【5】折れない、花のような女の子

 ちょっと風が吹いただけで簡単に折れてしまいそうだな、というのが、〈ミュトス〉の新入りローザに対する、ベティの率直な印象だった。

 十五歳と聞いていたが、小柄で、躰の線も細いのだ。

 彼女の師であるクロードは食生活が雑すぎる。あまりいいものを食べさせてもらえていないのかもしれない。彼女の食生活がベティからすれば心配に思えた。

 ローザは末の八歳の弟に似て、ひどく臆病な娘のようだ。ビクビクとクロードの躰に隠れるローザはあまりにも弱そうに見えて、ベティの保護欲がこれ以上なくかき立てられた。

 だが、彼女は〈異端画〉を描いた人物である。

 その強い意志が、容易く手折られるはずがない。

 ただ、弱いだけの存在ではなかったのだ。

 マークに毅然とした態度で立ち向かうローザを見て、ベティは密かに認識を改めた。

 この子は、折れない。

 何があっても、自分を貫くだろう、と。

 ベティはちっぽけながら、画家としての貫禄を備えた少女に、敬意を抱いていた。


 ***


 ローザは最後まで泣かなかった。強い子だ。

 赤くなった目元を隠すように顔を俯けるローザに、ベティは努めて明るい声色で提案する。


「ねぇ、ローザちゃん。紅茶のクッキーがあるんだけど、食べる?」


「……食べたい、です。その、ベティさんのケーキ。美味しかった、です」


 クッキーと聞いて、彼女の瑠璃色の瞳が輝きを取り戻す。落ち込んでいても、食欲があるのは、いいことだ。

 ローザは「美味しい美味しい」口にしながら、クッキーを頬張っている。

 素直で嘘がつけない性分なのだろう。彼女はお世辞ではなく、本当に世界で一番美味しいだと喜んでくれているのだ。


(ふふっ。嬉しいこと言ってくれるじゃないの)


 ベティはお菓子作りが好きだ。パティスリーで働く未来も有り得ただろう。

 そんな今では考えられない未来を想像しつつ、ベティは口を開いた。


「ローザちゃんは、疑問に思わなかった? あたしが何で、お菓子屋さんじゃなくて、画家見習いをやっているのか」

 図星だったのだろう。彼女は目を泳がせながら、はい、と困った表情で頷いた。


「その、ごめんなさい……」


「どうして謝るの? 別にローザちゃんだけじゃないよ。クロードにも聞かれたし。初めて顔を合わせたときに、『おまえ、こんなにケーキが美味しく焼けるのに、どうして画家なんてやってるんだ?』って正面切って言われたからね」


 クロードは他人に興味を示す人間ではない、とベティは思っている。

 しかし、そんな疑問を抱くほど、ベティのケーキを美味しいと思ってくれたのだろう。その質問をしたのちに、彼はケーキを三回おわかりしたほどなのだ。

 思えば、正直なところも師弟でそっくりだ。

 微笑ましさを覚えながら、ベティは続けた。


「あたし、本当はね。料理が好きだから、自分の食堂を開きたかったんだ」


 でも、夢は叶わなかった。


「数年前に母さん、亡くなったの」


 ある時、父親は若い女に誑かされて、家を出て行った。

 ベティが十四歳の頃の話だ。

 ベティには弟と妹が四人いる。

 父という大黒柱を失って、もともと裕福とは言い難いベティの家は非常に困窮した。

 ベティは日中食堂で働いていたが、夜は別の酒場で働く時間を増やした。

 ベティの母は、寝る間も惜しまず働いた。

 日々を生き抜くためにも、だいぶ苦労を重ねたのだ。

 結果として、無理がたたったのだろう。

 ある日、倒れた母はそのまま帰らぬ人となった。

 〈星葬画〉の文化は庶民にも根付いている。

 しかし、日々の生活にも困る有様で、〈星葬画〉なんてとてもではないが用立てられない。


「お金がないのに、母さんの〈星葬画〉が欲しいって、弟と妹たちにねだられたの。あたしは無理だよって、言えなかった」


 〈星葬画〉を描いてもらうのに、銀貨が何枚必要となるか。当時のベティは知らなかった。

 それでも、パンやお肉がお腹いっぱい買えること。成長期の弟妹に新品の服を用立ててあげられることは、分かっていたのだ。

 決して、今のベティたちに必要なものではない。

 だが、幼い弟妹たちは求めた。

 失われた母の姿に、縋るように。


「だから、食堂でお世話になってる女将さんにさ、給料を前借りして、なけなしのお金を握って〈ミュトス〉に駆け込んだの。その時偶然にも、ジョヴァンニ先生に会ったんだ」


 その時のジョヴァンニはまだ、〈ミュトス〉の親方ではなかった。だが、先代親方のトラヴィスの右腕として、優秀な活躍をしていたのだという。


「みすぼらしい格好をしたあたしなんか、門前払いされると思ったけど、温かいお茶とお菓子でもてなして、話を聞いてくれて……そして、〈星葬画〉を描いてくれた。無償でね」


 それからジョヴァンニは、ベティたちに支援すると申し出た。

 破格の待遇である。彼が同情から言っているのだろうことは、ベティにも分かった。

 話を横で聞いていたトラヴィスは困ったような顔をしていた。こうした特別扱いは、本来あってはならないことなのだ。

 だから、ベティはその申し出を断った。〈星葬画〉の代金も、時間がかかるだろうが、いずれ返すと彼に伝えた。

 とはいえ、こどもの真っ当な稼ぎだけで、生きていくことは難しい。

 もっと稼ぎのいい――例えば躰を売ることもベティは考えていた。

 その考えを見透かしていたのだろう。ジョヴァンニは提案した。


「そして、ジョヴァンニ先生が提案してくれたのよ。働き口に困っているなら、〈ミュトス〉で働かないかって」


 ベティは初め、画家になるつもりはなかった。そのため、下働きとして雇われた。

 室内外の掃除をしたり、泊まり込みで働く画家のために料理や、休憩用の茶菓子を用意したり、こまごまとした雑用である。けれど、給金には色をつけてくれた。


「身分不相応な待遇だと思っていたわ。でも、プライドなんてなかった。ジョヴァンニ先生に甘えた。それから数年後、〈ミュトス〉の代替わりがあって、……色々とジョヴァンニ先生は苦労されたのよ」


 話すと長くなるので、ベティは軽く流して続けた。


「〈ミュトス〉のために身を粉にして働くジョヴァンニ先生の姿を見て、あたしも画家として支えたいと思って、弟子入りすることに決めたの。もともとあたしも、人を幸せにする〈星葬画〉を描きたいと思ったから」


 その想いの丈をぶつけたときの、ジョヴァンニの笑顔は忘れられない。


「ローザちゃんの訴えを聞いて、同じ気持ちだなと思った。でも、それ以上だなとも思った。あんな風にさ、絵が描きたいって熱い気持ちぶつけられたら、あたしももっと、頑張らなきゃって背中押されたよ」


「ベティさん……」


 鼻をグズグズと啜る少女は、どこか頼りがない。末の弟のように臆病で、でも勇気があって泣かない。

 ハンカチで鼻水をかませながら、熱い想いを胸に秘めている少女の成長を、ベティは密かに楽しみに思った。


 ***


 ベティに妹のように甘やかされるのは、恥ずかしかったが、不思議と心地よい。

 お姉ちゃん力が強いのだろう。

 次第に落ち着いたローザは、ベティに頭を下げて口にする。


「ベティさん。お願いが、あるんです」


「なぁに?」


「今あったこと。ジョヴァンニさまと、クロード先生には、内緒にして、くれますか……?」


 するとベティは複雑そうな顔で、ローザを見つめる。


「それって、ジョヴァンニ先生に、余計な心配かけたくないから?」


 ローザはその問いには答えず、聞き返す。


「ベティさんは、どこから話を、聞いていましたか?」


「大きい声だったからね、エントランスにいても何やら言い争っているのは聞こえたけれど……。はっきりと聞いたのは、『異端の画家だからやめろ』のくだりからかな?」


 ローザは内心胸を撫で下ろす。

 三人が話していた内容のすべてを、ベティは聞いていなかったらしい。


〈妖精の愛し子〉。


 彼らがクロードに対して向けた悪意。

 もし、争いの原因を聞かれたら、話はそれ以前までに遡るだろう。

 そのとき、彼らが口にしていた内容は、クロードの耳には入れたくなかった。

 ただ、それをベティに言えば、余計に拗らせそうだ。ベティは優しい女性のようだから。


「あたし、ジョヴァンニさまと、先生……クロード先生にも、心配、かけたくないです」


「そっか。わかった」


 ベティはあっさりと頷いた。深入りする様子もないようで、ローザはほっとする。

 それからベティは温かいお茶を入れ直してくれた。

 彼女はとても、話がうまい。今彼女が凝っている茶の話だけで間を持たせた。


 ***


 結局、クロードは来客対応に時間がかかってしまったらしい。

 むくれた顔のクロードを引きずって休憩室に訪れたジョヴァンニは、「お待たせしてすみません」と申し訳なさそうな顔でローザに謝罪した。

 申し訳なく思うのは、ローザも同じだ。彼も仕事が忙しい中、時間を作ってくれているのだから。

 服装こそ乱れてはいないけれど、少しやつれた様子の彼に、ローザは絵の題材が決まったことを伝えると、自分のことのように喜んでくれたのが、とても嬉しかった。

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