【6】初めてのサイン
〈星葬画〉の題材を決めて、ローザはいざ絵を描き始める。
それからも何度か、アデルのもとを訪れた。彼女に途中経過を見せるためだ。
ああでもない、こうでもない、とコリンや使用人たちも会話に加わりながら、想い出の再現を試みる。
実際に、ローザとクロードは彼女がプロポーズされたという避暑地に赴いてもみた。
澄んだ湖の周辺には、見覚えのある草木花が数多く群生している。ローザは少しだけ、バセットの村のことを懐かしく思った。
クロードとふたり、小舟にも乗った。
湖の真ん中で梶を片手に「体力が尽きた」と言い始めたときには、ローザはひどく絶望したし、本気で後悔もした。
しかし、普段は引き籠りがちのクロードも、帰りがけには充足感を覚えているように見えたので、結果的には彼と足を運んでよかったと、ローザは思った。
(このままいけば、順調に〈星葬画〉が完成する……)
けれど、ローザにはひとつ懸念があった。
チェスターの存在だ。
チェスターとは初めて顔を合わせて以降、未だ会う機会に恵まれていない。意図的に避けられているのかもしれなかった。
彼はローザが絵を描くことを、未だ認めていないだろう。
(でも、大丈夫……。みんな、信じてくれているから……)
ローザは自分に言い聞かせて、迷いを振り払った。
そしてローザは、アデルの〈星葬画〉を完成することができたのだった。
***
「できたっ……! アデル様の〈星葬画〉、描けたっ……!」
ローザは筆をおき、ぐぐっと躰を伸ばした。
長時間同じ姿勢でいたので、躰が凝り固まっていたのだ。
「……好き」
ローザの後ろに座っていたクロードが、絵を覗き込むと言う。
ローザはぎょっとして躰をこわばらせる。顔がとても近い。絵に集中するあまり、存在を忘れていた。
「おまえの絵、本当にいいね」
「あ、ありがとう、ございます……」
金色の瞳は、いつ見てもドキドキする。クロードは訝しげに、ローザに視線を送った。
「え、な、なん、ですか?」
「絵に、サインは書き入れないの?」
「サイン……」
ローザが反芻すると、彼は合点がいったように頷く。
「もしかして、サインの存在を知らない?」
「し、知ってます。でも、あたし、自分の名前、書けないんです……」
村では数字さえ読み書きできれば、生活に苦労することはなかった。ローザに手紙を送る相手はいなかったし、書物は稀少だ。手に取る機会もなかった。
だが、彼の指摘はもっともだ。
これがローザの描いた〈星葬画〉であることを示すために、絵に名前を書き入れる必要がある。
ローザが困って顔を俯けると、クロードは迷いなくローザの手を取った。
「えっ!? せ、先生!?」
「ほら、筆をとって」
「あ、はっ、はい」
ローザは筆をしっかりと握る。
クロードは手を筆に添えるよう、ローザの手を握りなおす。
一回り大きい彼の手が、ローザの手と筆を導いた。完成したばかりの絵。右下の目立たない場所に、ゆっくりと、小さな文字を書き入れていく。
少々震えているが、書けた文字の羅列――読めなくとも、それがローザの名前であるとわかった。
「ローザ。おまえの名前はこのように書く。……美しい名前だな」
耳のすぐ横から、クロードの囁く声が聞こえた。それから、くすり、と小さく笑う声も。
ローザと言う名前は、ラファエラがつけてくれたらしい。
だから、ラファエラのことを褒められているようで、嬉しかった。ローザの口元が、ムズムズとする。
それから位置を立ち直し、フムと腕を組みながらクロードは呟く。
「……僕からすれば、改善すべき点は多々見られる。でも、僕がそれを指摘すれば、おまえの描いた絵の良さが殺されてしまう」
クロードはちらり、出来上がったばかりの絵に向ける。
「おまえたちが、作った絵に口を出すのは、無粋だものね」
(おまえたち?)
ローザは首を傾げる。意見を出し合ったアデルやコリンのことだろうか。
疑問に思ったが、クロードはどこか満ち足りた顔で絵を眺めていたので、追及するのは憚られた。
ただ、どうしても、彼に伝えたい言葉がある。
「クロード、先生」
「ん?」
「あたし、先生が先生で、良かったと、思います」
ローザはくしゃり、と不器用な笑みを作った。
「あたしを見つけてくれて、ありがとう、先生」
クロードが先生で良かった、と心の底から、本当に感謝している。
クロードが一歩引いたところから、ローザが絵を描くのを見てくれているだけで、ローザは画家として、一歩一歩、着実に歩んでいけると、そう思うのだ。
「そう」
クロードはぶっきらぼうな口調で言った。
「僕も、同じかな」
クロードはローザの頭の上に手を翳す。ローザが視線を上に向けると、ふわり、と淡い輝きがクロードの指先に触れ、小さく揺れ落ちる。
(妖精が、来たっ……!)
ひとつ、ふたつと儚く、それでいて力強い輝きが、止まり木のようにして、〈星葬画〉にその身を落ち着かせる。
小さな輝きは、いつか訪れる、魂を待つように。
アデルがこの世から去ることになっても、その魂は小さな友人たちが守り続けてくれるだろう。
妖精と会話をすることはできない。ローザの言葉が、彼らに伝わるかもわからない。
それでもローザは口に出さずにはいられなかった。
「……ありがとう、あたしたちの、小さな隣人」
どういたしまして、と。明滅する妖精たちが言っているように、ローザには見えた。
***
一般的に、〈星葬画〉と呼ばれる絵には、いくつかの条件が必要とされる。
まず当然のことだが、いずれ死を迎える者、あるいは死を迎えた者を弔う絵であること。
そして、死者の魂が宿ること。
しかしこれは、死を前に描かれた〈星葬画〉は該当しない。正確に言えば、〈星葬画〉として認められないのだ。
だが、魂が死したのち、絵に宿させることができる。
画家が、死者の幸福を祈ること。そして、〈星葬画〉を示す『呪い』を絵に印すこと。
〈星葬画〉の歴史は古い。
千二百年余りが過ぎるオネスドク古王国の建立の時よりはじまり、現代までその文化が長く続いている。それだけ人々の暮らしに根付いた葬送の儀式であるのだ。
歴史は変われど、印は変わらない。印には〈悪しき獣〉を退ける『魔法』が込められているのだという。
それは魔術師が紡ぐ魔術式のようとも例えられるが、魔術の素養も心得もないクロードからすれば、ピンとくるものはなかったけれど。
(普通の〈星葬画〉だな)
もちろん、出来としては申し分のない、優れた〈星葬画〉だとクロードは思う。
ローザがアデルやコリン、ギレッド家の使用人の話を聞いて、そして小さな妖精の友人たちと相談しながら描き上げた絵は、奇しくもクロードの求める湖の〈星葬画〉だった。
これが〈妖精國〉の扉を開く、鍵になるのだろうか。
(いや、まだ何かが足りない……)
幼い頃に眺めていた、湖の〈星葬画〉。
ローザの描いた〈星葬画〉は、夏の湖で、青く澄んでいる。記憶の奥底に眠る青とは、何かが違うのだ。
クロードの脳をちり、と焼けるような感覚が襲う。
美しい一枚の絵。赤い焔が舐める。熱い。熱い。溶けていく。
違う。息が苦しくて、まるで、溺れているようだった。
冷たいのだ。あの水の奔流の中でもがくクロードの手を救いあげたのは、いったい誰だったか。
美しい女だった。綺麗な色をした瞳の女だった。
それは、人間だった。
おそらく、妖精ではなかった。
(あの瞳……どこかで、見たような…………?)
「クロード、先生?」
思考を遮るのは、〈妖精國〉の扉を開く『魔法』の使い手の少女。
瑠璃色の瞳が、不安げにクロードを見上げている。
(まさか、……まさかね)
ふいによぎった憶測を、しかし、クロードは拭いきれない。
クロードは弟子の少女の頭を撫でながら、彼女の描いた〈星葬画〉に静かに金色の眼差しを向けた。
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