならない。

 ブライアンは実力や名声こそ見れば、確かに〈ミュトス〉の親方には相応しい。

 だが、年若き画家の芽を摘むことを厭わない冷酷さは、〈ミュトス〉の思想に反する。友トラヴィスへの、裏切りであり、最悪の餞だ。


「ふむ」


 幼い王女殿下は続けて訊ねた。


「その時は、いつ来ると?」


「明確に答えかねますが、私が親方となれば、長い時間はかけません」


 若者にとっての数年は、とても貴重なものだ。ブライアンは老人なので、その感覚を忘れてしまったのだろう。

 これだから棺桶に片足突っ込んだジジイは。

 ジョヴァンニは貼り付けた笑顔の下で、ひっそりと毒づいた。


「ほう。次に、ジョヴァンニ・モロー」


 深いグリーンの瞳が、ジョヴァンニに向けられた。

 幼くも、気迫のある、凍り付きそうな鋭い瞳に、二十代半ばのジョヴァンニは思わず気圧されそうになる。


「そなたは、若い画家を見捨てぬと」


「ええ。私は〈ミュトス〉のあるべき思想を遵守いたします」


「青いな。甘い理想を容易く口にする」


 ジョヴァンニよりも遥かに年若い王女殿下は一蹴する。


「理想を実現するための現実は見えているか?」


「はい。私の私財は当然、グリフィン侯爵家の資産を投げ打ってでも、実現させます」


 ブライアンはギョッとした顔でジョヴァンニを見た。

 アンジェリカは驚いた様子を見せず、愉快そうに笑みを深める。

 ジョヴァンニはグリフィン侯爵家の末の子で、家督は望めない。当然、財源を引き出す権利もない。

 つまり、はったりである。


(まあ、なんとかなるだろ)


 父グリフィン侯が四十を過ぎ、母も三十代後半に「うっかり」生まれたジョヴァンニは、両親から愛され、年の離れた兄たちからも可愛がられ、スクスク健やかに成長した。

 普段は優等生を演じるジョヴァンニだが、多少のワガママも聞いてはくれるか。

 若さ故に、根拠のない無責任な発言は、今のジョヴァンニが耳にすれば、頭を抱えたことだろう。


「父は友人に恵まれておりますので、彼が声をかければ多くのパトロンも得られましょう」


 これも保証はないが、実際のところ、グリフィン侯爵家に『取り巻く』人間は多い。彼が声をかけずとも、支援を申し出る者もいるだろう。


「また、有難いことに、私は父から期待を受けています。ですが、仮に〈ミュトス〉を離れるとなれば、その支援も取りやめることになるでしょうね」


(これは私が言わずとも、父は勝手に止めるだろうな)


 ニッコリと、ジョヴァンニにできる最大限の微笑みを浮かべて言えば、もう勝敗は決まったようなものである。

 若い王女殿下は、呆れた顔をしながらも、結果としてジョヴァンニを推薦した。

 つまりは、金と権力に物を言わせて、ジョヴァンニは〈ミュトス〉の親方の地位をもぎ取ったのである。

 王家の下した判断を、ブライアンは受け入れられず、彼を筆頭に多くの画家が離反した。

 結果残ったのは、ジョヴァンニを師と仰ぐ、年若い画家ばかりである。

 マークはローザを〈ミュトス〉から追放するよう、ジョヴァンニに度々申し入れていた。

 王女の後ろ盾があるとはいえ、今の〈ミュトス〉は安定とは言い難い。

 そんな状況下で、彼が言う通り、かのラファエラ・モッロの孫娘といえど、〈異端画〉を描いた画家を抱えるのは、高いリスクを伴うのは明白である。

 代替わりの経緯もあり、〈ミュトス〉内の画家の対立をジョヴァンニは望んではいない。

 だが、多少の不和も仕方がない、と割り切ることにはしていた。

 私情を抜きにしても、過剰なほどローザを排斥しようとするマークの意見を、表面上は受け流しつつも、ジョヴァンニは真摯に受け止めていたのだ。


「マークは、新入りちゃんの描いた絵が、気にならないのかよ~?」


 ジョヴァンニの問いかけには答えず、ランドルはマークに話を振る。

 唐突に話を振られたマークは、画家というよりは伯爵家の嫡男に相応しい、隙のない着こなしで、椅子に悠然と座っていた。

 名指しに不服なのだろう。鼻の頭に皺を寄せて、無言である。


「ランドル。新入りちゃんではなく、ローザと名前を呼んでください」


「はい、せんせ。じゃ、言い換えるけど、〈異端画〉を描いた期待の新星ローザちゃんが、どんな絵を描くか、気にならない?」


「……気にならない」


 むすっとした声色で、マークはそっぽを向いた。


(おや?)


 どこか子どもっぽい仕草が、ジョヴァンニにはやけに引っかかる。

 親方として、弟子たちに寄り添い、細かく気を配るからこそ、人間関係には鋭敏である自覚があった。

 特に色恋沙汰には関心を寄せている。現代では古い思想だと弟子たちからは笑われそうなものだが、人間が落ち着くためには、やはり家庭を持つことが一番だ。

 ジョヴァンニは馬鹿にされそうなので公言こそしないが、ひっそりと恋愛活動を推奨している。

 ロジャーがベティに片思いしていることとか、ティムが幼馴染の許嫁を大切に思っていることとか。

 しかし残念なことに、女性陣は恋よりも仕事を重視している中で、期待の新星ローザはいち早く、恋心が芽生えそうな様子を眺めるのが、仕事に殺されそうなジョヴァンニのささやかな楽しみであった。


「マーク」


「……はい」


 名を呼びかければ、顔を背けながらも、彼は律儀に返事をする。


「君は、ローザを認めてはいませんね?」


「……ああ」


 どこか迷いを含む声を耳にして、ジョヴァンニは思わず吹き出しそうになった。


(ああ、私の弟子たちは、なんて可愛いらしいのでしょう!)


 ジョヴァンニは緩む頬を引き締め、キリリ、と真面目くさった表情で諭す。


「マーク。私は君の考えを、否定するつもりはありません。とはいえ、気に入らないという私情を理由に〈ミュトス〉を追い出すのは、野蛮で紳士的な行いではありません」


 結果的に、「私の足を引っ張るなら、新しく老人会でも作ってくださいます?」と、老害連中をまとめて叩きだした過去を棚に上げつつ、ジョヴァンニは続けた。


「ローザが改心したか、見届けたうえで、君の意見をいただけますか?」


 もっともらしい理由をつけていうと、マークは渋々という顔で頷いた。


 ***


(き、決まってしまった……)


 呆然と椅子に座るロジャーに、ランドルはニヤニヤと笑いながら、コッソリと耳打ちする。


「安心しろよ、ロジャ~。ベティの着飾った姿の感想も、後で教えてやるからさ!」


 ロジャーは何も言えず、力なく項垂れた。

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