【3】悪意を口にする者
通された部屋に、ひとの姿はない。
ベティは休憩場所、と言っていたので、他の画家たちは作業場に詰めているのだろう。
六人掛けの丸くて大きな机が六つ。
部屋に入って右奥には、大きな書架が置かれている。隙間がないくらいに、ミチミチに本が並んでいた。
「ローザちゃん。こっち。ほら、ここに座って」
ローザがきょろきょろとしていると、ベティが部屋の奥の、書架に近い椅子を引いた。
ベティは慣れているのか、手際がいい。テキパキと茶菓子の用意をした。
「これ、ベティ特製蜂蜜のケーキ。結構自信があるの。お店で売れる出来って、ジョヴァンニ先生に褒められた実績があるほどにはね」
なるほど、ケーキは見た目も凝っていた。焼き色は均等で、生クリームは形よく絞られている。
(お、美味しそう……!)
ローザはフォークを持った手を膝上に乗せて、内心では、今にもフォークを突き立てたい衝動と戦っていた。
「こっちは豆のお茶。珍しいでしょ? あたし最近、お茶にハマっててさ。香ばしくて美味しいのよね。ローザちゃんは、豆のお茶、飲んだことある?」
ローザは首を横に振る。ローザの目の前に置かれた、湯気が立ったお茶はなるほど、香りがよい。
どうぞ、と促され、ローザは早速ケーキを口にする。
(ううっ、お、美味しすぎる……!)
蜂蜜のケーキは、素朴な甘さが絶妙だ。卵と乳の主張はバランスよく、舌触りはふんわりと柔らかい。
「すごく、美味ひいです、ベティさまっ。今まで食べたお菓子で、一番美味ひい!」
「お気に召したようで、良かったわ」
ローザの忖度のない素直な称賛に、ベティは照れた表情で、頬をかいた。
「それと、あたしのことはベティでいいよ。あたし、下っ端中の下っ端で、全然偉くもなんともないからね」
「はひっ」
ローザはモグモグと口を動かしながら、頷いた。
しかし、こんなにもお菓子作りが上手なのに、なぜお菓子屋さんで働かないのだろう。
ローザは密かに思ったが、ケーキとともに嚥下した。
彼女にも事情があるのだろう。
それを知るほど、ローザとベティは親密な間柄ではない。
ケーキをモグモグと口いっぱいに頬張るローザの頭を撫でて、ベティは言った。
「それじゃ、あたし受付に戻るから。何か用事があったら、遠慮しないで言ってね」
「はひ」
「お菓子のおかわりのご注文は、いつでも承りますので!」
ベティは八重歯を見せて笑う。可愛らしい女性だ。ローザも思わず笑みがこぼれる。
ベティは手をひらひらと振ると、休憩室を後にした。
***
ポツン、とひとり残されて、休憩室には静寂が訪れた。
ローザはお茶を飲み干し、小さな吐息をこぼす。
正直に言うと……安心している。
ベティは悪いひとではない。むしろ、とてもいいひとだ。
彼女を見ていると、村にいた面倒見の良いお姉さんを思い出す。
おそらく、下に弟妹がいるのだろう。それも、飛びっきり手が焼ける子だ。彼女は明るくて気遣いもできる。ジョヴァンニの弟子と言われて、しっくりくる人柄だ。
それでも、会ったばかりでふたりきりでは会話が持たないし、緊張してしまう。
(あたし、ベティさんと、仲良くなりたいな……)
彼女の気さくな笑顔を思い出しつつ、ローザは濡れ布巾で手を拭いた。
それから、誰もいない部屋の隅々を見渡す。食べ終わり、手持ち無沙汰だったのだ。
受付の広間とは異なり、休憩室には絵が一切飾られていない。客人を通す部屋ではないからだろう。若干残念に思いながら、ローザは席を立つ。
背後にそびえ立つ書架を見上げて、ローザは息を呑んだ。革張りのものから、布張り、紙を紐で括り付けただけのものまで、様々な書物が収められている。
(本、たくさんあってすごいなぁ。あたし、文字、読めないからなぁ……)
それでも、ちょっとだけ読んでみたい。ローザは本に触れるのも初めてなのだ。
ローザがドキドキしながら適当な一冊に手を伸ばしたその時、休憩室の扉がキィ、と音を立てて開いた。
ローザは慌てて、机の下に身を隠す。
よくよく考えれば身を隠す必要はなかったのだが、何故か躰がそう動いていたのだ。
ローザは椅子の足の隙間から、こっそりと様子を窺う。
(あ、あのひと……!)
ローザはブルリと震えあがる。
部屋に入ってきたのは、男が三人。
いずれも若い。二十代半ばか。〈ミュトス〉の制服を着ているので、休憩しに来た画家なのだろう。
金髪の、制服をだらしなく着こなした男。濃い茶髪で眼鏡をかけた男。そして、黒髪の近寄りがたい雰囲気を持つ男。
そのうちの一人には見覚えがある。
ジョヴァンニがバセット村に連れていた、弟子のひとりではないか。
「ようやく一仕事終わったぜ~。最近は雑用ばっか任されてさぁ、ろくに絵が描けないっつーの」
男たちは部屋の入口近くのテーブルに陣取った。ローザには気づいていないのだろう。大きな声で話し始めた。
(どうしよう、どうしよう。あのひとたち、入口近くにいるから、出るに出られないよ……)
ローザとて他人の話を盗み聞く趣味はない。
だが、大きな声に自然と意識が向かってしまうので、結果、耳に入ってしまうことになる。
「随分お疲れの様子ですね、ランドル。雑用とは、どのような?」
金髪の男は、ランドルというらしい。机に両腕を乗せ、顎を乗せている。
彼は不満そうな声色で答えた。
「修繕対象となる〈妖精画〉の点検~。王室が保有しているやつだから、あの美人だけど超厳しー王女様じきじきのご依頼で、納品時期も絶対厳守」
「へえ。価値のある〈星葬画〉も見られて、いい経験になるのでは?」
ランドルと話しているのは眼鏡をかけた男だ。こちらはランドルとは異なり、礼儀正しく椅子に腰かけている。
どこか羨ましそうな響きを含む男の声に、ランドルは冗談じゃない、とばかりに反論する。
「おいおいロジャ~~~? だったら俺も尻尾振って、あの氷のような王女様に頭を下げてやるよ? けどな、残念なことに俺が任されているのは、最近の、比較的新しいただの〈妖精画〉なんだよ。古く稀少な〈星葬画〉は、ジョヴァンニせんせ自らが確認されるの。俺は見せてすら貰えない立場ってワケ」
ランドルはフハーと大きく溜息をついた。
「修繕も、他の画家が対応するんじゃない?」
「それなら、君の同期である私の出番も、ありそうにないですね」
それから一瞬の間を置いて、ロジャーと呼ばれた男が続けた。
「……テリーでしょうか? 弟子の中では、一番の年長者で、経験もある」
「テリーは今、〈星葬画〉の案件が立て込んでいるから、難しいだろうな~。あと順当に候補にあがるならセシリア嬢か? 前に、修繕の対応を主導で行って、せんせからの評価も高かったし……」
彼らの言葉に出てくるのは、ローザの知らない名前ばかりだ。
ローザはふと疑問に思う。
〈ミュトス〉の規模、つまり画家は、どれほど所属しているのだろう。
ローザが知る限り、〈ミュトス〉に所属する画家はクロードを含め、村を訪れたジョヴァンニの弟子、ティムやベティ、そして今ここにいる彼らいずれも、二十代半ばに手が届かない若者ばかりに思える。
画家組合の長であるジョヴァンニでさえ、二十九歳と年若いのだ。
彼が画家組合の親方に就任した時期は不明だが、比較的、若年層で構成されている点は、よくよく考えてみると、不自然に思えた。
(ジョヴァンニさまは以前、〈ミュトス〉は最も古い歴史があって、王室からの信頼も篤いって言ってたけど、それなら、若いひとばかりで構成されてるのも、なんか変、だよね?)
「……あいつじゃねぇの? ジョヴァンニせんせお気に入りの、クロード坊や」
ローザが静かに考えを巡らせていると、ようやく知っている名前が出てくる。
その名を挙げたのは、ランドルだ。
ローザの胸が、ドキン、と跳ねた。
思わず声を上げそうになり、慌てて両手で口を塞ぐ。
ランドルの口調は、皮肉気で、あまり好意的には感じられない。
「さすがはジョヴァンニ先生に溺愛された弟弟子サマ。いや、私の王子様だっけ? 目に見えて、優遇されているもんな~」
「しかし実際に、実力は伴っているでしょう?」
ロジャーは、ランドルを窘めるように言う。
「宮廷画家になるよう、打診を受けたと耳にしました。しかし……彼は蹴ったそうですね。自由に絵を描きたいというだけの理由で」
初耳だった。ローザは驚いて、今度こそは声を上げそうになる。
宮廷画家とはいかなる存在か。以前ジョヴァンニが教えてくれたので、常識に乏しいローザでもかろうじて知っていた。
(宮廷画家って、王侯貴族専門の、画家になるってことだよね? そんな話が来るなんて、先生ってやっぱり、すごい画家なんだ……!)
『国一番の画家』と称されるほどなのだから、おかしな話でもないのだが、それにしても彼はいささか若すぎる。
そんな光栄な打診を断るなんて。自由に絵を描きたいという理由で。
先生なら有り得るなぁ……とローザは内心、腑に落ちていた。
「宮廷画家の打診を蹴った⁉」
しかし、ランドルは信じられないのだろう、驚愕で声を張り上げる。
「オイオイマジかよ、ありえねーだろ! 宮廷画家になったら、〈ミュトス〉を抜けても裕福な生活が一生保障されたも、当然だぜ?」
それだけ、彼にとって自由とは遵守されるものなのだ。
ランドルは次第に落ち着いたのか、しばらくして、ポツリ、と呟く。
「いいよな、〈妖精の愛し子〉は。妖精にも愛されたら、王家にも認められる絵なんて、そりゃあ、パパッと描けちまうよな~」
(〈妖精の、愛し子〉……?)
聞き覚えのある言葉に、ローザは目を瞬く。
あれから結局、聞けずじまいだった。ジョヴァンニ自身も失言のていで漏らしていたし、当の本人には聞きづらい。
後日ジョヴァンニに改めて確認することもできたが、ここのところアデルの〈星葬画〉で頭がいっぱいになっていて、すっかり忘れていたのだ。
「……たしかに、そうかもしれませんね」
初めはクロードをかばう素振りを見せていたロジャーも、ランドルに同調していた。
「な、そうだろ!」
「〈妖精國〉に迷い込んで、妖精女王にお気に入りの印をつけられたら、人間の世界にいる妖精も、彼を標に集うでしょうから」
「宮廷画家にならなかったのは、あいつの忠誠は我が国オネスドクの王にはなく、妖精の女王サマに忠誠に誓いを立てたからかぁ。あいつは人間ではなく、妖精の子だからな!」
ランドルはケタケタと、声をあげて笑った。
(……ひどい)
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