【15】クロードの昔話

「――僕の母親は、『お姫様』だった」


 何でもないようにさらりと言う彼の口から出てきたのは、およそ想定外な言葉で、ローザは唖然とした。

 クロードはローザの驚愕を置いてきぼりに、話を続ける。


「『お姫様』はとある貴族の次男に嫁入りした。貴族といえど歴史は新しい。祖父が商売で手に入れた金で爵位を買い上げた。いわゆる成金というやつだね。それに、爵位を継承するのは基本的に男の長子と決まっている。法的には平民と変わりない。金持ちのボンボン相手に『お姫様』は嫁ぐことになった」


「えっ、ほ、本当に、ですか? 先生のお母さんは王女さまで、先生、貴族の生まれなんですか……?」


 ローザはそこまで聞いて、思わず怪しむ声をあげてしまった。

 田舎の村育ちのローザでも、自国の王室の系譜くらいは知っていた。

 狭い村の娯楽は限られる。

 もっとも手頃に楽しめるのは『おしゃべり』だ。村の中の話に飽きれば、村の外に興味は向けられる。

 王都の流行だったり、王都の有名人だったり。遠い王都の話でも、人知れず狭い村に伝わっている。

 広く人の多く集まる王都は次から次へと話題に事欠かない。特に王家や貴族の生活は華やかなもので、その分、醜聞も耳にするのだ。

 前代の王に兄弟姉妹は多くいたけれど、水面下で王位継承の闘争が起きていたのか、彼以外の王子王女は全員が成人を迎える前に亡くなった。

 前代の王の第一子である現王は今年で三十歳。

 唯一の妹姫である王女殿下はローザと年が変わらないと聞いている。クロードよりも年下だ。

 首を捻るローザを眺めながら、クロードは答えた。


「彼女は、『自分の住んでいたお城』以外の生活には不慣れな、お嬢さん……『お姫様』だった」


 クロードは口角をわずかに上げる。

 まるで、いたずらが成功したときのこどもと、似たような表情が浮かぶ。

 ようするに、彼が口にする『お姫様』というのは暗喩なのだろう。彼にしては珍しい冗談のようだった。

 それでも。かすかな違和感が残る。

 『お姫様』が貴族の家に嫁いだのが事実であれば、クロードは貴族の出であるということになる。

 たとえ爵位継承がひとりと定められていても、彼の言うところの金持ちのボンボンにあたるのだから、それなりに豊かな生活が保障されているはずだ。

 しかし、この三階建の家屋での慎ましい暮らしは、華やかな生活とは縁遠い。

 クロードは婿、つまり彼の父親の出自について、否定はしなかった。

 未だ疑い半分で困惑気味のローザを気に留めず、彼は続けた。

 すっかり内容を覚えてしまった本を読み上げるかのように、声音には抑揚がない。


「父も、父の両親も、彼女をたいそう可愛がった……と聞いている。『お姫様』はとんだ箱入り娘だった。教養こそあるが、無知で、純粋で、無垢だった。『お姫様』との暮らしは毎日が驚きの連続で、彼女はどんなにささいな幸せでも、喜んでみせた。父たちが愛でたのは……そう、それは、親が稚いこどもを可愛がる類のものだろうね」


 クロードは冷静に分析する。自身の家のことなのに、どこか他人事のような口ぶりだ。

 『お姫様』は、彼自身が見たものではなく、誰かから伝聞したもののように思えた。

 ローザはそっと想像してみる。

 美しく可憐な『お姫様』。小さく素朴なお城で、優しい『王子様』に傅かれている様子を。

 クロードとよく似た面差しの彼女は、好奇心を隠さない瞳をキラキラと輝かせる。

 頬は薔薇色に染めて、幼いこどものように無邪気に笑う。

 彼女はどれほど幸福だったことだろう?

 思わずはにかむローザに色のない視線を向けて、クロードは言った。


「妻として、母としての彼女は、僕にはよくわからない。父母ともに子を愛していた、とは聞いているけれど。何せ彼女は、いや、父母は……僕が七つのときに亡くなったから」


(え……?)


「正直、ほとんど何も覚えていない。顔も、声も」


 幸せな生活の終わりに、ローザは信じられない思いで、口を挟んだ。


「せ、先生、あのっ……」


「作り話ではなく、事実だよ。それと、おまえは勝手な思い違いをしそうだから、先んじて伝えておくけれど。父母が亡くなったことを、僕は何とも思っていないよ。あまりにも幼い頃の出来事だから、僕の中ではそういうものだと認識している」


 クロードの口調は終始淡々としていて、熱がない。


「薄情と思われてもかまわない。一般的に、よほどのことがない限りは、子は親を慕うし、親を亡くしたときには、悲しむものだからね」


 僕はそういう人間をこれまでに何人も見てきた。

 言い切られると、ローザにはそれ以上、何も言えなくなってしまう。

 ローザは何か言おうと口を開いては、しかし何も言えずに口を閉じる。

 クロードは続けた。


「何も知らない僕にとっては、彼女の姿をかたちづくるのは、人づてに聞いた話。だから、僕にとっての母親とは……誰かの記憶によってかたちづくられた、何かなのだろうね」


 クロードはそう締めくくると、長い髪を耳にかけて、再び頬杖をついた。


「話はおしまい。これで、おまえの先の問いに対する回答になった?」


「……あっ、はい。な、なりました」


 ローザは反射的に頷いた。クロードは「よかった」と、ちっとも喜んでいるようには思えない声音で言った。


「話すぎて僕、喉が渇いた」


「あっ、はい、飲み物、用意します……」


 ローザはいそいそと、彼の空杯に葡萄酒を注いだ。

 ローザは葡萄酒の瓶を腕に抱えたまま、長話を終えて、わずかに疲れの色を見せるクロードの姿をぼんやりと眺めた。

 静かに杯を傾ける彼は、言葉に偽りなく両親の死をわりきっているように見えたけれど。そう簡単に思えるものだろうか。

 両親の存在さえ希薄なローザでも、えも言われぬ喪失感を抱いているのに。


(かたちづくるのは、人づてに聞いた、思い出話で……。お母さん、は、記憶によってかたちづくられた、何か……)


 ローザは母の姿かたちも知らないし、彼女にまつわる話は何も残されていない。

 それでも彼の話でようやく、何となくではあるものの、糸口が掴めたような気がした。


(でも、どうして先生は、お家の話を、してくれたんだろう?)


 絵や仕事に関する話題の時だけ、やけに饒舌でも、基本的には寡黙なひとだ。

 自分のことはあまり話したがらない。

 クロードはローザに興味があると言った。

 ローザだって、クロードに興味がある。この不思議に満ちた、彼のことを知りたいと考えている。

 でも、話したがらないなら、聞き出すのは躊躇われる。

 〈妖精の愛し子〉。

 いつかジョヴァンニが教えてくれた言葉も、気にかかっていた。

 彼は一体、何物なのだろう? 何を考えているのか、どういうひとなのか、ローザはもっと知りたい。

 こんな気持ち、初めてだ。

 理由もわからず、胸がムズムズする。

 ローザがそっと心臓に手を当てると、クロードはローザに、はっとするような金色の瞳を向けていた。


「せ、先生? なんで、しょうか……?」


「おまえ」


 クロードは飲みかけの杯を置くと、わずかに腰を浮かせる。右手を伸ばし、人差し指をローザの額に当てた。


「ひっ、いたっ」


 また何か、機嫌を損ねるようなことをしただろうか。やはり、話したくないことだったのだろうか。

 ローザが顔を青ざめて酸欠の魚のように口をパクパクと動かすと、クロードはグリグリ、と額を揉み解す。


「皺ができてる。余計なことを考えていたら、ひらめきが逃げてしまうよ。おまえは絵を描くことだけ、考えるといい」


 絵を描くことだけ。その言葉に、ローザは強く感銘を受けた。


(そうだ。先生のことも、気にならなくはないけど。でも、今はアデルさまの〈星葬画〉を描き上げることが、一番大切だもの……!)


 そして必要な構想の欠片は、彼のおかげで手に入れられた。


「先生っ!」


 ローザは両手で、目の前にある彼の右手をガシリと掴んだ。掴まれたクロードは想像しなかったのだろう、ビクン、と躰を跳ねあがらせる。

 骨ばった、あたたかな掌。

 彼がこの手で多くの絵を生み出してきたように、ローザも〈星葬画〉を描くのだ。


「先生、先生! あたし、描けそうな気がしてきました! ひらめき、忘れません! 先生のおかげです! ありがとう、ございます……!」


 ローザの勢いに飲まれ、たじろぎながらも、クロードは。


「だから……。描けそう、じゃなくて描くんだってば……」


 と、ぼやいたのだった。

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